第十章 たくさんの羽(3)正義という呪い
取るものも取りあえず、リサは走り出し、それから、後ろを振り返ってノナに言う。
「カバン持って来て!」
カバンの中には星芒具が入っている。それさえあれば、どんな敵だろうと相手にできる。……だが、またやらかした。カバンを取らずに走り出してしまった。
空冥術の使えない自分は、ただの女子生徒に過ぎないと、あれほどまでに痛感したあとだというのに。
自分の中の正義の心が、足が走り出すのを止めてくれない。
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旧校舎の入口は閉まっていた。当然だろう。いまは使われていない建物なのだから。
鏡華を運び込んだのだから、どこかは開いているのかもしれない。だが、すべての入口を試しているような余裕は、リサにはない。
リサは、躊躇なく、旧校舎の窓ガラスを叩き割った。
そして建物の中に跳び込むと、鏡華が縄で縛られていた教室――三階の角部屋へと階段を上り、走る。
部屋へたどり着くと、リサは周囲に隠れている敵がいないかどうかを一応警戒した。だが、いないとわかると、すぐに鏡華に駆け寄る。
「鏡華!」
「リサ」
リサが猿ぐつわを外してようやく、鏡華は話せるようになった。犯人は周到だ。生徒会室から見えるようなところに鏡華を転がしておきながら、彼女が声をあげられないようにしていたのだから。
……いや、待て。リサは違和感を覚える。鏡華は、生徒会室から見える旧校舎の部屋に転がされていた?
これがもし、鏡華が行ったはずの四ツ葉会館の旧生徒会室なら、旧校舎の影に隠れてしまって、生徒会メンバーには気づけなかったはずだ。だから、鏡華を拘束した犯人は、生徒会室がどこにあるかを知っている人間だ。
「鏡華、いったい何があったの。誰がこんなことを……」
だが、鏡華は憔悴しきっていて、震えているばかりだ。
「言えない……」
「え?」
「言ったら、次は絶対に殺すと脅されたもの……」
「それって、わたしたちの知ってる人?」
リサの問いかけに、鏡華は危うくうなずきかけたが、慌てて首を横に振る。
「し、知らない! 知らない!」
「鏡華……」
なにがあったのかはわからない。だが、鏡華が相当怖い目に遭ったということは、リサにも容易に理解できた。
鏡華は、自分の両の二の腕をしっかりと握って、安心させようとしているリサの手に気がついた。リサは星芒具を持っていない。これではまるで、九月に『大和再興同友会』に誘拐されたときと同じだ。
「リサ、あなた、また星芒具なしで来たの?」
「う……。うん。いてもたってもいられなくなって。でも、すぐにノナが届けてくれるよ」
「リサ、いい? これは非難じゃないんだけど」
「うん」
「あなたの正義感。それは……、呪いだわ」
呪い――。
――いいかい、リサ。賢い人には、賢い人がしなければならない使命がある。強い人には、強い人がしなければならない使命がある。
――だから、賢くなりなさい。強くなりなさい。そして、自分に賢さと強さが与えられたことについて、その意味を考えなさい。
リサは姉のミクラから、長年聞かされていた言葉を頭の中で反芻する。
そうだ。これは、もし姉が失踪していなかったらこうしただろう、ということを、わたしがやっているにすぎないんだ。
じゃあ、姉が失踪していなかったら、いまごろ、わたしは――。
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リサが鏡華を連れて旧校舎から出ると、騒ぎを聞きつけたセキュリティサービスのスーツの男たちが鏡華を連れていった。彼らにとっては、極力、鏡華の自由を侵害しないよう、遅くなっても校内に入らないようにしていたことが仇となった形だ。
リサはその段階で、ノナから通学カバンを渡されたが、もはやすべて終わったところだ。星芒具の出番はない。
「逢川」
寺沢にそう言われて、リサはきょう初めて、彼の顔をまっすぐに見る。だが、想像以上に彼の目は不信の色で染まっていた。
「なに?」
「会長は、逢川のせいであんな目に遭ってるんじゃないだろうな」
心を切り裂かれるような質問だった。ほかならぬ寺沢から、こんなことを言われるなんて、心外だった。だが、否定することさえままならない。
「……鏡華は、犯人はわからないと言ってた」
「……そうか」
「じゃあ、帰りましょうよ。先輩たち。もう遅いじゃないですか」
いい意味で空気を壊してくれたのは、またしても黒田だった。こんなときには、彼の無神経さはありがたい。
「そうだね、帰ろう」
リサはできるだけ動揺を隠しながら、しかし喉から絞り出すような声で、ようやく、それを言うことができた。
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リサたちが去ったあと、寺沢は、新校舎北館の生徒会室の書類を書棚に片付けていた。これが終われば、生徒会室を閉めることができる。
すると、突然、部屋の明かりが消える。
そして、暗がりのなかに、彼にとっては、いつか見たことのある人物が現れる。
フードを目深にかぶり、銀色の髪をした、褐色の肌の女。フードのせいで片眼しか見えないが、闇の中で、赤い瞳が異様なまでに煌々と輝いている。
「……あんたがやったのか」
寺沢はそう言ったが、それ以上言えなかったというのが正しい。
彼女が微笑む。それだけで、まるでその場のすべてが圧し潰されるような恐怖を味わったからだ。
「わたしは、リサが活躍する場をつくってあげたいの。これは、その簡単な予行演習」
「なに……?」
「リサは、わたしのところへ来るべきだわ。なのに、『総合治安部隊』も本人も、まるでわかってない。だから、わからせてあげるのよ」
「そんなこと、俺に話していいのか? 俺が話せば――」
「いいえ」
「は?」
「あなたは話せない」
「なんだって――」
「話そうとすれば、殺すもの」
「え――」
「わかってないようね。わたしは自白しに来たんじゃないの。口止めしに来たのよ。あなた、気づきそうだったから」
「口止め――?」
寺沢はすでに、未知の恐怖によって、完全に思考力を奪われていた。
「それに、リサにきつく当たるのは、わたしが許さない」
「あ、ああ……」
力なく、肺の空気が口から漏れただけのような肯定に、女は満足げに微笑む。
「では、ごきげんよう。もうあなたに用はないけれど」
そう言って女が立ち去ってから、寺沢は足の力が抜け、その場に両膝をついて崩れ落ちた。
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