第38話 「シンカイ?」Bパート

 女性は隣室の呼び鈴を何度も鳴らしていた。石田が背後を通り過ぎる間にも、それは続いている。部屋の主が留守であるのに、この女性はどのようにしてエントランスのオートロックをかい潜ったのだろうか。


 懲りずに扉をノックし、ドアポストを覗き、最終的には扉のノブまで回し始めた。


 この時間帯は、きっと留守のはずだ。


 ポケットの中に小銭が入っているのか、彼女が動く度にジャラジャラと音が鳴り響いた。通り過ぎる際に気づいたが、彼女はやけに身長が高い……。ちらりと見えた横顔は、肌が瑞々しかった。予想以上に幼い印象だ。


 石田が自室の鍵を鞄から取り出し、鍵穴に差し込んでいると、かたわらから刺すような視線を感じた。


 首筋が、何となくむず痒い。


「何でしょう?」


 ゆっくりと首を回転させた石田は、女性の方へ視線を向ける。すると彼女は驚いたように目を見開き、「……はっ!」と短い奇声を上げた。


 気づかれていないとでも思ったのか。これは悪いことをしてしまった。彼女は表情を固定させたまま、石田の顔をじっと見つめている。


 やがて「……あのぅ」と間延びした声を発すると、隣室の扉を指差しながら、「この部屋の人って、留守ですかね?」と尋ねた。


 この上なく、留守であろうに。


「そうみたいですね」


「いつ頃戻られるか分かったりします?」


「いえ」と答え、石田はひと呼吸おき、「……すみません」


「そっかぁ」


 目の前の女性は、あまりにも軽い調子だった。隣人の不在に対して気に止む様子も、焦りも一切見せない。


 口元に咥えた白いスティックを指でつまむと、中から丸い飴玉が現れた。彼女は飴玉を見つめ、考え込むように押し黙っている。


 そろそろ、部屋に入りたいのだが……。


 自室の方へと向き直った石田は、鍵を回した。扉を開き、中に入ろうとしたところで彼女がまたも質問を投げかけてくる。


 それは、石田の意表を突くものだった。


「あの、すいません!」


「まだ何か?」


 石田は扉の内側に半分身を沈めながら、少々うんざりした様子で答えた。


「ていうかこの部屋って、さんの部屋で間違いないですよね? 最近引っ越したって聞いたけど、ここで合ってんのかな。やっぱ連絡してから来れば良かったかぁ……。まっ、どのみちまだ帰ってないんなら一緒か。せっかく引越し祝いにサプライズで色々と――」と、質問を投げかけた後も、彼女はブツブツと独り言を呟き続けている。


「……シンカイ?」


 石田は以前、隣人から引越しの挨拶としてクッキーを頂いている。不在時だったため直接対面はしていないが、メモに名前が残されていた。名前は確か――。


「あ、やっぱり部屋間違えてます?」


「確かそちらのお宅にお住まいなのは、《足立さん》ではないかと……」


 彼がそう答えると、女性は見るからに動揺した表情を浮かべ、「あっ! えーと……そう! 足立さんっ!」と答え、視線を泳がせた。「何で間違えちゃうかなぁ……」


 奇妙な空気を埋めるため、彼女はさらに言葉を並べ立てる。


「えっと私、足立さんとは同じチームで、えっと……そうだ。私、咲月さつきって言います! 今日は引っ越し祝いで驚かそうと思って、えぇと……」


「そうですか」


 他にどう答えれば良いものか。どんくさい印象を与える少女である。部屋を間違えたのだろうか? それとも――。


「し、失礼しました!」


 素早くお辞儀をした彼女は、駆けるようにエレベーターホールに去ってしまった。


 ようやく帰宅できた石田は、ベランダに出て外の景色を眺めていた。夕暮れの太陽光は赤みがかり、住宅街の屋根は統一感のある鮮やかな暖色に染められている。


 先ほどの出来事がどうにも頭から離れない。”シンカイ”なる人物を訪ねてやってきたあの女性は、隣人がこのマンションに最近越してきたばかりだと話していた。


 石田の知る”足立”という隣人もまた、先日越してきたばかりである。


「…………」


 正直、詮索はしたくないけれど……。


 ベランダを端まで歩いた石田は、後ろめたさを感じつつも隣人のベランダを覗き見た。そこには大量の洗濯物が干されていたが、下着が干されていなかったことには少なからずほっとする。


 タオル、ワイシャツ、ワンピースなど、様々な衣服がハンガーに掛けられていた。


「あれは……」


 窓にほど近い、石田から見ると最も奥まったところに、奇妙なものが干されていた。


 艶のある黒い全身タイツ――。手首や胸、腹などにはシルバーのボタンのようなものが配置され、各ボタンの中央に青いガラスのような素材が、……LEDライト?


 石田は腕を組み、しばらく頭を巡らせた。けれど、理解には及ばない。何か特殊な環境化で着用するスーツだろうか。


 隣人のもの? それとも、別の誰かの所有物……?


 そうこうする間に、どうやら時間切れのようだ。彼は思考を停止させ、静かに作業を開始した。

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