第36話 「来客中でしたか?」Bパート
帰宅後、ルーティンを終えた坂口はいつものように仮眠をとった。
夕方に目を覚ました彼は顔を洗って珈琲を淹れ、しばらくの間は新聞の続きを読み耽った。気づけば窓の外は、すでに太陽の光を失いつつあった。
「そろそろかな」
彼女が今まで訪問してきた時刻になると坂口は立ち上がり、冷蔵庫に冷やしておいた手土産を取り出した。『お願いごとには手土産が必要である』と、以前に知人から教えてもらったことがある。
足立の趣味嗜好についての情報は未だ限られていた。アルコールが好きなこと、読書や新聞にはまるで興味がないこと、他には顔の整った俳優が好きだということくらいだ。
与えられた選択肢の中から、手土産に最もふさわしいと思われるアルコール飲料を坂口は帰り道に仕入れていた。それらをビニール袋に詰め、部屋を出る。
坂口の方から足立の部屋を訪ねるのは、今回が初めてだった。部屋に植物や本はあるだろうか。我が家のパキラよりも大きいだろうか。そんなことを思いながら、彼は呼び鈴を鳴らした。
ベルが音を立てた途端、室内で大きく足音が響いた。しばらく待っていると、幾分か控えめになった足音がゆっくりと玄関に近づいてくる。
「…………」
束の間、無言の時間が続いた。
気配を丸出しにした彼女が扉のすぐ向こうに佇んでいることは明白だったが、ノックをした方がマナーとして正解なのだろうか? 坂口がそのようなことを考えていると、「あっ!」という声が聞こえ、家主が扉の鍵を開けた。
僅かな幅だけ扉が開くと、「坂口さん!」と足立が弾んだ声を出しながら顔を覗かせた。外で見かける時とは違い、赤いフレームの眼鏡をかけた彼女は髪を後ろで一つに束ねている。
「こんばんは」
坂口が挨拶をすると、「ど、どうしたんですか?」と、足立はどこか落ち着きのない表情をしながら尋ねた。
「これ、良かったらどうぞ」
坂口は袋一杯に入った缶チューハイを足立に見せた。彼女は袋の中を確認すると、「えっ……、あっ!」と目を見開いた後、「……なぜに?」と間の抜けた表情で首を傾げた。
手土産である。と公言してはいけないというのが、教わったルールだ。
「差し入れです」と答えた坂口は、ひとまず笑顔を見せる。
「あぁ……」
今までの足立の行動パターンから、およそはしゃいだ様子を見せると坂口は確信していたが、実際の彼女は戸惑った素振りを見せながら、彼の手元やマンションの廊下を忙しなく眺めている。
「もしかして、来客中でしたか?」
不自然に少しだけ開かれた扉の隙間に立つ足立は、部屋の中を執拗に隠しているように思えた。「出直しましょうか」
「いえいえ、そんな! 私一人ですけど?」
彼女は意味深な様子で、頭を激しく左右に振っている。
「そうですか。実は――」と坂口が要件を言いかけたところで、突然部屋の奥から甲高い笛のような音が鳴り響いた。
「あっ! 忘れてた!」
彼女は慌てて部屋の中に走り去る。勢い余って押し開いた扉の向こうには、坂口の部屋と同じ構造の短い廊下が見えた。その先のキッチンで吠え続ける薬缶や、またその奥に広がる部屋までも……。
最奥には特徴的な柄をしたピンクのカーテンが引かれ、その手前には白い木製の脚部をしたベッド、カバーのかかったハンガーラックなどがあった。
「あれっ……」
乙女チックな空間にはおよそ似つかわしくない代物が、カーテンレールにぶら下がっていた。
まるで映画のゴーズトバスターズで登場したマシュマロマンの姿を彷彿とさせる、膨らみのある真っ白なつなぎ服。胸や腹の辺りからは数本の管が伸び、さらに目を引いたのは、顔をすっぽりと覆い隠すほどに大きな透明のヘルメットだった。まるで、NASAの宇宙飛行士のような――。
コンロの火を消して振り返った足立は、扉が開いていることに気づくと途端に青ざめた表情を浮かべ、慌てて玄関に戻ってくると、「ごめんなさい! 今日はその……、体調が悪いのでまた今度にしてもらえますか?」と有無を言わさず扉を閉めてしまった。
唐突に閉ざされた扉を坂口はしばらくの間黙って見つめていたが、再ぶ開く気配もなかったので、今日のところは大人しく引き上げることにした。
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