第6章

隣人の秘め事

第39話 「未来が見えるんだよ」Aパート

 寝間着姿にサンダルを履いた前野は、ゴミ袋を片手にマンションの廊下を歩いていた。


 室内の整頓に留まらず、ゴミの分別方法や捨て方にも強いこだわりを持つ彼は、当然ながら捨てに行く曜日や時間帯も正確でなくてはならない。適当にごまかす連中は許しがたい。生ゴミの袋に入ったプラスティック容器や紐で縛っていない雑誌類、無造作に捨てられたダンボールなどは論外である。


 まったく。近頃はゴミ捨て場を綺麗に使わないやからが多い。生ゴミの袋は二重にするのが鉄則だろう。もし破れでもしたら、カラスや野良猫に餌をくれてやるようなものだ。


 理想は小分けにした袋の口をしっかりと縛り、そのうえでゴミ袋にまとめていく。奴らの執念は本物だ! それくらいしなければすぐに嗅ぎ分けられる。空き缶はきちんと水ですすいでから潰して出しておくべきだ。そうしないとかさばるうえに、缶に残った液体が臭いを放ち、虫がたかってくる。ペットボトルだって――。


 前野がそこまで考えたところで、エレベーターが四階に到着した。乗り込んで扉を閉めようとすると、そこへ駆けてくる男の姿があった。


「おはようございます!」


 扉が閉まると、エレベーターは一階に向けて下降を始めた。爽やかな表情で挨拶を寄こす隣人の手には、紐で縛った新聞の束があった。


「おう」と無愛想に返事をしながら、前野は男の手元が気になり、ちらちらと眺めている。


 妙な結び方だな。いや、あれは……。業者がホームページで推奨している三重の輪を作って縛る方式か! あの方法なら、たとえどんなにいいかげんな野郎が持ち上げても解ける心配はないはず。時おりゴミ捨て場で見かける模範解答のようなゴミは、こいつの仕業だったか。


 前野は一人、心の中で興奮を抑えきれずにいた。


「……まずいな、こりゃ」


 男の持つ新聞の束をじっと眺めたまま、前野は無意識に呟いていた。男は新聞の束を目の高さに持ち上げ、彼の顔を見る。


「これではダメですか?」


「いや、大変素晴らしいという意味だ」前野は少し間を置き、「――俺の中ではな」


 男はポカンとした表情を浮かべていたが、やがて「そういう表現もあるんですね」と言うと笑顔になった。


 部屋に戻った前野は、パソコンの画面を見ながら牛乳を飲んでいた。お決まりのロングカーディガンは着心地が良く、涼しげな風鈴の音色は心を和ませてくれる。溜まったゴミも捨て、部屋も気持ちもこの上なくすっきりとしていた。


 ところが、これでもかというほどに気分が乗らない。


「……風呂だな」


 前野は気分転換を兼ねて、定期的に銭湯へ行くことにしている。それも昼間に行くのが贅沢な気がして特に好きなのである。


 風呂に行く際は決まって麻のシャツに外用のサンダルを履くことにしていた。その姿が最も風通しが良く、風呂上がりに最適なのだ。


 小銭用のがま口財布だけを手に、彼は部屋を出た。タオルや石鹸などは現地で調達する。身軽で涼しげ、それが銭湯を訪れる際のルールだ。


 住宅地をしばし歩き進むと、目当ての銭湯がある。かなり年季の入った木造の家屋で、ちょっとした地震で瓦礫の山になるのではないかと来る度に心配になる。


 暖簾のれんを潜り、サンダルは靴箱に入れる。でかでかと番号の記載された木板を抜くと、鍵がかかる仕組みだ。玄関には腰の曲がった番台のじいさんが座っており、入浴料を払って引き戸を開けると中はすぐ脱衣所である。


 タオルなどの必要なものを棚から手に取ると、賽銭箱のような小箱に金額分の小銭を入れる。自己申告制という、いかにもローカルな仕掛けであるものの、金額をごまかすような奴はいない。両替機もないため、素人は小銭を忘れることもあるが、番台のじいさんは両替には応じない。なぜなら――。


「小銭のある分でいいよ」と、言うからである。


 損得勘定の欠けたじいさんのため、常連客は絶対に小銭の準備を怠らないのだ。


 脱いだ服をロッカーに突っ込み、差し込み式のディスクシリンダー錠を抜くと、ゴム製のストラップを腕に巻いて浴場へ向かう。


 まずは、身体の洗浄だ。公共の場にも、相応のルールが存在する。いきなり浴槽に向かってダイブなんて真似は子供ですら許されない。


 もしルールを破ろうものなら、その瞬間に銭湯の主が一喝を浴びせ、とびきり熱い湯の中で説教をされることだろう。


 この銭湯の主は、一番右奥に設置された地獄の湯と呼ばれる適温を遥かに凌駕した湯に一人ぽつんと浸かる『やまさん』である。あのじいさんに目をつけられるのだけはごめんだ。


 適当な洗面台に腰掛け、前野が湯を流し始めると、隣に座る全身泡だらけの若者がこちらを見つめていた。

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