第37話 「シンカイ?」Aパート
美術部の活動を見届けた石田は、電車に乗っていた。刻限は迫っている。
空席の多い車内に座る彼の耳には、イヤホンを通して心地良い音楽が流れ込んでいた。
あの子がよく弾いていた、ワルツ・フォー・デビイの音色。最近は耳にこびり付くほど聴き続けている。
美しきメロディは心に安らぎを与え、なおかつ、憂いも蘇らせるものだ。
いつかは終わりにしなければならない。もしそうなったら、前に進めるだろうか。
先日は遠藤に対して申し訳ないことをしてしまった。今日は二人で話す機会にも恵まれず、彼女も石田も部活を見に行ったきり、顔を合わせなかった。また後日に謝罪したほうが良いのかもしれない。
「…………」
ところで発車以来、石田はある男に目を奪われていた。先ほどから車両内を何度も行ったり来たりしている男である。
サスペンダーをした小太りなその男は、一眼レフカメラを首からぶら下げ、車内のあらゆるスポットをところ構わずに撮影していた。
意図は不明だったが、今のところ実害はない。他の乗客も石田と同様に彼の動向を目の端で捉えつつ、監視対象といった具合に押し黙っていた。
赤いキャップを深々と被り、無精ひげを生やした男の胸元では、アニメに登場する美少女が膨らんだ下腹部によって顔を歪めている。
初めは景色を撮影したり、誰もいない席の手すりなどを眺めていたが、男の行動は徐々にエスカレートし始めていた。向かいに腰掛けた女性は、男に声を掛けられている。
しばらくやり取りがあったのち、女性は迷惑な表情を浮かべながら席を立つと、別の車両に移動してしまった。残った男は女性の消えた座席を熱心に撮影し始めている。
あの座席に、何か意味があるのだろうか?
男の行動を奇妙に感じた他の乗客も何人か別の車両へ移動してしまうと、残ったのはスーツを着た睡眠中の男と、優先席に腰掛ける杖を差した老人だけになった。
次に停車した駅で、男女の二人組が乗車してきた。
男の方は西洋人である。さらりとした金髪にパステル・ブルーの瞳。マンションの同階に住む男といい勝負に思えるほどに背が高い。洒落た柄のアロハシャツに、ベージュのステンカラーコートを着用していた。
連れの女性は日本人のようだが、目の覚めるような美人であり、神々しい雰囲気を醸し出していた。艶のある長髪を根元から落ち着きのある茶色に染め、赤い花柄のワンピースの肩にデニムジャケットを羽織っていた。
二人は、例の席に並んで腰掛けた。
未だイヤホンで耳を塞いでいる石田に、二人の声は届かない。けれど休みなく会話を続けていることは、眺めているだけでも分かった。互いの身振りも大きく、何事かを主張し合っているようである。
カメラを持った男が二人のもとへ駆けていくと、例のごとくあれこれと話しかけている。この二人もまた、席を立って別の車両へ移動してしまうのだろうか。
女性は男の顔をじっと見つめたまま、ゆっくりと立ち上がる。
――そして、意表を突く鋭いスナップ。
イヤホン越しにも響く、強烈なビンタだった。カメラを持った男は頬を押さえながらその場を立ち去り、そそくさと別の車両へ逃げてしまった。
女性の行動に対してひどく興味が湧いた石田は、咄嗟に片方のイヤホンを外し、二人の会話に耳を傾けた。会話はすでに佳境を迎えつつあった。
「――と言ってもね、君はそうやってすぐ手を出す」
西洋人の男は、流暢な日本語で女性を叱りつけている。「相手が失礼だったとはいえ、あまり感心できる行為ではないな」
「だから、悪かったわよ」
好戦的な目つきのまま、女性はしょぼくれた様子で西洋人に謝罪した。「でも、腹が立ったんだから仕方がないでしょ」
「そらこれだ! 君には全く反省の色が見えない」
「だって、ジャンはあんなこと言われてなんとも思わないわけ?」
「いいえ、僕なら決して手を出したりはしないよ」西洋人はぴしゃりと言い放ち、「君がお見舞いした一発を見て、気分がすっきりしたのは確かだけどね」と、包み込むような笑みで付け加えた。
「ほらね。間違ってはいないのよ」
「いいえ。反省はすべきです」
「はぁ……。悪かったわよ」
女性はその後、じっと押し黙っていた。カメラを持った男と彼女の間でどのようなやり取りがあったのか、結局は分からず終いだったが、気づけば石田の心も幾分か晴れやかな気分になりつつある。
心の中でひっそりと彼女に感謝を捧げつつ、石田はイヤホンを再び耳に挿し直した。
マンションのエントランスを潜った石田は、時間短縮のため郵便物の確認を省いてエレベーターに乗った。
四階に到着し、廊下へ一歩踏み出したところで、進行方向に人影が見えた。403の扉を熱心に見つめている。見かけない顔だ。
かろうじて耳が隠れるほどのショートカットヘアー。輝くほどに白い首筋には、黒いチョーカーが巻かれていた。
ゆったりとした黒いニットの下にストライプパンツと、およそ男性的な服装をしているが、恐らく女性である。隠しきれない色香から石田はそう判断した。口元には煙草のような白いスティックを咥えている。
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