第7話 ボクシング〜金髪美女登場

 職場近くのボクシングジムをやめて、しばらくたち、前回のジムの3ヶ月申し込み特典としてもらったグローブとバンデージが、むなしく部屋に転がっているのを眺めていた。


「もったいないから、もう一回、違うとこ探してみるか」


 『そんなに高額ではない、なるべく家の近所のジム』を探していると、職場と自宅の中間地点くらいに24時間営業のジムをみつけた。しかも、『グループクラスはありません!』との注意書きまで。なんと私の希望通りの個人練習主体のジムではありませんか。


 さっそくお試しコースを予約して、放置されていたグローブとバンテージをバッグに詰め込みいざ突撃。


 以前のジムはダウンタウンのどまんなかにあって、冷たい水と清潔なタオルがあちこちにおいてあり、他にもスカッシュのコートや筋トレ用のジム、なんならカフェまで併設されて至れり尽くせりだった。


 別に『超おしゃれ』ってわけではないけど、仕事帰りにイマドキのスポーツウェアに身を包み、高そうなヘッドホンをしながらワークアウトにいそしむ、わりと意識高い系の会員が多かったように思う。


 そのわりに、スタイルのいい人をそれほど見かけなかったのが、謎なのだが。


 前回のジムが『イマドキ・意識高い系ジム』ならば、今度のジムは、『ザ・昭和、明日のジョー系ジム』だった。


 昔、たぶんなんかの倉庫だったと思われるコンクリートむき出しの古い建物は、中に入ると、天井は高いけど、配管丸出しで、どこを向いてもおしゃれ感はゼロ。


 フロントとジムエリアを分けるのに、しめ縄みたいな縄が一本渡されているのは、何かのまじないなのか。


 着替え専用の部屋はなく、ふたつあるトイレ兼バスルームを使用。筋トレエリアの片隅には、常連さん用なのか、ワゴンにコーヒーカップがわんさか置いてあるがコーヒーメーカーはない。なんのためのカップなのか、いまだに不明。


 初回はお試しコースなので、トレーナーがつきっきりでコーチしてくれる。


 前回のジムでは、3ヶ月見よう見まねの練習だけなので、ぼんやり基礎知識があるのと、簡単なパターンの打ち方がなんとなくできる、くらいのレベルなことを正直にトレーナーに告げる。


「ああ、そういうジム多いね。うちに来る人も経験者だからっていきなり打ち始めるんだけど、基礎がなってないんだよ。うちはみっちり基礎からやるから」


 と、基礎中の基礎だという、足の運びの練習を鏡の前で繰り返し、グローブをつけることもないまま、ステップと打ち方の型の練習でその日は終了。


 これはガチだな。


 見渡せば、来ている人は、どっかの会社からタダでもらったようなTシャツに、色あせたズボンで、黙々とトレーニングしている。が、みんな一様に体は絞られている。


 気に入った。


 午後から夜間まではトレーナーが常駐していて、それ以外の時間帯は個人練習いうシステムで、一人が大好きな私にはぴったり。


 そうはいっても、基礎を教えてもらわなくちゃ話にならないので、当座はトレーナーがいる時間帯に通うことにした。


 私の就業時間が特殊なため、私がジムに行く時間帯は閑散としており、数人のガチ男子会員の中で、またも異彩を放つ小さなアジア人おばちゃん。


 私しか生徒がいなくて、3人の腕を組んだ屈強のトレーナーにとり囲まれ、「ワンツー、ステップ、ステップ」をやるはめになったこともあるくらいだ。


 そんなある日、ようやくトレーナーから、「そろそろグローブをつけて練習しよう」と告げられた。ワクワクでグローブをはめてサンドバックの前に立ち、言われた通りにパンチを繰り出す。


「……ほんとうに力いっぱい打ってる?」


 真顔で聞かれる。


「はい、それはもう」


 沈黙。


 

 猫パンチでも、亀フットワークでも、サンドバッグを相手に汗だくで打ち込んでいると気分は爽快。「今日もやってやったぜ」と、意気揚々と帰路につけるってもんだ。


 ある日の午後、ジムにめずらしく女の人がいた。なにせ、ガチジムなので、会う人会う人、男の人ばかり。よく見ると、女の人はそのジムのTシャツを着ていて、つまりトレーナーだった。


 ガチ男子会員を相手に、身振り手振りを交えながら熱心に指導している、細身ながら筋肉質、きりりとした青い目の金髪美女。


 かっこええ。


 もちろん私のところにも来てくれて、さっそく自己紹介をしてくれた。アクセントの感じから、たぶんヨーロッパ系だと思われる。


 自己紹介の後は、さっそく熱の入った指導が始まる。しかし、私はあることが気になって、どうしても気持ちが集中できない。


 彼女は、『隣のトトロ』の野球帽をかぶっていた。


 昭和系ボクシングジム、金髪美女のトレーナー、そしてトトロの野球帽、のトリプルコンボ。


 脳内の処理がついていかない私を置き去りに、彼女は引き続き、熱のこもった指導を続ける。


 「腕の長さとサンドバックとの距離を考えること、足の向きに常に気をつけて……」


 ひと通り練習が終わったあと、どうしても聞きたかったことを聞いてみた。


「あの、それ、『トトロ』だよね?」と帽子を指差す。


「日本人なの? ……井上尚弥、知ってる?」


 唐突な井上尚弥の登場。


 そこからは彼女、立て板に水の勢いで、いかに井上がすごいボクサーか、彼のパンチは寸分違わぬ正確さで、撃ち抜いてくるのだ、などと語る語る。


 そういえば前のジムでも井上尚弥のことを「今、もっとも熱いボクサーのひとりだ!」とかなんとか、トレーナーたちで盛り上がっていた。


 あまりの熱弁にリスニングの集中力が切れてきたころ、急に耳に飛び込んできた「だからね、私たちみたいに体の小さい人は、井上みたいなボクシングを目指すべきなのよ!」という彼女の熱い言葉。


 へ?


 そもそも『私たち』っていっても、金髪美女と私の間には、越えられない壁が高くそびえ立っており、ましてや、『井上尚弥』って。


 彼女はその美しい青い瞳で、じっと私を見つめている。


「……オ、オーケー!」


 ああ、オーケーしちゃったよ。

 一緒に『めざせ井上尚弥』になっちゃったよ。


 そんで、なんでトトロなんだよ、帽子。






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