25日目 AM
展覧会 2日前
長く続いた雨が止むと、今度は日ごとに陽射しの力が強くなってくる。今朝はついに制服を長袖から薄手の五分袖のブラウスへと替えた。ここまで暖かいと暖炉掃除もしなくていいし、水仕事のつらさも和いで洗濯がはかどる良い季節になった。
裏庭のイチイの木は青々と茂り、花壇の花たちもぐんぐんと背を伸ばしつつある。あとひと月もすれば、庭の主役は春の花から初夏の花へと様変わりしていくだろう。
宮廷画家のアトリエの窓も開いている時間が増えた。花盛りのこの芳香は、多忙な彼の慰めになっているだろうか。
「フローレンス様、レンブラントさんから伝言を預かりました。展示作品の配置の件で相談したいことがあるそうです」
午前の光が差し込む明るいアトリエで、フローレンスは真剣な表情で最後のキャンバスに向き合っている。自分の半身ほどの大きなキャンバスの前に跪いて、まさに今サインを入れようとしているところだった。
「少し待って──きっとこの絵のことだ……っと」
「わ! イーゼル倒れますよっ、手伝いましょうか?」
「いい、まだ乾いてないんだ。あとで運ぶよ、これが最後の作品だ」
「昨夜も遅くまでアトリエにいらっしゃったのですか? その、お顔に、隈が……」
「ん? ああ、うん。どうしてもこれを間に合わせたくて」
「……あっという間でしたね。いよいよ明後日と思うと、私もわくわくしてきます!」
レイングランドの春の芸術祭と合わせて、このたび新しい宮廷画家がシュインガー宮殿に誕生する。
レイ・フローレンスは多くの新作を、また彼の師である先代の首席宮廷画家ゴルド・アッシュは多くの未発表作品を展示することになっている。
宮殿には国内外の貴族や芸術家が招かれ、作品は一般客にも公開されるとあって、明後日の展覧会はたいへんな注目を集めているようだ。
「そういえば君も、当日は観客として見に来るのだったね」
フローレンスは作業用の
「はい! 明日は一日、お休みをいただいております。
「大げさだな。毎日見てるじゃないか」
「いえいえ、額に入れられて飾られているのを見るのは、アトリエで見るのとまた別物ですよ……! まるで我が子の旅立ちのような感慨を受けます」
「我が子、って」
今後の主人の活躍や、いつもの宮殿と違う開かれた空気に浮かれている私は、フローレンスが言葉を詰まらせたのも気にせずぺらぺらと喋りながら、彼と並んでアトリエを出る。
城内ですれ違うメイドや執事たちも慌ただしくしているが、活気があって悪い感じはしない。やはり一般公開というイベントは特別で、賑やかになるだろうシュインガー宮殿を、私たち使用人一同も大いに楽しみにしているのだった。
「フローレンス様が一筆一筆、大切に描かれている様子をいつも見ているものですから……完成して、それを多くの人に見てもらえるというのは、嬉しいものだなって」
「そんな風に感情移入する観客は多くはないと思うけど……まぁ、今回は良い出来だと自分でも思うよ。テーマが良かった」
「春、ですよね?」
私のお気に入りの
「それは見てのお楽しみ」
「……はい! 楽しみにしています!」
頭を下げる私に穏やかな微笑みを残して、展示の最後の仕上げをしに、フローレンスは扉の向こうに入っていった。
§
『乙女』の肖像を巡る一連の騒動が解決に向かったあの夜から、今日で十日ほどになる。
あの日、雨の降り続く中、ロッテ・ブラウンとシルバ・ハワードの手によって『乙女と四季』は、無事アッシュ家に戻された。
フローレンスの説得を受けたブライト伯爵は、養子とその恋人の犯行について一切の責任を追求しなかったらしい。警察の捜査は打ち切られ、翌日の新聞には早速こんな記事が載った。
『消えた乙女、ブライト伯爵家に戻る──春の芸術祭での展示に期待』
記事を寄稿したのはウィリーで、ブライト領の新設学校で無事に消えた『乙女』が見つかったこと、10日後に迫る展示会でその噂の乙女を観られる可能性があることが書かれていた。
「そんなことを勝手に決めるな」と徹夜明けのフローレンスは大いに呆れていたが、読者からの反響は凄まじく、無視できなくなったゴルド・アッシュもついに『乙女と四季』の展示を決めたのだという。
「間違いなく今回の目玉作品になるだろ! はっはっはジョーンズ警部補の悔しそうな顔が目に浮かぶぜ。これでいつかの尋問の借りは返したな!」
ウィリーは自身の記事の反響に満足していたが、その後私たちはほとんど顔を合わせることはできなくなってしまった。
芸術祭では宮廷庭園も公開されるため、その準備の中心であるウィリーも文字通り作業に忙殺されているらしい。
「やつもいい加減、本業をまっとうするべきだ。これほど庭が荒れたのは初めてだと、今朝もレンブラントが嘆いていたぞ」
「そういえば今回、ウィリーだけはずっと楽しそうでしたよね……帰りの馬車の中でもずっとブツブツ原稿を書いていましたし」
「徹夜明けの僕の部屋に押し掛けてきて根掘り葉掘り取材を受けた時は殺意を覚えたが……新聞記者というのはすごいな。あっという間に世論をひっくり返してみせるのだから」
たしかに『乙女』に対する注目や展覧会への反響は、あの記事によるところが大きい。けれどきっとウィリーの記事がなくたって、作品を観た人間は納得したはずだ。
「フローレンス様は『乙女』を盗んだ犯人なんかじゃないって、皆さんわかるはずです」
「いや、先入観は目を曇らせる。君の考えは、もともと僕贔屓だからだよ」
「そ、そうでしょうか」
ピクチャールームから私室への帰り道、すれ違うメイドたちがフローレンスに気づいて、物陰からちらちらとこちらを盗み見ている。
私は内心誇らしく思いながらも、会話の内容がほかに聞こえないように少しだけ声を落とした。
「エリザ様の具合は、どうなのでしょうね……あの絵は無事、お手元に届いたのでしょうか」
事件の真相を握っていたロッテは、フローレンスの渾身の作品と一緒に、翌朝の船便でウェーリに帰ったはずだ。
彼女の今後やシルバ・ハワードとの関係は私にとって関心の高いことだったけれど、彼らのその後の様子は伝わってこない。
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