去るメイド 3

「……エイミー?」


 駆け寄った私を、ロッテは驚いた顔で見つめている。

 帽子すら被っていない彼女のふわふわの長い髪には小さな雨粒が輝いていて、散りばめられた真珠飾りのようである。けれど顔色は悪く、体は冷えきっているのかもしれなかった。

 急いで傘を差し出すけれど、彼女の華奢な肩はすでにしっとりと濡れてしまっていた。せっかくの素敵なワンピースなのに。


 私は走ってきた勢いのままロッテの冷たい手を握って、彼女に語りかけた。


「ロッテ、驚いたわ。私、ちょうど今、アッシュ家に行ってきたところなのよ。何も言わずにいなくなってしまうなんて……とても寂しかったわ……あっ、今、急いでいる? 引き止めてごめんね」

「まぁ、エイミー、なんてこと……」


 ロッテは目を伏せた。ひどく辛そうな顔で。


「まさか、よりによって、最後に貴女に会うなんて」

「そんな……どうしてそんなことを言うの?」

「ああ、違うの、ごめんなさい、どうかしてた──きっと、これは私への戒めなのね。なにもなかったことにしてはいけないという」

「ロッテ、どうしたの……なにか悩み事があるの? だから貴女は、メイドを辞めてしまったの?」


 彼女は思いつめた様子で、私の手を握り返した。その手は冷たく、小さく震えている。


「エイミー、いま少し、話せる?」

「もちろんよ! 大丈夫、ちゃんとハンナに外出許可をもらったんだから」

「そう……、私、とても良い雰囲気のお店を知っているわ。奢るから、そこでいい? 気にしないで、アッシュ家を出るときにちゃんと退職金をいただいたのよ。ほんの少しばかりだけどね」






 凍える彼女に連れられてやってきた店は、オリエルプレイス通りの高級な飲食店にも引けを取らない、洒落た雰囲気のティー・ハウスだった。


「こ、こんなところに、普段から来るの?」


 ほかの客は、仕立ての良いスーツの紳士や、品のある淑女ばかり。

 私は場違いな使用人の制服が気になって、奥の壁側の席に座ると、入口からは見えないよう身を隠した。


 ロッテはというと、レースや飾りボタンの可愛らしいスミレ色の私服を着ていて、彼女本人のもつ淑やかな雰囲気も相まって、貴族のレディのようだった。

 もしかしたらほかの人たちには、外出中のご令嬢とそのお付きに見えているかもしれない。


 大きな旅行カバンを椅子に置き、慣れた様子で二人分の注文をするロッテを尊敬の眼差しで見つめていると、ようやくいつもの笑顔を見せてくれた。


「まさか、一人では来られないわ。……連れてきてもらうの」

「連れて……? あっ、それってもしかして、デート?」


 私は声を落として聞いた。ロッテはテーブルの上で指を組んで視線を落とし、小さく頷く。私はにわかに嬉しくなって、彼女の方に身を乗り出した。


「素敵。ロッテ、お付き合いしている人がいるのね?」

「ええ……でも、実は……もう、終わりにしようと思ってるんだけど」

「そ、そうなの?」


 しまった、と思ったけれど、ロッテは変わらず淡く微笑んだままだ。


「とても優しい人なのよ。あの人のことはとても好きだけど……でもね、絶対にいつか終わりが来るって、二人ともわかっていたのよ。──わかっていた、はずなのよ」

「そんな……どうして、別れようと……? 聞いてもいい?」

「ええ。貴女に、聞いてもらいたいわ」


 私はもしかしたらロッテが泣いてしまうのではないかと思って、注意深く彼女を見守っていた。けれどロッテは「わかってたのよ」と繰り返し、落ち着いた様子で話し始めた。


「使用人だもの。いくら毎日毎晩顔を合わせて、彼の心が手に取るように理解できるようになっても──私がなれるのは、使い勝手の良いメイドがせいぜいなの。こんな風に、素敵なお洋服を贈られて、品の良い店を一緒に出入りしたって……絶対に、そこばかりは変わらないの。……あの人の隣に、堂々とは並べない。愛人とか、お妾とか。そういうのならまだしも……わかっていたことなのにね」


 まるで彼女の悲しみを引き受けてしまったみたいに、私もズキズキと胸が痛む。

 きっと、それは、身分違いの──恋だ。……こんなところにも、あるなんて。


 なんと言っていいかわからず、私は運ばれてきた珈琲に口をつけた。温かいけれど、香ばしくてとても苦い、大人の香り。


「……っていうことは、お相手は、アッシュ家に出入りする方……なの?」


 ささやきで湯気が揺れる。

 ロッテは何度も瞬きを繰り返した。


「……──シルバ様よ」


 震える声で言う彼女はついに涙をぽたりと零した。


「……結婚しようって、言ってくれたわ。そんなこと、誰も許してはくれないのにね」

「……ロッテ……」

「そんな言葉、もちろん信じてない。それに私は、とても計算高い女なのよ。あの人に近づいたのだって、欲しいものがあったから。……手に入れるため。あの人の地位と、心を利用したの。急がないと、間に合わなくなるから。……それなのに」


 ぽとり、ぽとりと涙が落ちる。ハンカチを差し出すと、ロッテは受け取って目を押さえた。


「馬鹿よね」


 私は首を振った。慰めたくても、うまい言葉は見つからない。


「ハンカチ、ありがと。もう大丈夫よ、取り乱してごめんなさいね」


 ロッテはカップを両手に包んで暖をとり、香りを味わうようにゆっくりと口をつけた。


「……変ね、いつもはもっと美味しいのだけど」


 苦いわ、と微笑む目が、まだほんのちょっぴり潤んでいる。私はそんな彼女から目をそらして、立ち上る湯気を見つめた。


「あの、ロッテ……シルバ様は、ご存知なの? ロッテが実家に帰ってしまうこと……」


「いいえ、知らないわ。気づかれないように、急いで出てきたんだもの。シルバ様もゴルド様も、最近とてもお忙しいの。ご領地に学校をつくっているでしょう? いよいよ生徒の募集を始めるところで、あちこち根回しがいるみたいよ。なんでもシルバ様は、アカデミー志願者だけでなく、派閥を超えた若い人材を集めたいんですって。それをゴルド様はよく思っていらっしゃらなくて……親子喧嘩になっているようなの。貴族の世界もそうだけど、画壇もほんと難しいわよね」


 私は納得できなくて首を振った。

 二人は想い合っているのに。どんな理由であれ、気持ちを伝えないまま、何も話し合わないままお別れをするなんて──


「……ロッテはそれでいいの……? 後悔しない……?」


「ええ、しないわ。……私、どうしても欲しいものを、あの人にねだったの。そのせいで、彼に迷惑をかけたし。いつか謝らなくてはいけないとは思うけど、その時、きっともう彼は結婚しているでしょう。昔の女なんて、邪魔なだけ。だからもう会わないと思う。──それから、貴女にも謝ることがあるの。エイミー、手を出して?」


「な、なぁに?」

「これ、わかる?」


 ロッテは旅行鞄の中から封筒を取り出して、それを開封しながら言った。


 広げた私の手のひらに、ころころと小さな輝きがいくつも落とされる。


「えっ? ……これ、ボタン! ……もしかして、フローレンス様のシャツの……!?」

「それから、こっちも」


 今度は青い蝶が飛び出してきて、手の上にとまった。失くしたと思っていた二つが、まさかこんなところで見つかるなんて。


「そんな、ロッテ……どうして? 貴女が持っていたの?」


「本当にごめんなさいね。いつでも会って弁明できると思っていたけど、結局こんな日になってしまって。貴女に意地悪をするつもりではなかったのよ。ただ、レイ・フローレンスがお屋敷に来るのが、私にとってものすごく不都合だったの。あれこれ手を尽くしても、結局来ちゃったけどね。この青い蝶なんて、失くせば絶対困ると思ったのに……あの偽物の招待状、素晴らしい出来だったわ。彼ならきっと、絵が売れなくなったとしても模写とか贋作で十分食べていけるわね」


「そんなこと言わないで、ロッテ。さすがに怒るわ」

「……ごめん、謝る。違うのよ、私、知っているの。絵を描けなくなった絵描きの成れの果てを……大切な人を描いたものですら、手放さなくてはならなくなった悲しい話を」


 俯き、囁くような彼女の声は、よく聞き取れない。


「……ロッテ、なんの話を……?」

「ううん、なんでもない。……話し過ぎちゃった。もうそろそろ、出ましょうか。貴女のことあまり引き止めて、ハンナに叱られることになったら申し訳ないし」


 壁際の柱時計は午後の2時を過ぎている。城を出てからゆうに一時間は経っていることに気づいて、私も慌てて珈琲を飲み干した。


 大きな鞄を大切に抱き寄せ、ロッテはふと思い出したようにこちらを見る。


「そういえば、貴女もウェーリの出身だったわよね、エイミー?」

「えっ? ええ、6歳くらいまでは。でも、もうあちらに家はなくて……」

「そう。……私も似たようなものなのよ。貴女と私、よく似ている気がする。……だから最後にどうかひとつだけ、お節介を言わせて」


 店を出て、小雨の続く通りを並んで歩く。ロッテはほんのちょっぴり意地悪に微笑んで、私の耳元で囁いた。


「貴女、絵描きだけは好きになっちゃだめよ」

「えっ? 」


 目に見えて動転する私を、ロッテは可笑しそうに見ている。


「やっぱり? そうだと思ったの」

「そ、それは……えっ、いえ、その、つまり?」


「あの人たちはね、惚れっぽいの。しかも、恋の相手は人ばかりではないのよ。風景だったり、建物だったり、花だったり、そのことばっかり考えて上の空で、食事も忘れたりして。最初の頃は、会話をするのも大変だったわ」


 シルバ・ハワードと直接会ったことはないけれど、その様子はちょっとだけ想像がついた。たしかに、フローレンスもそういうところがあるから。


「──……でもロッテは、シルバ様のそういうところが好きだったんでしょう?」

「そうやって理解がありすぎると苦労するわよ。……まぁ、でも、誰にどれだけ否定されても、落ちるときは落ちてしまうものよね」


 私の差し出した傘をやんわり辞退して、ロッテは帽子を被った。優美な羽飾りのついた、深いグリーンの帽子。


「……これも、彼からのいただきものなの。濡らしたくなかったんだけど、もういいかな。さよなら、エイミー。話を聞いてくれてありがとう。またどこかで……いつか、会えると嬉しいわ」

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