花とメイド 2

「ほかの部屋の掃除や洗濯は手早くやってしまうのに、あの部屋にいるときばかりはそうではない、と。つまり、貴女が美術品を──特に絵画を好んで、よく愛でているのだということは、充分感じていました」


 ハンナには、お見通しだったようだ。

 手にじっとりかいた汗。エプロンを握りして締めてそれを拭う。


「あ、あの、私……決して、手を抜いていたわけでは」

「そうですね。ですからそれについて咎めたことはありません。むしろそういう貴女だからこそ、宮廷画家のもてなしに適しているだろうと思っての人選でした。ですがはじめ、若い女性が自分の世話役になることを、レイ・フローレンスは嫌がっておられました」


 胸がちくりと痛む。そう、彼はそういう人だ。


「存じて、います」

「私としても、悩ましいところでした。執事役にはレンブラントさんが適任でしょうが、展覧会の準備も並行して行われているこの時期、明らかにお忙しい方ですので、他の者を考えざるを得ませんでした。メイドならばジェーン・ホワイトか、エイミー・リンドベルを、と勧めたのは私」


 ふぅ、とため息をついて、ハンナは物憂げにデスクを向いた。


「レイ・フローレンスも、あなたの働きぶりを見て、考えが変わったように私には見えました。彼の期待に、貴女は応えられていると思っていたのに」


(……フローレンス様の、期待……)


 思い浮かぶのは、静寂のアトリエの中、一人ひっそりとキャンバスに向かう、彼の背中。


 芸術家は孤高だ。誰にも心の内を明かさぬまま、その情熱の全てを目の前の作品にのみ注ぎ続ける。


 そんな彼らの期待を、裏切らない。それはつまり、良き使用人であること。ある時は手として、ある時は目として。賢く正しく美しく、助けにならねばならない。

 わかっているつもりだった。


「しかし、この様子では、貴女を推薦したのは間違っていたように思えます。貴女が、そのように心乱すようでは」


 私は、何も言えなかった。ただ下を向いて、自分のつま先を睨みつけていた。


「……少し、考えましょう。専属の使用人については、彼自身にも相談しないことには決められませんので」


 はい、と呟いた声は、自分のものじゃないみたいに弱々しく聞こえた。

 沈黙は長く、私は退出することもできずにただただこの場に立ち尽くしている。

 ハンナは、デスクの上の白く可憐な花束に手を伸ばした。


「この花は、フローレンス殿ご所望の品ですか?」

「…………いえ、私が。フローレンス様は、ウェーリの自然を愛する方なので……日ごろ少しでもお部屋の中でくつろげるようにと」

「よい心配りですね」


 ハンナから手渡された白いマーガレットの花束は、すでに彼女の手によって水切りがされていた。


「今日、自分のしでかしたことをゆめゆめ忘れぬように。明日の朝までに反省文を提出なさい。今日の残りの業務も、すべて自分で行うように。ジェーンあたりが手伝いを申し出るでしょうが、彼女は本日、休日なのですから。わかっていますね」

「……はい」

「……それから、あなたの次のお休みですが」


 広げた帳面ノートに目をやって、ハンナは羽ペンにインクをつけると、何事かを新しく書きこみはじめる。


「ゴルド・アッシュ、レイ・フローレンスの展覧会の当日を、休みとするのが良いと考えております」

「えっ」


 咄嗟に声が出てしまって、私はまた自分のそそっかしさを実感する。


 展覧会については、どうにかして会場に忍びこめないかと、ずっとずっと考えていたのだ。まさか休日をもらえるなんて思ってもいなかったから嬉しい、けど──


「あの、ありがとうございます」

「いいですか、くれぐれも、良き使用人としての己の立ち位置を考えることですよ」


 最後までしっかり釘をさされて、私はふらふらとハンナの部屋を後にした。




 どうにか自分の部屋へと戻った私は、小さな花束を抱えたまま脱力してベッドに突っ伏した。


(私、このままでは駄目なんだわ……)


 自分が、どんどん変わっていくのを感じる。


 フローレンスの専属になったとき、私は思っていた。一人の使用人として、あの人の役に立ちたい、と。素晴らしい芸術家の作品のそばにいられる喜びと誇りで、胸を高鳴らせていた。


 今でもそれは変わらないけれど、もっと自分本位で欲張りな願いを持っている。


 ベッドにうつぶせて、ぎゅっと目を閉じた。ハンナのお説教、フローレンスの穏やかな笑みが浮かんでは消えていく。


(この心を乱す気持ちは、消してしまえるのかしら……以前みたいに、尊敬の気持ちだけで、あの人の前に立てるのかしら……)


 好きだとか、そばにいたいとか。そういう気持ちさえなければ。公平で冷静なハンナやレンブラントのように、使用人として正しく振る舞えるはずだった。


(……そばにいたら、駄目なのかもしれない……このまま、フローレンス様のことをどんどん好きになってしまったら、私は…………)


 こうして部屋に一人でいると、少しだけ思考が落ち着いてくる。私はこれから、どうすべきなのか。どのように彼と接するべきなのか。


(……そばにいたいなら、好きになってはいけないの。好きになってしまったら、そばにいてはいけないの。……ただそれだけのことかもしれない)


 ハンナも言っていたじゃないか。己の立場を考えなさい、と。


(私は、彼らの使用人……ただの、メイドなのだから)


 長い時間、こうして悩んではいられない。半日分の仕事が私を待っている。


 ゆっくりと身を起こし、砂埃で汚れた靴を脱いで、靴下もぽいぽいとベッド下に落とす。葉や枝で引っかき傷のできてしまった服を脱ぎ捨て下着だけになると、髪も解いてブラシでよく梳いて、きつめの三つ編みに結い直す。汚れ物はまとめて洗濯籠へ。


 午後用の制服を引っ張り出すときに、隠してあったお菓子をみつけたけど、つまむ気分にはなれなかった。


 きつくエプロンを結んで、最後に小さな手鏡でおかしなところはないかを確認する。


(……早く飾らなくちゃ)


 白いマーガレットが、しおれない内に。


 フローレンスの元へ、行かないと。

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