【転】んでもタダでは起きません、御主人様

14日目 AM

マダム・クレールの招待 1

 日が昇りきってから起床することが多いフローレンスだが、この日、私が宮殿の担当部屋の掃除を終えてから戻ってきたときにはすでにベッドの上で新聞を広げていた。


「おはようございます。何か面白い記事でもありましたか?」


 私は持っていた新しい水差しからコップに水を入れて差し出した。主人はそれを手に取り口を潤すと、物憂げに目を伏せる。


「──我が国の経済は大きな成長傾向にあり、その背景にある先進的な科学のさらなる発展を望む声と、ジューリア女王陛下の安定した御世を讃える記事ばかりだ。僕の創作欲を刺激するようなものは、なにも」

「サイアン城の改修の記事にはご興味がおありかと思いましたが」

「なんだ、読んだのか?」

「実はここに来る前に、使用人室で」

「勉強家だな」

「恐れ入ります」


 刷り上がったばかりの新聞を真っ先に読むことができるのは、起床の早い使用人としての役得かもしれない。とはいえ私が新聞記事に興味を持ち始めたのは、少しでもフローレンスとの会話の糸口になればという理由で、最近のことだ。


 最も彼の関心を引くだろう記事といったら、ブライト伯爵の絵画盗難事件だろう。ただこの頃は目立った新情報もないようで、アワーズ紙のバックナンバーは絵の具の試し描きに使われてしまっている。


 寝台に近づいて郵便物の束を手渡すと、彼は眉をしかめつつ受け取った。


「多くないか?」


「半分はお仕事関係だと思います。その上等な封筒はターナー家、サリー家からは演奏会の案内のようですよ」


 貴族たちのひっきりなしの誘いは落ち着くどころか、展覧会が近づくにつれますます白熱し始めたようであった。


「皆、何を期待しているんだか。僕は絵を描くしか能のない庶民なのに」


 彼はそう言うけれど、それこそが、ある種の人間からしてみれば魅力であることは間違いなかった。


 レイングランドの貴族は世襲制で、王族やそれに並ぶような伝統ある家系はほんの一握りだ。それ以外の——つまり上の中アッパーミドルクラスや中流といわれる人々のほうが、数の上では多い。


 フローレンスが功績により爵位を賜った暁にもまた、彼もその位置に組み込まれるはずだ。


 けれど彼の場合、与えられた領地がどれほどのものであろうと、彼がその才能で絵を描き続けるかぎり、資産は増えゆく一方だ。おまけに巨匠ゴルド・アッシュという繋がりもある。金のなる木が欲しい家は、この国にいくつもあるのだろう。


 私としては──個人的で勝手な願いではあるが──フローレンスが周囲の誘いに目をくらますことなく、これからもただ自分が目指すままに描き続けてほしい、と。そう願ってやまない。


(ファンとして。それはただ、初期からのファンとしての願いよ)


 私が口を出せることなどほとんどない。私は彼の専属だけれど、彼は女王陛下のお客様で、彼の作品は国の宝で、そして彼自身はいつか私の視界からいなくなってしまうのが当然なのだから。


 それなのにこの頃ときたら、目覚めてから陽が沈むまで、フローレンスのことだけを考えて生きている。


 人生において一番青くて甘い夢の中に、17になったばかりの私はいるのかもしれなかった。

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