メイドの憂鬱 2

 ジェーンがギャラリールームの壁画に描かれている天使様に見えたのは初めてだ。たしかあの天使は、不作に悩む民草のために天からつかわせたといわれる、肉厚で豊満な半裸の御使い様。

 もっともジェーンは、すらりと背の高いかっこいいタイプの女性で見た目は全然違うのだけれども。


「ジェーン、ありがとう! 私、本当に針仕事が苦手で」

「いいのよ、私がたまたま得意だっただけなんだから」


 そういう彼女は、ミシンのような緻密さで書庫ライブラリのクッション刺繍の直しを終えていく。ジェーンの器用さもフローレンスの独創的な芸術性も、凡人には使えない魔法のように見える。


(下手は下手なりに、気合で頑張ることだけはできるけど……)


 主人の部屋のテーブルクロスになるはずの布地を広げて、その途方もない大きさに再びため息をついた。


「私がスペシャルな技術を持つお針子だったらなぁ。こんなくらいの縫物、ちょちょいと仕上げてしまうのに」

「ないものねだりはだめよ。人は人、自分は自分。でも少しの努力は必要よね。はい、できた」


 ジェーンは糸をパチンと切って、ぐるりと刺繍を見直して頷いた。


「よしよし、完璧ね。どうしたの、そういうことで悩んでるの? 貴女らしくないじゃない。エイミーのふわっとした笑顔が私、好きよ。ほら、にっこりしてみて。そうそう、ふふ、かーわいい」

「んもう、からかってるでしょ? でもありがとう、ジェーン……うん、笑顔ね。頑張る」

「うんうん、じゃあ、私行くから。今日は昼からミスター・ハワード──もう、未来のブライト伯爵とお呼びした方がいいかしら? シルバ様が登城されるのよ。どんな御用か知らないけど、客室、私が担当なの」

「そうなんだ。あっ、そのこと、フローレンス様にお伝えしてもいいかしら? ご挨拶に伺うかもしれないから」

「問題ないと思うわ。もしそうなったら、先に連絡をちょうだいね。画家様たちって繊細な方が多いから。スケジュールが乱れると『筆がのらない!』とか言って不機嫌になっちゃうのよねー」

「わかった」


 裁縫部屋から出ていくジェーンを見送る。いつ見ても彼女の後ろ姿は凛としている。


(かっこいいな、ジェーンは)


 ジェーンは王宮のメイドになりたくて、名家の使用人として地道に努力して紹介状を手に入れた努力家だ。あと数年したらメイド長ジェーンが誕生するのでは、と予想しているのはきっと私だけじゃないはず。


(……もし、私じゃなくジェーンがフローレンス様の専属になっていたら、どんな風だったかしら……)


 そんな想像がふと頭をよぎる。完璧主義で気高い二人は、とても似合いだ。イメージするのは、早朝の雪のようにけがれない純白や、乾きたての糊のきいたシャツ。刺繍布に初めの一針を刺すときのような心地よい緊張感。


 ジェーンなら、フローレンスの気高さを誰にも汚されないよう守るだろう。

 フローレンスなら、頼りになるジェーンを好ましく思うだろう。

 勝手にふくらませた想像に、胸の奥をきゅっとつままれたような狭苦しさを感じる。


(私、ちょっと変ね……見てもいないものに嫉妬するなんて、悪いことだわ……)


 きっと疲労のせいで、こんな焦燥感と不安を感じるのだろう。今日何度目かのため息のあと、窓の外を眺めた。


 午後になりますます雲を厚くした空は、今にも雨が降り出しそうにみえた。曇天はレイングランドの春ではごく当たり前の空模様なのだけど、ここ数日お日様に恵まれたせいか、この薄暗さでどうにも気分が浮上しない。


 掃除をしていても身が入らず、気を抜くと頭の中で『麗しの宮廷画家としっかり者のメイド長』の妄想恋愛劇場が始まってしまう。いっそ楽しめればいいのに、我に返っては妙に落ち込むことを繰り返してしまい、ついに私は落胆を通り越して自分自身に腹が立ってきた。


(だめね、今日の私はおかしい。気分転換が必要なんだわ!)


 私は掃除の手を止めて、使用人通路へと踵を返した。


(こういう時は……少しだけ、ほんのちょっとだけ、寄り道をしましょ)


 使用済みの雑巾を握りしめたまま、ほとんど明かりのない狭い通路をくぐる。隠し扉のような引き戸を開けるとそこは人気のない廊下。手前の階段を登れば、女王の謁見の間と目と鼻の先である。


 けれど目的の場所はそちらではなく、この先をまっすぐ突っ切ったところにある。


 辺りを見回し誰もいないことを確認してから、私は気配を殺して続きの間を横切った。


    

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