晩餐会の夜 2
「ああ、そうか君の耳にも届いてしまったか。酷いだろう。一体どこの誰の仕業か……しかしもういいのだ、あの絵は」
「もういい?」
「警察に任せてある。それにあの乙女は、あるべきところに戻ったのかもしれぬ……と思わんでもない」
その不思議な物言いに、レイは首を傾げた。師は、かまわず晩餐会の席にレイを座らせ、疲れたため息をついた。
「あまり騒ぎにしたくなかったのだがな……」
「僕も知りませんでした。どのような経緯で描かれたものなのですか?」
「『乙女』かい? うむ……。若かりし頃の、青い思い出のようなものだ。君の年齢くらいの時に描いたものでね。いやぁ、全く、今となっては引っ張り出されるのも恥ずかしい荒さなのだが。私の原点なのさ」
師は遠い目で、宙を見ていた。
今や国内外にその名を知られる巨匠が、このように思いを馳せる過去とは一体どのようなものなのだろう。
師の瞳にどのような感情が隠されているのか、レイにはわからない。だから、頬に皺の刻まれた老紳士の、若かりし日を想像してみる。
レイと同じアトリエで彼が一人、ひっそり筆を走らせた日々を。孤独な名誉をものともせず、常に前衛たれと時代を引っ張ってきた、熱の塊のような男の姿を。
今日まで積み重ねられた年月は、とてつもない重さを持っている。
(40年後……僕は、先生のようになっているのだろうか)
常に新鮮で、力強く、長く描き続けることはとても難しい。改めて師の偉大さを思い知る。
「さあ、今夜のメインは私が切り分けるから楽しみにしていたまえ。肉は好きだったかな」
ゴルド・アッシュは、まるで久しぶりに会う息子をもてなすかのように、表情を和らげ微笑んだ。
「……先生、次の展示会に『乙女と四季』は、『春』は出品されるのですか」
「いや、いいや。あれだけは、無理なのだ。それにな、いくら若き日の作品といえど、このゴルド・アッシュの作品はゴシップに目のくらんだ連中に見せてやるような代物ではないぞ」
「そうですか……残念です。僕は拝見したかった」
「君ならそう言うだろうと思っていたよ。私もあれを世に披露できんことは、残念ではあるが。だが、我々の展覧会に、少しでも隙があってはならん。最近は反アカデミー派の連中が非公式に展覧会を開催したりと目に余る動きをしておるしな。奴らにつけ込まれかねん」
声を落として、彼は周囲に目を配った。
「……新聞に何を書かれようと、私の時代は、まだまだこれからも続く。ただの流行とは違う。真の芸術とは──そういうものだ」
「ええ、先生。そうだ、新聞といえば。実は、僕のところにも警察が来ました。どうやら盗難の犯人ではないかと疑われているようで」
「何と」
師は一瞬、鋭い目でこちらを見やり──そしてきつく口を結ぶと、首を横に振った。
「ありえない。気にするな、レイ」
「もし、あれが、先生から指示を受けた警察の取り調べだったのだとしたら、早めに誤解を解くべきと思っていました。ですが、僕の杞憂でしたね」
「どのような経緯で君が容疑者となったか定かではないが……レイ、君の筆には迷いがない。宮廷画家はその名誉と引き換えに、ある種の清らかさを要求される。表現を制限される、と言ってもいいだろう。それに耐えうる作風で、なおかつ成長を見込める者といえば私の生徒の中では君が適任だと私が判断した。贔屓のつもりはなかったが、強く推薦した。それゆえ、無駄な嫉妬を集めてしまったやもしれぬな」
「元より、覚悟の上です。選んだのは僕ですから」
師は力強く頷き、そして目尻に皺を集めて破顔した。
「若い君の道を信じている。さぁ、今夜はこのような話は忘れよう。私の友人たちに、日頃の感謝を込めた豪勢な晩餐会にするつもりだ。どうか我が家だと思ってゆっくりくつろいでくれたまえよ。食事が終われば、余興も用意してある。ほら、お前たちも座りなさい」
促されて、物言わぬ貴婦人たちがしずしずと両隣の席に着く。レイはぎょっと身を引いた。派手な色の扇子と甘い香水の香りが彼の横をよぎったからだ。
生花に、鳥の羽。レディたちの装いは年々派手になっていく。均整のとれた美しさよりも、どれだけ他の者を圧倒できるかに命をかけているような、珍妙なバランスのドレス。
「ああ、すまない紹介がまだだった。以前話したこともあっただろう、姪のレイチェルと、ベアトリスだ。君より3,4つ年下で、君のファンだというのでね。残念ながら私に子供はできなかったが、同様に可愛がってきた娘たちだよ。どうかこれから仲良くしてやってくれ」
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