2日目 PM
失くしもの 4
§
「おかしいな、招待状が、ない……?」
私はライティングデスクの前で首を傾げた。寝室にも、書斎にも、クローゼットの中にもどこにもない。うんうん唸っていると、タイミングよくフローレンスが戻ってくる。
「あっ、おかえりなさいませ」
「ああ」
彼は、スケッチブックをぞんざいにテーブルに投げ捨て、ソファに深く座ると天井を仰いで目を閉じた。昼から陽が沈むまでずっとアトリエにこもっていたのだから、かなりお疲れなのかもしれない。
目の疲れによく効くと言われるハーブを選んで、急いでお茶を淹れる。
入浴の準備をしなくてはいけないけど、その前にこれだけは確認しておかなければ。
「あの、フローレンス様。お疲れのところ申し訳ありませんが、ブライト伯爵からの招待状が見当たりません」
あたたかいカップを差し出すと、フローレンスはソファにもたれたまま視線だけを上げた。柔らかく輝く金色の髪がヘッドレストに扇状に広がっている。
「……招待状……? ああ、昼間に言っていたやつか。青い蝶を模したカードだよ。あれは市販品ではなく先生自らのデザインだろうね。あの極細の筆で柔らかく輪郭を描く表現はゴルド先生の得意な技法だ……――机の上に置いてあるはずだけど」
「ありません。引き出しの中にも、ダイニングにも、どこにも……」
「んー……?」
彼はほどいた髪をかきあげて、面倒くさそうに言った。
「掃除しながら捨てちゃったんじゃない?」
「そんなこといたしません! フローレンス様こそ、どうせろくに読みもしないでそこらへんにぽいっとしてしまったんでしょう?」
「何で決めつけるのさ。確かに僕は整理整頓は苦手だけど、それをフォローするのがメイドの仕事なんじゃないの?」
「おっしゃるとおりです。でも、肝心の物がなければ、整理も整頓もできやしませんもの」
私たちはハーブティの香りをはさんで静かに睨み合った。とげとげしいやり取りがしたいわけではないけど、私も彼も疲れているようだった。心の疲労がお互いを思い合う余裕をなくしている。
やがて先に視線を逸らしたのはフローレンスの方だった。
「……そんなひどい顔をしなくても、内容なら覚えているよ。僕は、意識的に記憶したものだけは忘れないから安心して」
「はい?」
「招待状っていうモノを、丸ごと記憶したから。現物がなくても内容はわかるよ。暗唱しようか?」
「記憶した……?」
「そう。カメラってわかる? 写真は? そう、あれと同じさ。シャッターを押した瞬間を切り取って頭の中に記憶することができるんだ。ただし写真と違って、色も、影も、全部。たとえば花弁一枚一枚の重なりも。刻一刻とかたちを変える、青空に浮かぶ雲も。水たまりに落ちた雨粒の波紋も、今にも散りそうな木の葉の揺れも。……君の怒り顔だって」
私は耐えきれずに失笑した。
「覚えないでください、そんなもの」
空になったカップに新しくハーブティを注ぐ。フローレンスに手渡すと、彼もいくらか表情を和らげて、背を伸ばして椅子に座り直した。立ちのぼる湯気を見つめて、口を開く。
「題材さえ決まれば、あとは頭の中の一枚をそのまま絵に起こせばいいだけ。画家にもってこいの特技だろう? 意識しなければ数日で消えていくけど、何度も反復すれば覚えていられる時間も長くなる。まぁ、たいていのことは、すぐ忘れるようにしてるんだけど。じゃないと、頭がパンクしそうになるんだよ」
目を瞑って、フローレンスは目頭を揉んだ。
「そんなだからなるべく人には会いたくないし、親しくもなりたくない。想像してごらんよ。好きでもない他人の顔を何人も思い浮かべながら眠るのって、結構な苦痛だろう?」
同意を求められた私は、好奇心と同情と困惑がかけ巡って忙しい頭で「なるほど」と頷いた。フローレンスのような天才にも、こんな悩みがあったとは。
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