宗教組織はただの人の寄せ集め ~群れることで信仰のさまたげに~

 こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。

 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。

『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。  

 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』



 【マタイによる福音書 15章6~9節】 



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『スポットライト 世紀のスクープ』という映画(洋画)を動画配信で見た。

 単純には、勇気をもって間違っていることは間違っていると叫ぶ勇気ある者達の戦いを描いている。出演俳優は、マイケル・キートンしか知らなかった。(笑)



 カトリック教会の一部神父による、子どもの性的虐待(この作品の舞台となったボストンという都市だけで虐待神父の数は87人、アメリカ全土なら千人を超える)を、新聞で報道するというストーリー。教会組織は欧米では考えられないほど超法規的な権限を密かにもち、その犯罪の事実を隠蔽してきた。多少はむかったところで、うやむやにされたり、握り潰されたりする。

 それでもあきらめなかった新聞記者たちの物語であるが、彼らを過度に英雄扱いするのも、また危険なことである。



 プロテスタント教会は牧師が妻帯できるが、カトリックの聖職者(神父)は結婚できない。シスター(尼さん)も、同じくである。

 だったら、それで問題が起きないかというと、そうでもない。

 歴史的に、人間として我慢しがたい欲望を、見えない形で解消することが行われてきた。刑務所などでもあることだが、女性がいないならいないで、それに代わるものでたくましく欲望を解消しようとでもするのが人間である。だから「男同士」とか、神父の場合は「教会で奉仕している子ども(少年)」 をその代わりにするとか。

 そのDNAが綿々と受け継がれてか、現代では仕方がなくというより「最初からそれが好きで」という者も少なくない。こういう時に「カルマ」という単語を使うと、皆分かりやすいのだろうか。



 欧米はキリスト教文化圏であり、教会という存在は日本人が考える以上に心の奥深くにまで根ざしている。逆らえない。問題があってもなくてはならないし、結局その巨大な組織をバックにもつ神父と戦っても、自分が火の粉をかぶるだけだと分かるので、闇で示談で済まされる。

 場合によっちゃ示談にすらならず、泣き寝入りである。

 結局、聖職者がそこにつけ込んで悪用したということである。

 本人は、つけ込んだとか悪用しているという自覚は薄いかもしれないが、やっていることはまさにそうだ。言い逃れできない。本人たちが悪いのは当然として、またそれを隠す教会組織そのものにも問題がある。



 では、考えてみよう。

 問題があるが、じゃあその問題は改善できるのか?

 改善することで、宗教組織はより良くなり、健全となるだろうか?

 宗教組織というものに関わり、ずっと見てきて指導者もやったことのある私が言うが、答えはノー。



●人間が集まって作る、というその時点ですでに——

 永遠に解決されない問題を、宿命的にもつことになるのだ。

 もう、人が数人集まった時点でジ・エンド。組織化したら終わり。

 何かしら問題が起きるようになっていて、起こらない方が不思議なくらいだ。



 映画の中で、ある人物がこのように言う。

「私は、信仰はあるが教会には通っていない。一人で信仰している。教会とは、単なる人の集まりに過ぎない。そこを分けて考えている。信仰と教会は別だ」

 人には、何かの集団に属することが宗教をやることのようにとらえているようなふしがある。逆に、何かに属していないと「宗教をやっているとは言えない」というような感覚。

 それは、はっきり間違いである。

 私が指摘したいのは、徒党を組むなということではない。信仰の同じ者同士仲良くするのは結構なことだし、それが悪いなどということはない。

 ただ、そこに神はないない。いるのは、人だけだ。

 むき出しの人間関係が、枠がただ宗教というだけで世間と同じようにあるだけ。

 ストレスも、悪口も、下手をすれば陰湿ないじめもある。



 だから、あなたがそこ(教会)に居て気分が良かったり、幸せだったりして気分がいいなら、いくらでもそこにいていいし、良いことである。

 ただ、いることでそれほど幸せ感もなく、むしろ義務感や閉塞感があるなら、即刻抜けるべき。

 真面目な宗教人なら、「やめたら神様のバチが当たる」「悪魔がつけ込んでくる」 とか、教会を離れる=信仰を捨てる、という具合に考えてやめられない場合がある。

 その場合は、安心してほしい。教会を離れることで、あなたに悪いことは何も起きない。バチも当たらない上に、悪魔も何か言ってこない。

 むしろ、その教会内にこそいるんじゃ?



 宗教やスピリチュアルをやる上で、何かの集団組織やセンターを求めなくていい。

 群れを探さなくていい。

 もちろん、有益な情報や交流を得るためには、必要な時もあるだろう。

 ただ、会社に勤めるように、「必要義務」として所属し続けなくてもいい。

 教会には「奉仕」という考え方があって、信仰が熱心であるほど教会のため、兄弟姉妹のため(信者たちに無償強制労働させるため、うまく美辞麗句化した業界用語) 教会に仕える。何かの役員をしたり、生きものがかりじゃないが無償で「~係」に名乗りを上げたりする。

 そしてそれこそがよいことであり、神に仕えること、神も喜ぶこととされる。



●はっきり言うが、神様はあんたが何をしようがどうでもええんよ。



 何で、神様がどう思うかが重要なん?

 神様か偉大でグレイトな何かか知らんが、あんた自身じゃないでしょ?

 あなたが今幸せか、そこに心の底からいたいのか、がすべてでしょうよ。

 教会を離れたら信仰を失うことになる? イエス様が悲しむ? 悲しむかい!

 そういう言い方、ズルいと思うよ。ほとんどの宗教が使う常套手段だろうけど。

 ひとりで、ぜんぜんOK。

 ただ、理解の深まりや人的交流は難しくなるので、距離感を保ってうまく利用するのがいい。で、顔を出すのも気分次第で、気が変わったら恐縮せず抜けたらいい。

 負担に感じてきた時が、やめ時である。



 宗教は、その開始時にはそれなりの理想に燃え、初心は素晴らしいものだったはず。だが、そこに人が集まり、組織ができ、色々な調整が必要になり、階級(指導層と下っ端)が生まれてきて、そこに金銭が絡んでくるようになると、もう神とイエスはそっちのけの話になりやすい。

 冒頭のイエスの言葉は、その危険性を指摘してるのだ。

 


●この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。  

 人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。

 


 皮肉なことに、イエスが言った通りにキリスト教自体が陥っているのだ。

 聖職者(神父やシスター)が結婚できないのは、イエスの教えでも何でもない。

 異論はあろうが、私にしたら人間が勝手に決めたことに過ぎない。

 人間の戒めを神の戒めとして守っているだけ。

 自然に、無理が生じる。だから、神父に男色や小児性愛者傾向が生まれる。

 機能しないなら、独身貫く制度やめればいいのに。でも、人は弱いので壊すより「これはよいものだ」と自分に言い聞かせて、そのまま利用し続ける方がラクなのだ。だから、現状維持に流れる。

 声を上げるのは、思ったより大変なのだ。

 


 今日指摘したいことはふたつ。

 ひとつ、信仰をもったりスピリチュアルをしたりする上で、組織は必要ない。

 もちろんそれは絶対ではなく、同じことを話せる友人が欲しかったり、有益な情報を得るためには他人の力が必要なので、その点は利用したらいい。

 ただし、その組織に属さねば信仰が保てない、とか離れたら自分ではやっていけない上に、悪いことがおきるかもしれない、みたいな恐れは持たなくていい。

 組織を作った時点で、その教えは矛盾を抱えることになる。

 建て前(理想)と現実の狭間を漂うことになる。

 それに耐えられない者が、罪悪感をもってやめていくが、決して幸せなやめかたにならない。



 そしてふたつめ。あなたを苦しめるなら、それは神の教えではない。

 あなたが自分に負担をかけてでも守らねばならない神の教えなどはない。

 それを名付けて「神ではない人間が出どころの戒め」と言うのである。



 組織(集団)に属していようがやめようが、笑顔であってほしい。

 ともかく、自分の選びたいように選んだ結果であってほしい。

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