イエス、十字架にかかる前に祈る ~神への祈りの流儀~

 (イエスは)少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」



 マタイによる福音書 26章39節



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 うちの親戚のおばぁちゃんが、高熱を出して調子を崩している。

 80を過ぎていて、普段から調子がいい方ではなく、心配されている。

 おばあちゃんの娘も孫もクリスチャンで、おばあちゃんの回復を神に祈っている。

 皆さんも、どうぞおばあちゃんのためにお祈りください、と言われた。



 旧約聖書に、次のような言葉がある。

 


●神のなされることは皆その時にかなって美しい。(伝道の書 3章11節)



 別の訳では、『神はすべてを時宜にかなうように造り……』 となっている。

 つまり、神はどの瞬間も「完璧を成している」ということであろう。

「すべては最善が起きている」という考え方も、これに通じる。

 ただ、そう考えた場合に壁にぶち当たる。



 神という存在が完璧でその成すところも絶対なのだったら——

 我々が祈りを通して「何かを願う」ということはおかしい。

 誰それの病気が治りますように、と祈るということは、遠回しな「神へのクレーム」である。

 だって、全知全能な神は、人間の思惑以上の知恵をもってそうしているはずなのに、人間側が自分の都合で、つまりはエゴで「身内を助けろ」と言っていることになる。神の決定が気に入らない、ということであるから。



 私のこの意見が気に入らないなら、改めて「神とは何か」を考え直したほうがいい。そのへんの矛盾を突き詰めもしないで、盲目的に神に「~してください」と祈る考えなしが多い。

 我らの熱心な祈りを聞いて何かを変更するような神なら、全知全能という看板はウソになる。

 もしも、人間の成長のために熱心さや誠実さを引き出そうとして、意図的に困難を与えているなら、世に起きる不幸や事件の中には「試練どころか、度を越してきついもの」もある。

 ならば、神は加減も知らない鈍なやつ、ということか。それかサディストか。



 私は、キリスト教を突き詰め、その最中で悟りを体験した身として、こう確信するに至った。



●この上ない、存在物の頂点(根源的存在)は、意志を持たない。

 この世界を創造したのは、自意識を持つ個としての存在である。それを神と呼んでもいいが、我々に近い存在で、間違うということもある。

 違う次元の存在なので、我々の感性とはずいぶん違う。外界の認識システムも違う。あちらが良かれと思って与えてくるものでも、こちらでは価値観の違いゆえに感謝できないようなことも起きる。それこそが、我々が「神がいるなら、どうしてこんな世界なのか」ということのひとつの答えである。



 これは、皆さんに押しつけるつもりはない。信じなくてもいい。

 ただ、私はどう考えているか、を公表したというだけのことである。

 皆さんの同意など、別に求めてはいない。

 ただ、せめて以下に紹介する「祈り」の定義には耳を傾けてほしい。



 祈りとは、次のふたつであるべきである。



①感謝を表すもの。

②要望は言うが、それは神があくまでも最善を行っている、という信頼を基本として、それでも私はこうなってほしい、という希望をあえて述べるもの。

 その際、「私としてはこうですが、最終的に起きることは受け入れます」という一言は添えること。



 ただ、~してください、~の病気を治してください、だけでは神が仕事してないみたいだ。

 神が意地悪して、誰かを病気にしてやろうと思ってやったんですか?

 願望実現や引き寄せなどの分野では、現実が気に入らないなら変えたらよい、という話があるが、それが叶うケースはかなり限定的である。むしろ、思い通りにいかないことのほうが多い。

 私は、冒頭に紹介したイエスの言葉こそが、神に要求めいたことを祈る上で一番礼儀に適っていると思う。イエスは十字架刑になる前に、どうかそれを避けられるようにと祈った。


 

「父(神)よ、できることなら、この杯(十字架)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

(神がそうしろというなら、最終文句を言わず受け入れます)



 イエスは、もちろんホンネで十字架がイヤだったから、素直にそう祈った。

 私がその立場だったら、そうなると分かっていたら絶対嫌なので、避ける方法を考えるだろう。

 でも、イエスの偉いところは、自分の願いがあくまでも人間としてのものであって、もっと上の視座からこの世界のシナリオを統括している上位存在(神)の判断には劣ることを認め、そのより知恵のある存在が 「これが最善なのだ」 と言い張るなら、自分のエゴは引っ込めてその決定に従います、と覚悟してるのである。

 その覚悟が、潔い。

「最後は、御心のままに」。その一言が言える人間は、強い。



 あなたなりの願望を口にするのは構わない。

 ただ、我々は人間自我で、自分の都合を中心に生きているということを忘れるべきではない。

 自分たちが主役なので、自分がこう思う、こうしたいという通りに生きる権利が人間にはある。

 しかし、それを超えたところから働いてくる力があり、それが何かを望むなら——

 それは、静かに受け入れるのが「人間風情」の身の丈に合った流儀である。

 スピリチュアルによっては、人間の意識の全能性をウリにして「何だってできる」と言いたいかもしれないが、それはもう埋めがたい信念の壁なので、お互い邪魔しないように棲み分けるのが吉。



 私なら、神に誰それの病気を治して、とは祈らない。

 そんな余裕があるなら、そのために自分ができることに集中する。

 それでだめなら、だめだったのだ。

 祈りによる願いの実現、ということが本当にあってほしいなら——

 最初からすべてを「完璧」に定めている神というものはないと認めるべきだ。

 だって、あなたが「こうであってはいけない」と判断できる、望ましくない状況というのが存在する、と認めるのであるから。それにゴーサインを出したはずの神に、あなたはダメ出しをするのであるから。

 神も間違う、と認める必要がある。

 だって、全知全能の存在じゃないのだから。

(最高位のワンネスは自由意志を持たないので、頼っても意味なし。頼るならナンバー2で。それはだぁれ? って聞かれても、簡単には教えてあげられない。あなた、聞いたら責任が生じますよ?)

 意思のない絶対根源の次席以下に位置し、自他の区別があり自由意思をもつ存在のすることなんだから。それを絶対神、100%ピュアな愛の神と認識しているのが宗教なのだから、どこかで矛盾や破綻が生じないはずがないのだ。

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