イエスを十字架につけたのは間違いだった。いい加減に認めません?
「もうひとつのたとえを聞きなさい。
ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕(しもべ)たちを農夫たちのところへ送った。 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
彼ら(イエスの敵対者たち)は言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
イエスは言われた。
「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
マタイによる福音書 21章33~45節
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イエスを良く思わない連中が、イエスに議論を挑む場面での一幕である。
このたとえ話は、明らかにそういう連中(ユダヤ民族の権力者層)の話である。
彼らが、このたとえ話でいう「けしからん農夫」に当たる。
僕(しもべ)、というのはイエスが来る前、旧約聖書の時代の初期に活躍した人物である。例えばノアやアブラハム、モーセ辺りである。
彼らは、民衆に神(ぶどう園の主人)の意志を伝えた。しかし、エゴ(自己の利益 )に囚われた彼らは耳を貸さず、神の言葉を軽んじた。
でも、神はあきらめなかった。ユダヤ民族を見捨てなかった。
イザヤ・エリヤなどの 「預言者(神の言葉を預かる者)」が、その後も多数世に送り込まれた。
それが、このたとえ話でいう 「他の僕たちを前よりも多く送った」という記述に当たる。
で、全部ダメでもあきらめなかったぶどう園の主人(神)は、これならということで最後の切り札、イエス(自分の息子)を送った。
しかし、これも殺された。この時点でイエスはまだ実際には死んでないが、お前らはオレを十字架に付けるよ、ということの指摘を、このたとえ話で突きつけたことになる。
イエスは、こう言っている。
家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える……と。
意味としては、本命の石が使えなくなった(使命を果たさなかった。ここではユダヤ民族たちがイエスを受け入れなかった)ので、家を建てる者たちが 「これは使えん」と捨てた石 (社会の底辺にいる者達や異国人たち)が代打として立てられた、ということである。
注意したいのは、そのあとのイエスの言葉である。
無条件の愛とやらで、ゆるしているか?
それどころか、お前らがそんなだとこういう目に遭っちゃうよ、みたいに責めている。脅している、と受け取っても間違いではない。
「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」
これ明らかに、「そうなるのは良くないねぇ」という意味合いで言ってるでしょ。
つまりはっきり「オレを十字架にかけるのは間違っている」と言ってるのである。
誰だ、イエスは十字架にかかるために来た、って言ったの?
ああ、他ならぬ『キリスト教』自身だったか。
十字架にかかることで人類をゆるし、救いの道を開くことが目的だったなら——
表面的には悪者に見えるこのユダヤ教の上層階級たちも、結局はイエス(神)の目的に協力していることになるんでしょ? 踊らされているというか。
もし、自分を十字架にかけさせるために、相手にわざと腹を立てさせるためにこの裁きの言葉を言ったのなら、イエスは相当計算高い策士だということになる。
私は、そんなことはないと思う。
ここではやっぱり、「素直な気持ち」「本当に思うこと」を言ったに過ぎない。
つまり、「オレ殺すのは、お前らにとって本当にマズいよ」と注意したのだ。
最初から、「全部ゆるす気」 なんだったら、今怖い顔しておいてあとでどっきりカメラでした~みたいに「ごめーん、実は全部無条件の愛でゆるす気で、芝居してました~! オレ殺したら神の国はお前らから取り上げられる、なんて脅してごめんね~あれジョークだから!」 なんてことを言うだろうか?
キリストは、無条件の愛、なんて言葉使っていないと思う。
むしろ、後世の人間が自分たちの願望をおっかぶせて、そういう話にしてしまったと思う。すべてをゆるす愛? ふざけるな。
●人には、能動的に「ゆるす」力はない。
ゆるせる時しか、許せないようになっている。
ゆるせる、というのは結果論であって、人間側が作り出すことはできない。
まず言っておくと、この宇宙次元レベルで 「無条件の愛は存在しない」。そういうことを言うスピリチュアルは、間違ってはいないがファンタジー色が強すぎる。
サンタさんがいる、と思っている子どものようなかわいいレベルだというだけ。
この二元性の世界の特徴は、まず有限であること。縦横高さ、という空間的なもの、そして時間的なものに制限、限定されるということ。
だから、愛と言ってもそこには 「何に、どの程度、どういう種類の感情が向けられているのか」 という定義付けができてしまう。指向性のない愛など、存在できない。全方位に平等に、絶対的に注がれる愛など絵に描いた餅である。
無条件の愛が存在する、という人の目の前でその人の子どもを殺せばいい。
どういう反応が返ってくるか。
いやらしい理屈だが、そこまで失礼なことでも言わないと、彼らの眼は醒めない。
●すべてをゆるす「無条件の愛」などが、仮に存在するとしよう。
それは、命を甘やかす。
魂の学びの機会を奪ってしまう。
この世界で、例えばさっき殺人を犯した人を、その殺された人の身内なり配偶者が、「ゆるす」などしてごらんなさい。どんなことになるか。
ああ、なんてすごい愛! って感動して相手が改心するとでも?
それは、相手による。真面目で、やむにやまれずの犯行なら、無条件のゆるしを前に大いに感動し、心を入れ替えて生まれ変わることはあり得る。
ただし確信犯や快楽犯罪者の場合、(目的があって仕方なく犯罪をする、というよりもその行為自体が目的のようなタイプ。サイコパス)相手は、あなたをバカにするかもしれない。
犯罪者も賢いから、ポーズとして感謝をするかもしれない。その方が振舞いとしては利口だ。でも心の中では、性根はなんら変わらない。
ゆるされてただラッキー、と思うだけで、なんら成長も起こらない。
では、「ゆるさない」場合はどうか。
ここでも、言葉上の難しさがある。
意図的に「ゆるさない」ことなどできない、ということだ。
ゆるす、というのは結果論である。ある時、ゆるせている自分を発見できた、ということでしかなく、人が「ゆるす」という言葉を使う前には、もうゆるせているのだ。さぁ、この宣言をして直後に、私はゆるせる心の状態を選択できますよ!なんてことはあり得ない。逆もまた真なりで、意図的に「ゆるさない」などできない。ゆるせないという状態は選択ではなく、それ以外どうしようもない状態なのである。
ゆるせるのが常に良いことで、ゆるせないのが 「不十分な状態」と思われたりする。でもそれは、「頑張れば、自由意思の力を使えばゆるす選択も可能」という前提の元である。
私は、それは意志では選び取れないと思う。
ゆるせる宇宙タイミングでしか、ゆるせない。
ゆるさない期間、そのゆるされない人は社会から罰則を受けたり、相手に冷たい対応を取られたりする。その状況は、罪を犯したその人に考える材料を提供する。その期間の苦労や辛さは、「魂の学び」を突きつけてくる。そこで気付き、ということも起こりやすくなる。
その気付きこそが、そんな体験の目的である。でないと、ゲーム的にはただ苦しむだけとかただ辛い思いをするだけとかで、何の価値もない。
(それはこの世ゲームルール上の勝敗、スコアに関することで、本来は価値の上下などない。そういう体験も宇宙には必要とされるから同価値)
相手のしたことに対して、素直な心の動き(ゆるせない)を出すことで——
それは相手の学びとなる。
自分のしたことがどういうことか、どれだけのことかを見せてもらえる、良い機会となる。深く魂で自分のしたことの影響を受け止めることで、その人物の精神は新たなステージへ移行する。
しかし、ゆるすことが大事として、頑張ってゆるしてしまったら?
相手は「なんだ、世の中結構甘いじゃん」となり、安易にゆるされたことで余計につけ上がり、幼児じみた愚かさを繰り返すことになる。
やったことの大きさに比例する「身悶え」なしに、魂の成長はない。
え? 最初っから安易にゆるすのではなく、ここぞという時に「無条件の愛」を使うんだって?
でもそれだったら、無条件じゃないじゃん。時間や場所、タイミングの制約があるなんて。使うタイミングがあるんだったら、無条件じゃないじゃん。
もっと言えば、「無条件という名の条件」が付いてるじゃん。
凡人は、こうやっちゃうよ。「ああ、無条件の愛にしなきゃ」 って。
無条件の愛でなきゃ、っていう「義務感」が発動する。
そんなもん、だらんと自然にやってちゃ、不可能でしょ。人間の性(さが)を考えりゃ分かるでしょ。かなり頑張らないとできないもんを、頑張りやエネルギーの集中なしに、できるもんですか。発動させるのになんらかの指向性(方向性)のあるエネルギーフォーカスが起こるなら、すでに「無条件」が破綻しているやん。
何、究極のリラックス? 平安の中で、何も力まずフォーカスもしていない状態がつくれる? そりゃ、たんなる逃避だろ。無条件の愛やってるわ、私!ってラリってるだけでしょ。
イエスは、自分を殺すことをはっきり「悪いこと」(この世界の基準で)だと言ったのだ。もしそうなれば、そのツケはきっちり払わされるぞ、と言ったのだ。
そこで「ゆるされる」なんて言葉は一言も言っていない。
クリスチャンは、こう反論するかもしれない。
「イエスは心情的にゆるしてくれている。ただし、この世界の真理(法則)がゆるさないだけだ」
あはは。墓穴掘ったね。真理は、ゆるさない? じゃあ、宇宙は無条件の愛ではできてない、ってことを自ら認めたようなものだね。イエスは奇跡も起こせて神と同等の扱いを受けている割には、気持ちはあっても自分にはゆるす権限がないという、そういうお飾り的な存在なの?
キリスト教や一部スピリチュアルで、イエスを「無条件の愛」というメッセージを伝える上でのダシにしているので、そこに苦言を呈したい。イエスは、無条件の愛など説いていない。やったことは責任とれよ、てめぇのケツはてめぇでふけよ、って言っているだけである。
十字架上で彼が到達した境地は「ゆるし」などではない。
「どうでもいい」だった。
どうでもいい、をもうちょっときれいな言葉に変換すると『すべてを受け入れる』 という境地であり、「ゆるす」というのとはかなり違う。
無条件の愛はない。
仮にあったとして、そんなもんは自他の魂の成長に邪魔である。
むしろ、ゆるさないというのが素直な気持ちであるなら、そう在ることがかえって愛なのでは?
そのあなたの反応を受けて、相手も何かを感じ、学ぶのだから。
命の尊さであるとか。人の情、というものへの理解だとかをね。
無条件の愛とやらで、相手の学ぶ機会を奪ってはならない。
あなたに、その権利はない。
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