ラストスパート。

「連絡が遅くなってすみません。

 帰りの電車の時間まで、少しくらいなら会えます。

 それでよければ、ホテルまで迎えに行きます」


 私はベッドに勢いよく身を投げ出して、足をバタバタさせた。


 やった! よかった!!


 声に出さずに叫ぶ。

 今回は出発点がマイナス値だったので、メールが来ただけで百点満点な気分だった。


 十一時にチェックアウトしてロビーで待っていると、ほどなくして高野が迎えに来た。

 朝食を遅い時間に食べ過ぎていたのでランチはやめて、地元で美味しいと評判のケーキショップに行き、併設されているカフェコーナーでのお茶にした。


 庭の見える窓際の席に向かい合って、ゆうべの演奏会について、存分に感想を語り合う。差し入れのお礼も言われた。


 一カ月半ぶりに会って、私はあまりのうれしさに飲み込まれていた。小一時間ほど、高野とのおしゃべりにただただ溺れていたような格好だ。

 でも、それゆえか、大事な次の約束をどうするか、何も思いつけない。高野の方からも、特に何も言ってこなかった。


 駅まで送ってもらう間、さすがにまずいと焦り、何とかクリスマスの食事を打診して、オッケーをもらった。本当はもっと近々の予定を入れたかったけれど、相変わらずつき合ってるのかはもとより、どう思われてるのかもわからない状態の中で、ほかの会う口実は思いつけなかったのだ。

 約三カ月先までメールだけでつないでいくのは、もう限界というほどきつい。


 お礼を言ってロータリーで車を降りると、離ればなれになる悲しさと、確信が持てない不安と、この先のきつさが綯い交ぜになった暗い気持ちを抱えて駅へ向かった。


 きっと高野はもう行ってしまっただろうと思ったけれど、駅舎の手前で振り返ると、予想外に車はまだ停まっていた。かと言って、こちらを見てるとも限らないけど、駅ビルのドアを開けながら一応手を振ってみた。


 すると、フロントガラスに手を添わせるようにして振り返したのが見えた。


 私は目を疑った。

 百点が二百点に跳ね上がる。たったそれだけのことが、私にとっては衝撃的な喜びだったのだ。


 奥手で愛想がない人が手を振るって、もしかして感触は悪くないということ?


 にしても、クリスマスまでは長い。今までのように、相手の負担にならないように気を使って、あえて抑えめのメールでつないでいくのは、かなりの消耗戦だ。返事が来ないこともあるのだから。

 手を振ってくれたうれしさだけで、三カ月もやって行けるかと訊かれたら、まったく自信がなかった。



 十月の最後の日曜日、寺山と二度目のドライブデートをした。

 前々日からやっぱり生理になってしまって、タンデムツーリングじゃなくて車にしてもらった。

「体調のことはしょうがないよ。また、暖かくなったらいくらでも行けるから」と、寺山は快く言ってくれた。


 今日は、彼がバイクでよく行くというお気に入りの場所へ連れて行ってくれることになっている。標高が高く、もう紅葉が見られるという。


 色づいた山の美しい景色を楽しんだあとは、彼のおすすめのそば屋でかき揚げをのせた温かいおそばを食べた。


「真奈絵ちゃんは、どうしてフリーになったの? 会社にいた方が楽じゃない?」

 先に食べ終わった寺山が訊いてきた。

「うーん、確かにそうだけど、その代わり大変な仕事を割り振られちゃうとか、後輩の指導をしなくちゃならないとか、いろいろ責任も増えてくるからね。それに、フリーって、どこに行ってもできるのがいいなって」

「え、どこかへ行くの!?」


 寺山の反応を見て、私の方が驚いた。

「いやいや、たとえばの話。あ、でも、いつか南の島に住みたいって夢はあるけどね」


 寺山はそれきり黙っていた。


 山を下りてくる途中に湖があった。

 車を駐めると、寺山はハッチを開けて、いそいそという感じでいくつかの手提げバッグを下ろした。それが何なのかは一言も説明せず、こっちというふうに私に合図をして、自分が先に立って芝生の上を歩いて行った。

 アウトドアのグッズなんだろうなと想像はつくのだけど、何をしようとしているのかわからない。


 適当な場所を見繕って、寺山は折りたたみ式のチェアを二つ出した。私に座るように促して、自分は膝をついてほかの道具を取り出している。なにげに、ものすごい得意顔だ。どうやら、お湯を沸かしてコーヒーを淹れてくれようとしているようだ。


 得意分野でアピールしようという気なのか、純粋に私を喜ばせようというサプライズのつもりだったのか、何も言わないのでわからないけれど、私はかなり戸惑っていた。

 普通に観光に来てる人たちが、物珍しげな視線を送ってくる。それがすごく居心地悪い。


 何より困ったのは、私はブラックコーヒーが飲めないということだ。コーヒー自体、自分から積極的に飲むのは午前中だけで、いつであれクリーム等をたっぷり入れないと受け付けない。寺山のバッグの中には、どう見てもクリームはなさそうだった。


 先に言ってくれれば、こんなことにならなかったのに。

 困惑しながら湖の風景と寺山の作業を交互に見ていた。


 アウトドアに慣れた人にとって、野外で淹れたてのドリップコーヒーを飲むというのは、最高にして当たり前の楽しみなのだろう。今日の寺山は、ふだん自分がやっているツーリングの醍醐味を私に追体験させてくれようとしていたのだと気づいた。


 でも、こうしてみると、それは私には馴染まないことのような気がしてしまう。私は、安定しない小さな椅子に座って苦いコーヒーを飲むより、もっと湖の周りを散策したり、売店で名物のおやつを買って食べたりしたかった。


 ついに、大きなステンレスのマグカップが私に手渡された。いいだけたっぷりとブラックコーヒーが入っている。「ありがとう」と受け取ると、寺山は満足げににっこりした。

 少し飲んで、その苦さに顔をしかめないようにがんばった。寺山はカップを手に、リラックスした様子で湖を眺めている。



 しばらくすると、飲み終わった寺山が道具を片付け始めた。そして、「ゆっくり飲んでていいからね」と言い残し、公衆トイレへ向かっていった。


 建物の中に寺山が消えると、私は詰めていた息を吐き出した。

「本当にごめんなさい」と思いながら、少し離れた草むらに、二、三口しか減っていないマグカップの中身を全部あけた。

 寺山が戻ってくると、「ごちそうさま」と言ってカップを返した。


 車に戻る途中、水路なのか川なのか、水辺の斜面に立って小学生くらいの男の子たちが釣りをしていた。

「何が釣れるんだろうね?」と寺山に訊くと、「さぁ」と言う。

「訊いてくるね」と、私は小走りに彼らの元へ行き、声をかけた。


 戻って、「ふなが釣りたいんだって」と言うと、寺山はふぅ〜んという感じで私を見て言った。

「真奈絵ちゃんって、不思議ちゃんだよね」


「は?」と、私は目がテンになった。そんなこと、誰からも言われたことがない。

「なんで? どこが?」と、納得がいかない私は、車に乗ってからもこだわっていた。

「いや、前から思ってたんだけど、何となく。俺の知ってる女の子たちと、なんか違う」

 寺山は面白そうに笑った。

「えー。なに、それ」

 同意しかねる。けれど、これ以上突っ込んだら、いろいろ批評めいたことを聞かされるだろう。まだ私のことをよく知りもしない人から、決めつけたようなことを上から目線で言われたら、それだけで嫌いになってしまいそうだ。

 私は窓の外へ目をやって、それ以上は何も言わなかった。



 今日は、友だちの誕生日だった。彼女のリクエストに従って用意していたプレゼントを当日のうちに渡したかったので、帰りは彼女のマンションの前で降ろしてもらうことになっていた。


 車中の最後の話題は、料理。

 私が自分は人並み以上の腕前ではないと言うと、俺は意外に得意だと返ってきた。

「てか、家事全般キライじゃないんだよね。片付けも好きだし、部屋はけっこうきれいだよ」

 それから、実になめらかな流れで「そうだ、次のデートはうちに来てよ。俺がとっておきの料理を作ってあげるから」と言う。


 ここまで来て、次のデートは部屋だとなったら、たぶん深い関係になるだろう。

 自己アピール全開に見せて下心を隠しているつもりなのか、それともむしろ、言っているのかわからないけれど、ここで私が嫌だと言うのもおかしい。


 そして、そういう関係になったら、寺山が一気に結婚へ突っ走ろうとするんじゃないかという気がする。


 いや、もしかしたら、私の方が?


 寝たらちゃんと好きになれて、今日は居心地が悪かったアウトドア的な趣味も、今後はいっしょに楽しめるようになったりするの、かも?

 想像してみてもまだあまり現実味を感じられないけれど、少なくとも今よりは彼を受け入れらるようになる気はした。オトコとして。


 高野を追いかける私の片足を、伏兵の鮫が完全に捉えている。

 ラストスパートをかけてきた彼を、もはや振り切れない。まるっきり、なすがままだった。


「じゃあ、また連絡するね」

 私を降ろすと、寺山は明るくそう言って走り去っていった。


 車が角を曲がるまで見送りながら、結婚ってこうやってするんだなぁとしみじみと思った。

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