噛み合わない。
翌日、パソコンを見ると、夜中のうちに川崎からメールが来ていた。
タイトルが『男女の物語』となっている。
嫌な予感はしたけれど、それが「物語の終了」を意味するものであってほしい。そう思いながら、恐る恐るクリックする。
「北沢さん、メール見ました。
僕たちが合わないということはないと思います。
僕は、北沢さんとはちゃんと話ができているし、
(その点が、最近のアラサーとは違うところです!)
むしろ、とても合うと思いました。
僕は自分の感覚には自信があります。外したことないですから。
だから、この勘は信じてもらって大丈夫だと思いますよ。
前に、貴女は自分に自信がないと言ってましたね。
そのせいで、差し出された手を握るのがこわいんじゃないですか?
でも、僕だって最低でも一年くらいはつき合わないと、
結婚なんてできないと思ってます。
結婚には財産の相続もついてくるからです。
それに、二人の物語は時間とともに作るものですよ。
歴史と言ってもいい。
僕は、去年、市内に土地を取得しました。
できればパートナーとは、そこからいっしょにスタートしたいと考えています。
こわがってないで、僕と一歩を踏み出してみませんか?」
ガーンと頭を殴られた心地だった。めまいとともに頭痛がしてきそうだ。背中に冷たい感触が走る。
もはや珍魚や宇宙人のレベルを超えてる。
手を握るのがこわいんじゃない。川崎というオトコ自体がこわい。
私は得体の知れない黒い生き物に足を引っ張られ、深海に引きずり込まれようとしているのだ。
何としても抜け出さなければ、やばいことになる。
出勤途中ずっと、決定的な断り文句を必死に考えた。
そして、オフィスに着くとすぐにメールを打った。
「川崎さん、何度もすみません。
私のことをかなり買いかぶってらっしゃるようです。
そんなに言っていただいて申し訳ないのですが、
なおさら、そんな川崎さんのお気持ちに応える自信がないと
思ってしまいました。
お互い、一年を無駄にしたくはないですよね?
それに、お会いした時に言えばよかったのでしょうけど、
私はできれば近い将来、南の島に住みたいなぁと思っています。
こちらに土地をお持ちで、そこからスタートしたいとお考えなのであれば、
その点でも二人の希望が合わないということになります。
ずいぶん長いメールを交わしてきて、こんなことになって、
本当にすみません。
どうぞお元気で、婚活やお仕事、がんばってくださいね。
これで、失礼しますね」
将来、沖縄や瀬戸内あたりに住みたいという夢があるのは本当だ。でも、婚活でそんなことを口にするつもりはもともとないし、逆に、相手に惚れ込んだらアラスカにだってついて行く所存だ。
なのに、今回これを持ち出したのは、この地に根を下ろすつもりでいるらしい川崎を完全にノックアウトするためだ。
不動産は、多くの人にとっては一生に一度の大きな買い物のはず。
こんな海のものとも山のものともつかない年上オンナのために、せっかく買った土地を手放すなんてことは、ふつうは考えないだろう。
こういう場合、もうあちらからメールが来なくてもいいと思ったりするものだけど、今回ばかりは完全に終了を確認しなければ安心できない。なので、返事が来るまではまだまだ落ち着かない気分ではあったけど、決定打を放ったという満足感はあった。
はたして、夕方、メールが入った。
今度こそ! 逸る気持ちでクリックする。
「北沢さん、ごめんなさい。
簡単にお返事できることじゃないので、仕事が終わったら、
またちゃんとメールしますね。
夜遅くなると思いますけど、待っててください」
私はオフィスの椅子にぐったりともたれて、大きなため息をついた。でも、大した息は出てこなかった。呼吸が浅くて息が苦しい。
その日、悶々としながらの帰り道、またメールが来る前にそれを阻止しようと考えた。本当はきっちり終了の確認を取りたかったところだけど、しかたがない。もうこれ以上、やり取りしたくなかった。
そうと決めたらすぐに、携帯でメールを打って送った。
「お仕事お疲れ様です。
私のメールの内容、わかっていただけたのであれば、
お忙しいでしょうから、お返事はいいですよ。
こんなことに無理に時間を使わないで、ゆっくり休んでください。
では、お元気で」
これで、もう来ないだろう。いや、来ても、今度こそ「終了」の確認が取れるようなメールだろう、ふつうなら。
妙に疲れた気分で玄関を開け、真っ直ぐソファに向かった。半ば倒れ込むようにしながら床に置いてあったパソコンをなにげに開くと、メールが着信していた。
今度こそ!
祈るように開くと、残酷なメッセージが飛び込んできた。
「大丈夫です。
どんな長いメールだって、僕は携帯で簡単に打てるって言いましたよね。
無理なんてことはないです。
またあとで、ちゃんとお返事送りますね」
送信時間を見ると、私が送ってすぐに返してきたようだった。もう送ってこなくていいのに。
一時近く、そろそろ寝ようと思って怖々パソコンを見る。まだメールは来ていない。
なかなか寝付けない夜だった。目覚ましアラームが鳴った時は、体も心も重かった。
「北沢さん、どうしたの?」
ランチの時間、間借りしてるオフィスの男性社員が声をかけてきた。
「具合、悪いの?」
私は突っ伏していたデスクから顔を上げて、力なく笑った。
「いえ、大丈夫です。ちょっと面倒な仕事してて、疲れちゃって……」
「顔色悪いね。ダメよ〜ちゃんと睡眠取らないと〜。お肌に悪いよ〜?」
それ、セクハラ発言ですよ〜と冗談めかして言ってみるものの、完全にカラ元気で、本当に体調が悪くなりそうな気分だった。
机上のパソコンには、『エクリチュールを越えて』と題されたメールが表示されている。
いつも仕事ではメールで原稿をやり取りすることも多い。その感覚から見て、おそらく原稿用紙にして十枚以上あろうかと思われる川崎のそのメールを、さっき読み終わったところだった。
エクリチュールって、何よ。
まずはそこから、というのが忌々しい。嫌々調べる。
文字言語? つまり、書き言葉ってこと? 結局、よくわからない。
とにかく、そんなもの越えなくていい、何も越えたくない。ただ、早く私を忘れてほしい。
川崎を少しでもおもしろいと思って、一カ月近くもメールをしていた自分を呪った。
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