まだ見ぬ人。

 翌朝、情けない気分ながらも、すっかり冷静になった私は、ゆうべのことをもう一度思い起こしてみた。


 自分のテリトリーを遠く離れる時は、無防備でいては駄目だ。

 そんな当たり前のことは今さら確認するまでもないはずなのに、知らず知らず油断してしまっていた。

 相手のテリトリーで無防備になっていいのは、わざとそうしようと決めた時だけ。と、自分に言い聞かせる。


 それにしても、あれはない。私が半ば怒ったような態度をしたせいか、ちょっとオロオロしていた片山。

 本当に最終電車の時間を勘違いしていたとしても、そして、いくら酔っていたせいだとしても、あそこまで時計をまったく気にしないでいるっていうのは、そうなってもいいとか、そうなりたいみたいな思惑もあったからじゃないかという気がする。


 下心、見え見えじゃない……と、ついつい眉根が寄ってしまう。


 この服装もまずかったかなぁ……と反省した。いつも周りの人から似合うと褒められる、少し短めのキュロットを履いてきた。ちょっと遠出するというウキウキ気分も手伝って、無邪気にアクティブな格好をしてしまったのだけど、初対面のオトコに対して、いい歳して脚を出し過ぎだったかもしれない。もしかしたら、に見られた可能性もある。

 今ごろ、彼が舐めるように私を見た場面を思い出してザワッとした。これで何かあったら、ただの痛いオバさんになってたところだ。


 昼ごろ、やっと家に帰り着いた。

 二日着た服をはぎ取って、疲れた体をソファに預ける。ふと手近にあったパソコンを開くと、片山からメールが来ていた。


「ゆうべは、大変申し訳ございませんでした。

 すっかり酔ってしまい、失礼なことをしたと猛省しております。


 来年の夏も貴女と、今度はテラス席で夕日が見たいです。

 また都合のよい日にお会いできればと思っております。

 ご連絡をお願いいたします」


 馬鹿ていねいな文面に苦笑した。


 どうしてゆうべの時点でこうならなかったかなぁ、と思う。

 そうなのだ。ゆうべは、片山があまりに悪びれてないことに腹が立ったのだ。同じ市内で、終電を逃して女友だちのところに泊まるのとは訳が違う。なのに、あの事態をどこか歓迎すべきことのように捉えてる風だったのが気に障った。

 酔っていたからしかたがないと言えなくもないけれど、もっと、本当に大変なことになったという態度でいてくれたら、印象も違っただろうと思う。


 いずれにしても、二度と会うつもりはなかった。音楽とか文学とか、好きなものの話をするのが楽しくて、そこには食いつけたのだけど、やっぱり住む世界が違う。そういうことだ。



 それからほどなくして、久しぶりに占いに行った。

 手元には、三人の占い師のリストがある。ちょっといいなと思う人との相性を見てもらったり、何か判断に迷うことがあったり、仕事のこと、家族の問題、人間関係などなど……その時の気分や相談内容によって、誰のところに行くか決めていた。


 思えば、本格的な婚活を始めてからは、本気の時は否定されるのがこわくて行けなかったし、それ以外のオトコたちは見てもらう前に消えていったので、行きそびれていたのだ。

 今回は、差し迫ってどうにかしたい具体的な恋愛関係もないかわりに、最近、痛い目に遭ってばかりいる婚活で、モチベーションを保っていくためにも、今後の何らかの見通しがほしい。そういう気持ちで思い立った。


 あとは、よくいっしょに仕事をしている相手など、ごくふつうに周りにある人間関係の中に、もしかして運命的な誰かが潜んでいないかも、見てもらいたいと思っている。何だかんだ言っても、身近で調達できるのが一番いいに違いないのだから。

 そして実は、ちょっと気になる同年代もチラホラいたりするのだ。仕事仲間だと、後々を考えてそういう気持ちにならないようにしてしまうのだけど、占いに後押しされるとなれば話は別だ。


 日曜日の午後、何年ぶりかで彼女のマンションを訪れた。

 三人の中でも、この柿原さんには一番古くからお世話になっている。


 まずは、カメラマンのオトコ。彼の事務所のウエブサイトに載っている写真を見せる。

「うーん、この方は彼女さんがいますね。結婚は……する気がないわけじゃないけど、まだ先だと思ってるってとこかしらね」

 一人目はあっさりと、柿原さんの霊感によって却下された。


 それから、ウエブデザイナーのオトコ。写真がないので、彼の手書きで宛て名が書いてある封筒を見せる。裏には名前もある。

「この方は……そうね、一言でいえば、運命の人ではないなぁ。うん、でも待って。相性はそんなに悪くないのよね」


 柿原さんは少し考える素振りをしてから、紙とペンを引き寄せた。

 何本かの横線を薄く引いて、台形をひっくり返したような形を二つ描いた。大きいのと、小さいの。


「これは海だと思って。まあ、川でもいいんだけど。そして、これが船ね。大きい方は豪華客船。運命の人と結ばれるってことはね、これに乗れるってことなの。必要なものや周りのサポートも揃っていて、大きくて多少のことではビクともしなくて、安心でしょう? すごく快適な船旅になるわけ」


 それから、小さい方を指して続けた。

「こっちは、小っちゃい漁船ね。もしかしたら、ボロボロかもしれない。そして、嵐が来たら、生きるか死ぬかって感じで、二人で一生懸命漕がなくちゃならないような船なの。冒険心があるとか、スリルのある人生が好きとか、そういうタイプの人なら、これでもそこそこ楽しい旅はできるんだけど、覚悟は要るって感じかな」


 なるほど、と言いながら、私はウエブデザイナーのオトコと大波をかぶりながら必死で船を漕いでる図を想像した。


「まあね、相性は悪くないから、それも楽しいかもしれないけどね。でも、何かの拍子に夫婦もろとも簡単に転覆するかもしれないってことね」


 なんだか、それはイヤだ。波間でアップアップしながら、お互いを助けようと手を取り合う図が想像できなかった。


「それにね、基本は気が合うんだけど、なんかあった時にちょっとメンドくさい人かもしれないな。最初のうちは、北沢さんが彼に合わせる感じでやっていけても、だんだん嫌になっちゃうかも。おそらく、彼の方の要求がどんどん大きくなっていくだろうから」


 というわけで、身近での調達は諦めることにした。

「で、今、がんばって婚活してるんですけど……。ちょっといいかなって人が現れても、ひどい時は、先方の親に会うってところまで話が行ったのに直前で駄目になったりして、全然うまく行かないんですよね」

 柿原さんはテーブルの上に手を重ねて置いて、真剣なまなざしで私の話を聞いている。

「一度だけなら、またがんばろうって思えるけど、最近は次々と痛い目に遭うことが続き過ぎてて、ちょっと心も折れそうで。このままやってて、ほんとに実を結ぶ日が来るのかなぁって。来ないなら、やるだけ無駄っていうか、傷つき損な感じもしてて」


 そこまで聞いても、柿原さんは口を開かなかった。彼女だけにわかる何かを、空中のスクリーンで見てるといった感じだ。


 永遠かと思うような何秒か、しーんとした空気が部屋に満ちてくるようだった。その音を聞くように柿原さんはいったん軽く目を閉じてから、静かにまた開けた。


「大丈夫よ。あなた、十分かわいいから」


 は?

 私は拍子抜けした。


「あ、ごめんなさい」と柿原さんはちょっと笑ってから補足した。

「北沢さんのこと、かわいいって思う人が現れる……ってことかな?」


「ほんとですか!? それは、いつ? どんな人でしょう?」

 私は逸る気持ちを抑えて控えめなトーンで訊いた。


「まだ出会ってない人だと思うわ」

 ということは、はっきり見えないということだろう。


「さっきも、同じような悩みの方がこちらに見えたの。彼女はちょっと駄目かなぁって感じて、何とかいろんな意味での前向きなアドバイスをしたんだけどね、でも北沢さんは大丈夫って感じるわ。ただ、もう少しだけ時間が必要ね。その理由がね、今はちょっとわからないんだけど」


 柿原さんのこういう正直なところが、私は気に入っている。わからないことはわからないと言ってくれる。ごまかすような嘘は決して言わない。法外な料金を取らないので、そういう意味でも信頼している。


「そうね、このまま婚活を続けてもいいし、今、しんどいって言うなら、ちょっとくらいならお休みしてもいいかもしれない。でも、忘れないで。きっと大丈夫だから」



 彼女の言葉をどう捉えたらいいのか。そして、私自身がどうしたいのか。

 あれこれ考えながら帰途についた。


——めげないで、続けてみるか。


 家のドアを開ける時には、そう思う自分がいた。


 この先も、珍魚が現れ続けるかもしれない。だったら、掻き分けて進めばいい。最高の魚——手を差し伸べてくれるオトコ——は最後に現れる。

 魚だろうと手だろうと、掴みにいかなければ掴めない。結局は、自分が泳ぎ続けて、どこかでそれを見つけるしかないのだ。

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