オレンジの波。

「海に沈む夕日を見ながら食事ができる店があるんだよ」


 片山は自信満々にプランを説明する。

 まずは、軽く食事。それからお酒を飲みながら、大きな窓に面した席で夕日を眺める。そのあとは、私の帰りの時間まで、併設のバーで過ごす。


「俺の知り合いのやってる店だから、一番いい席を用意してもらってるから」


 車の中で、片山は終始ご機嫌だった。

「ほんとはさぁ、テラス席もあって、それがまたいいんだけど、今日あたりはその格好じゃ、夜はもう寒いだろうからね。虫も来るしね」


 なかなか楽しい夜になりそうだ。

 こういう捌けた感じの人と付かず離れずそれなりにやっていくのも、気楽でいいかもしれない。楽しいところだけ共有して、あとはお互い好き勝手やるような? 自由気ままに人生を楽しんでるようなアクティブなオトコの後ろで、妻がしっかり手綱だけは握ってるような、そんな夫婦関係も世間にはよくある。

 あまり自分にあてはめて考えたことはなかったけれど、なんとなく面白そうだ。


 一方で、私の中には片山が話していたコンプレックスが引っかかっていた。彼の中でどれほどの大きさを占めてるのかはわからないけど、ふとした時にそれが爆発しないとも限らない。うっかり大学時代の話や、いかにも大学で勉強した風な知識は語らない方がよさそう? でも、いつもそんなふうに気づかうのも大変かなぁ。


 店に着くまでの間、私の中で勝手なシミュレーションが展開していた。


——いや、それより何より、まずは車だけ、ふつうのにしてくれたらいいのにな。


 左右にいいだけ体を揺すぶられ、お尻には常にゴリゴリとアスファルトの凹凸を感じて酔いそうになりながら、そんなことまで考える。



 メニューには、カジュアルなイタリアンとフレンチが並んでいた。サラダやスープ、軽めの肉料理を適当に選び、美味しくいただいた。自家製だというパンは、テイクアウトもできるらしい。


 食後はいよいよ、カクテルを手に美しいサンセット・ショーだ。そんなにお酒に強くもないのに、なぜか私はキールを注文していた。すっかり満たされて重くなったお腹に、少し刺激がほしかったのかもしれない。

 舐める程度でゴクゴクとは飲まないように。今夜は、それなりの距離を一人で帰らなければならないのだから、と自分に言い聞かせた。



 空から海に朱色のインクを流したような、圧倒的な落日の光景は、痛いくらいに心に響いてきた。


 もしも、これが婚活の海だったら、あの濃いオレンジ色の波の中に浮かんだ気分はどんなだろう。美しいものは残酷だ。見るだけだからいいのであって、その中に飲み込まれてしまったら、自分が溶けてなくなるのではないか。

 そんな幻想をぼんやりと抱きながら、片時も目を離さずに海に向き合った。


 さすがの片山も、しばらくは黙っていてくれた。


 やがて太陽は、ほんの一筋のオレンジ色をそっと回収して、水平線と溶け合うように静かに姿を消していった。


 青味を取り戻していく海は、消えてしまった魂を弔ってるかのようにしんとして、ただやさしく、暗く、目の前に広がっている。穏やかなあの波の中で永遠に眠ってしまえるのなら、それはそれで幸せなことにも思えた。


「何、考えてたの?」

 片山の声にハッとした。お酒も手伝ってか、変な妄想に入っていたようだ。

「いえ、何も。すごくきれいで、うっとりしてました」


 余韻に浸りながら、もっとここで暮れていく海を眺めたい気持ちもありつつ、促されるままに奥のバーへ移動した。

 片山は、知り合いに会うたびに、まるで恋人ででもあるかのように私を紹介する。ちょっと戸惑いを覚えながらも、この人たちと仲間のようにして、お酒を飲む日が来たりするのだろうかと考える。


 会話はおおむね楽しかった。音楽の話が中心で、年代も近いため、知ってる曲もほぼ共通。それらを演奏側の視点で詳しく解説してもらえるのは、ひたすら新鮮で刺激的だった。

 中でも片山は、ボーカルとギターからなる男性二人組のメジャーなロックユニットの名を挙げ、そのギターがいかにすばらしいか、熱っぽく語ってきた。


「チョーキングのテクニックがね、あれはもう日本一だね。世界に通用する。いわゆるギターが泣くってヤツなんだけど、マジで胸が震えるんだよ」


 そう言いながら、自分の胸ぐらを掴んで揺らして見せる。


 好きなことを熱く語るオトコは嫌いじゃない。うっかり惚れてしまうこともあるくらいに。


 身も心もリラックスしながらも、そろそろ時間が気になってきた。最終電車の時刻はアバウトには聞いていたけれど、この店が駅からどのくらい離れているのかさっぱりわからない私は、タクシーの手配も含めて、段取りを片山に任せていた。

 チラチラと様子を窺ってみるのだけど、彼がなかなかその素振りを見せないことが不安になってきた。


「あの……まだ時間大丈夫なんですか?」


 ついに、ほんの確認のつもりで訊いた。

 片山はチラと腕時計に目をやり、「あぁ、そうだね。そろそろかな」と言って、バーテンの男に声をかけた。おそらく、タクシーを呼んでもらうのだろう。


「これから帰るんですか? どちらまで?」

 バーテンの男に私が行き先を告げると、思わぬことを言われた。


「えぇ!? 間に合います? 確か、最終は……あと十五分くらいしかないですよ?」



 慌てて勘定を済ませようとする片山を置いて、私は店の外へ急いだ。何とか流しのタクシーが拾えないか、途切れ途切れに往来する車に目を凝らす。

 が、時間だけが無情に刻々と流れていくばかりだった。


 遅れて外に出てきた片山が、何度か頭に手をやりながら、所在なさげにウロウロする。

「いや、ごめん。時間を三十分勘違いしてた」


 もう完全に間に合わないとなった時、私のパニックは軽い怒りに変わっていた。この状況をどうしたらいいかわからないし、なんでこんなことになったのか納得できない気分だった。


「あのさ、もう泊まっていったら? そしたら、明日の花火も見られるし、俺んち、朝、二人で食べるものくらいあるし。あ、いや、何もしないから。いや、してもいいんだけど……」


 そこまで聞いて、疑念が湧いた。もしかしたら、わざとじゃないの!? と。

 自分にも腹が立った。どうしてもっとちゃんと、自分でも時間を確認しておかなかったのか。


 とにもかくにも、今この瞬間の目の前のオトコが信用できない。その思いがズシリとのし掛かっていて、どう動いたらいいのか考えられない。


「いえ、帰ります。泊まる用意なんてしてきてないし」

「俺、Tシャツくらいなら貸すよ。下着はコンビニで買えばいいし。それに、本当にもう帰る手段ないよ?」

「タクシーで……」

「いやいや、すっげー遠いよ。無理だよ」


 私は半泣きだった。

 本当にどうしたらいいの? 知り合いもいない、実は場所もよくわかってない地方都市で、変なオトコと二人きり。


 そう、片山はもう私にとって変なオトコでしかなかった。とにかく、逃げたい。


「なら、ホテルに泊まります」

「えぇ!? もったいないよ。俺、ほんとに何にもしないから、うちに……」


 私は汗をかいた目で片山を睨んだ。

 それが効いたのか、ついに彼はしぶしぶと携帯電話を取り出して言った。

「じゃあ、俺の知ってるホテルを取ってあげるよ。安い方がいいでしょ?」


 この成り行きも腹立たしいけど、よけいな出費も腹立たしい。

 結局、自分が馬鹿だったということなのか。リスク管理の授業料だとしても、どうにもやり切れなかった。


 片山は、ホテルの予約に続いて代行を頼み、電話を切ると私に言った。

「あのさ、このあといっしょにうちまで乗っていこうよ。で、俺んちからタクシーでホテルまで……」

「いえ、ここにタクシーを呼びます。だから、今日はもうこれで」


 近づくなと言わんばかりに彼に手のひらを向けて、きっぱりとした声で突っぱねた。


「あ、そう? ……遠慮しなくてもいいのに」


 遠慮なんかしてない。一刻も早く、このオトコから逃れたい。ただそれだけだった。


 食事の料金を払ってくるのを忘れたことにあとで気づいたけれど、ホテル代を思えば、それくらい許されるだろうと、勝手にごちそうになっておいた。


 安いビジネスホテルの部屋にほとんど体一つで飛び込むようにして、ガチャリと重い扉が閉まってやっと、逃げ切れたと安心できた。そのまま乱暴にベッドの上に転がると、気を鎮めるようにしばらく天井を眺めた。


 明朝の電車の時間をフロントに訊こうか。そう思ったら、海のそばを通る電車のイメージからか、今日の落日の光景が浮かび上がってきた。

 あのオレンジの波に飲み込まれそうなところを、自分はからくも逃れてきたのだ。いい思い出になるはずだった美しい情景を、私は頭から追い払った。

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