好いてくれる人。
霧島の問いに、「はい」と頷きながら思う。
——結婚って、こういうものだったんだな。
きっと、流れというものがあるんだ。婚活の海で言えば、入り潮のような。
凪いだ静かな海でやさしく、でも確実に岸へ導いてくれる潮流だ。
それを見つけられるか。それを捕まえられるか。それに乗れるか。
いろいろなカラクリがあり、運も絡んでくる。
だけど、乗ってしまうとこんなにも楽に簡単に岸に辿り着けるのだ。
結婚は、好いた人とするよりも、好いてくれる人とした方がいいと言う人がいる。特にオンナは、相手から大事にしてもらえることが、一生の幸せにつながるのだ、と。
けれど、私はずっとその説に反対していた。
好いてくれてる人から大事にされることを期待して結婚したら、万一、期待通りじゃなかった時に、いっしょにいる意味を見出せなくなるんじゃないか。
逆に、自分が好きで結婚すれば、いっしょにいること、ひいてはいっしょにいてもらえてることだけで幸せで、常に前向きな気持ちで邁進できるだろうと思うのだ。
それが今、「好いてくれる人と」説を自分に言い聞かせている。
そういう幸せもあるんだ。その方がすんなりいくし、私は選ばれたのだというふうに自尊心も満たされる。
ここまでで、いいだけズタズタになった私の自尊心が、霧島に救われるのだ。
もちろん、双方が同じくらいのバランスで、好いて好かれての関係なのが一番理想なのは間違いないのだけど、そんな夢を求めるような暇はもうない。
これからゆっくりじっくり好きになっていけばいい。結婚してしまえば、そこから一生という時間をかけることができるのだから。
霧島はすでに母親に——父親は数年前に他界しているらしい——私のことを話していると言う。
「いつごろ、お宅に伺えばいいですか?」と訊いた。
「母の方が、早く連れてらっしゃいって言ってるくらいだから、すぐにでもと思うけど、まあ、今日の明日ってのも急過ぎるから、来週の週末あたりはどうかな」
それにももちろん、イエスと答えた。
「おばさんに感謝だな」と、霧島が笑って言った。
「これまで、何度もしつこくお見合いお見合いって言われてたんだけど、ずっと断ってたんだ。それが今回は、何となく気が向いてね。会ってみて、本当によかったよ」
私は、それが香織さんだったかもしれないんだ、と思った。
だったら、どうなっていたんだろう?
いや、これこそが縁というものなんだ。
あるいは、運命の導き?
何と呼ぶのでもいいけれど、あらかじめ定められたゴールのようなものがあるとするなら、多少強引で不思議な経過を辿ってでも、そこに必ず行き着くようにできてるのだ。人の世の摂理とはそういうものなんだ。
そんな大げさなことを思って、私は感心しきりだった。
「住む所も考えないといけないね」
霧島の言葉に、さらに驚いた。こんなにトントン拍子でいいのかな? と、逆にこわいくらいだ。
だけど、これくらいがいいんだ、とも思う。相手に勢いがある。それがありがたかった。私をこのまま、どんどん岸へと導いてほしい。
「二人とも街中に出勤してるから、便利な場所がいいよね。うちの実家は多少不便な場所だから、通勤が大変でね。この際、駅の近くとかいいな」
もちろん、異存はない。親との同居を言われないのも助かる。
「今、犬を飼ってるんだけど、新居でも犬を飼いたいな。あ、母が一人になったら散歩が大変だから、実家の犬をこっちで引き取るってのもありだな。それでもいい?」
私はねこ派だけど、別にかまわない。霧島が勝手に世話をしてくれるだろうし、私も飼ってしまえば、かわいいと思うようになるだろう。もともと動物は何でも好きだ。
庭付きの一軒家で、犬が飛び回っている図が浮かぶ。休日には霧島のチェロと私のピアノで合奏? 夕方にはそれぞれが好きな本を読んでいて、時々、会話を交わす。霧島なら、いっしょに台所に立ったりもしてくれそうだ。そしていつか、その私たちの足元に子供がまとわりついたりしてくるのだ。
——私の中で、どんどん妄想が広がる。それは眩しいくらい幸せな光景に思えた。
霧島が私を見る目も、本当に幸せそうだ。特に、待ち合わせで、先に来ていた霧島があとから到着した私を見つけた時に、見事に明るい表情に切り替わる様はとても印象的だった。瞳孔も目一杯開いてそうだ。
恋する人ってこういう目をするんだなと、初めて客観的にわかった気がする。そして、自分を想ってくれる人からのやさしい視線を浴びるのは、なかなかいいものだった。心があったかくなるし、安心する。
チェロを弾く霧島を想像する。その腕に大事そうに抱かれたチェロを、私の体と置き換えてみる。
きっと、体が結ばれたら、私も一気に霧島を好きになるのではないか。
そんな確信が生まれた。その時がいつ来るのか、楽しみですらあった。
霧島のていねいな運転に身を委ね、流れていく景色を眺めながらひとしきり妄想にふけっていると、「それで……」と、霧島が突然ためらいがちに切り出した。
「母が、こういうことはきちんとしなさいって言っててね」
言いにくそうにしてるのが気になる。
「きちんと……って?」
「うん、大事なことは事前にちゃんと詳らかにしておけって言うんだけど、実は……」
「何ですか? 言ってください。たぶん、何を聞いても私は大丈夫だと思います」
霧島はハンドルを握ったまま、ちょっと背筋を伸ばすようにして息を吸ってから言った。
「僕ね、貯金がないんですよ」
はぁ、それが何か?
と、私は思った。そんなことか。いや、そんなことでよかった。
「去年、実家を建て直して、そこに僕もお金を出したからなんだけど」
もっと何かすごいことを言われるのかと潜めていた息を、一気に吐き出して言った。
「それだったら、すみません。私もないです。なけなしの貯金を、一人暮らしする時に叩いちゃって、ほぼゼロです。それって、まずいんですかね?」
「いや、よかった、拒否されなくて。こっちはもちろん、かまわないよ。北沢さんに貯金がなくても」と、霧島は笑顔を浮かべながらさらに続けた。
「あとは僕の方は、言っておくことはないと思うな。大きな病気もないし」
病気?
それを聞いて、急に不安になった。
これまでの婚活で、特殊な例——具体的には達也のことだが——を除いては、あまり気にかけてこなかったけれど、子宮筋腫切除の手術を受けたことは言っておくべきことなのだろうか?
でも、病気ではないのだ。切って、終わったことだ。定期検診でも、子供を産める状態に保たれてると太鼓判を押されている。
言っても大丈夫だろう。逆に、今の時点で堂々と「産める」と言えるのだから、積極的に伝えるべきアピールポイントかもしれない。結婚してから問題が見つかるよりずっといい。
子供ができにくそうな予感までは言う必要ないと思うし、言うつもりもない。そして私は、霧島なら不妊治療にも協力してくれそうだという、勝手なイメージも持っていた。
「そういうことなら……もしかしたら、これは一応言っておいた方がいいことなのかなぁ。もちろん、今はもうまったく大丈夫で、自分でも忘れてるくらいふだんは気にしてないんですけど、私、子宮筋腫切除手術というのを受けたことがあって……。でも、本当に大丈夫なんです、結婚に問題になるようなことはないし、あの……子供も産めます」
霧島はキョトンとした。それがどういうものなのか、知らないようだった。
「つまり、子宮に良性のコブができちゃうってヤツで……。でも、取ってしまえば、まったく問題ないものなんです。私も全然元気ですし」
説明を聞いて、「そうか。ならよかった」と霧島は安心したように言った。
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