手のひらで転がす。
「う〜ん。突き詰めちゃったか……」
由佳子は、私の話を聞き終わると渋い顔をした。手にはずっとライム割りのグラスを持ったまま。中身は三分の一も減っていない。
今日は、私の間借りしているオフィス近くの居酒屋で、仕事帰りに落ち合った。
本当は結婚に向けての具体的な報告をするはずだったのに、相談会になってしまっている。
「そこさ、何とか曖昧なまま行けなかったのかなぁ……」
「だって、達也くんの方が突き詰めてきたんだもん。『誓約書』って言ったんだよ!?」
「キツいね……」
また思い出したようにライム割りをゴクゴクと飲んで、由佳子はそれが不味いとでも言わんばかりの顔をしている。
「でもさ、そこを何とか耐えて、適当にハイハイって言っておけばよかったのに。そしたらあとは、ゴムに穴開けておくとかさ、排卵日をごまかすとかさ、いろいろ方法あったのに」
「いやいや、いかに子供を作るかって話じゃないからね。これは、気持ちの問題なの」と、私は苦笑した。
「それに、そんなことしたら、離婚されそう」
「そこはとことん、しらばっくれるのよ。実際できちゃったら、堕ろせとか離婚とかまでは言わないだろうし」と、由佳子が真顔で言う。
いや、達也のことだ。ちょっとでも疑わしいと思ったら、最悪は免れたとしても、根に持って私を責め続けるとか、険悪なムードが続くとか、つらい状況になることは容易に想像できる。
私だってそんなこと、望んでるわけじゃない。しつこいようだけど、これは実際に子供を持つ持たないではなく、純粋に気持ちの問題なのだ。
「真奈絵さ、もっとずるく賢くいかなくちゃ。いや、難しいのはわかるよ。でも、広田ちゃんの時もそうだったじゃん。あの時も、結論を急いだから……。すぐに白黒つけようとしちゃダメなんだよ、こういうのは」
つき合いの長い由佳子は、痛いところをついてくる。
広田ちゃんとは、由佳子と同じ会社に勤めていた二十代前半のころ、私がつき合っていた一年後輩の男子社員だ。当時の私にとって、人生初の大恋愛だった。
広田にはうまく行ってない遠恋の彼女がいて、その話を聞いてあげているうちに、私たちがそういう関係になってしまった。結局はその彼女を忘れられなかった広田にさんざん振り回されて、最後は「私か彼女か、いま決めて」と言ってしまった。
私は、たまたま出張で彼女の住む地へ行った広田が、彼女と寝て帰ってきた、その一回がどうしても許せなかったのだ。
「あの時も、もうちょっと待ってれば、たぶん最後には完全にこっちに来たんじゃないかと思うんだけどね〜」
由佳子がつくねを串から外しながら、なおもご指導ご鞭撻を繰り出してくる。
「完璧な人っていないからね、特に結婚みたいな長く続く関係の場合は、抜け道とか逃げ道とか込みにしておかないと。一生続くんだから、その尺の中で辻褄合えばいいくらいに、どんと構えてた方がいいよ」
「そのセリフ、達也くんにも言ってよ」
「あはは、そうだね。あっちこそだよね。ここに呼んじゃう? そしたらいくらでも言ってやるわ」
今度は焼き魚をつつきながら、由佳子は豪快に笑った。
「で、次どうするの? また会うんでしょ?」
達也からは、あれ以来連絡がない。
「うん、たぶん。でも、こっちからはこの話を蒸し返さないつもり。もし向こうがまた何か言ってきたら、とりあえず話を合わせておくよ」
私は、達也との結婚に対して、かろうじて意志は保っていた。
あれは単なるケンカのようなものだ。達也はきっと、私が泣いてしまったから驚いて帰ったのだろう。前にも、女性に泣かれるのが苦手と言っていたことがある。
結婚前からケンカなんて先が思いやられるけれど、夫婦としてこれからも衝突することはあるだろう。だったらむしろ、これもいい練習なのかもしれない。
そんなふうに自分に言い聞かせていた。
「達也くんって、けっこう子供っぽいからさ、真奈絵が大人になって、うまく合わせるのがいいかもね。手のひらで転がすってヤツ?」
由佳子の言うとおりだ。
好きな人とお互いにいっしょにいたいと望み、二人で幸せな未来へ向かって歩いていきたいと思う、その結果として結婚があるのだと漠然と夢見ていたけれど、今の私は結婚というものをするために、手近なオトコとうまくやろうと努力している。
これまでの婚活で前者のような相手は見つからなかったけど、婚活の結果、後者の道を選ぶに至ったということだ。
少なくとも、努力しようと思えるだけ、達也は私にとってほかの人とは違う何かを持ってるオトコということなのだろう。
その何かって、過去につき合っていたという「歴史」?
単にそれだけだったとしても、私がずっと求めていた「縁」というのは、結局はそういうものなのかもしれない。
そんなことを思いながら、しばし料理に集中した。
だいたい一通りの皿を制覇したところで、由佳子がおしぼりで手を拭きながら、おもむろに口を開いた。
「さっきの話だけど、もしまた向こうが言質取ろうとしてきたり、誓約書とか言い出したら、どうする?」
あんまり考えたくないことだった。
「まさか。いくら達也くんでも、そこまでじゃない……と思うけどなぁ。私もこの前、言いたいこと言ったから、それが伝わってるなら、ちょっとは考え直してくれてるだろうし」
「そう?……だといいね」と言った由佳子の表情が気になったけれど、私は達也がずっと持ち続けてくれていたという私への想いを信じたかった。
誓約書だなんて半分冗談、主張を強めるためにとっさに思いついて勢いで言っただけだろう。
由佳子がおしぼりをきちんと畳み直した。これから話をまとめるという時に出る彼女の癖だ。
「とにかく、こっちはあっちの一段上に立つつもりで、受け流すところは流して、最後の最後のとこだけねじ込む、って感じだね」
出たーと思いながら、「はい、仰せのとおりに」と、私はふざけて敬礼の真似をした。
「なんとなくさ、達也くんと結婚したら苦労しそうな気もするけど……まあ、そういうオトコと結婚して何とかがんばってる人もいっぱいいるし。ここまでの『縁』っていうのも、なかなかないからね」と、由佳子は穏やかな笑顔で言った。
「相当、腐れてる縁だけどね」と、私も笑顔を返した。
ケンカ別れから一週間経っても、達也から連絡は来なかった。
苦い後味だけがずっと尾を引いてる状態に耐え切れなくなった私は、ある夜、ついに自分から達也に電話をかけた。
まだ、私の親には話していない。その前にもう一度、今後の具体的なスケジュールも確認したかった。
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