置いてけぼり。
ある週末、取材先でたまたま和菓子の詰め合わせをもらって、私はあんこが好きな黒田にもおすそ分けすべく、彼の部屋に突撃することを思いついた。サプライズのつもりだった。
正面玄関のオートロックで部屋番号を押すと、眠そうな黒田の声が応答した。
「私です、北沢です!」と呼びかけた声は、自分でも驚くほど弾んでいた。
その時だった。チッと舌打ちのような音が聞こえた。それきり、気配はするもののインターホンは沈黙したままだった。
「もしもし?」
不安な気持ちで問いかけると、吐息のあとにやっと声が返ってきた。
「あのさぁ、勝手に来るの、やめてくれる? 今日は予定してなかったんだから」
頭から冷水を浴びせられたように、私は一瞬動けなくなった。黒田の声は苛立っているようだった。
「わかりました。帰ります」
そう言うと、私は早足で黒田のマンションを出た。涙で視界があっという間に滲んでいった。
最寄りの駅へ向かおうと、歩を緩めずにガツガツ進み続ける。
頭の中は「私はただの都合のいいオンナだったんだ」という思いで満杯になり、ほかのことは考えられなかった。
角を曲がろうとした時、後方で「ちょっと待って」という声がした。
驚いて振り向くと、はたしてサンダルを引っ掛けてジャージ姿の黒田が息を切らして追いかけてきていた。
私は乾きかけた涙をさらに拭って、黒田を睨みつけた。西日が眩しい。
「ごめんごめん。さっきは寝てたんだよ。突然起こされたからさぁ」
大して悪びれた様子もなく、かすかに笑っている。
「まあ、上がっていきなよ。でも、ちょっとだけね。夜は仕事したいから」
どうしようか迷いながら、歩き出す黒田を見ていた。私がついて来てないことに気づくと、黒田は面倒くさそうに手招きする。
しかたなく、私はぶっきらぼうな歩き方であとをついて行った。
黒田の淹れてくれた緑茶を前にして、無言で少しずつ少しずつ和菓子を食べる。
リビングにはすっかり傾いた日が眩しいくらいに差していて、この場の空気とはいかにも不釣り合いだった。
私は黒田と視線を合わせないように、クッションフロアの上に伸びた彼の影をずっと見つめていた。
見兼ねたのか、ふっと小さく息を吐いてから黒田が口を開いた。
「あのね、言っておくね」
何か宣告めいたことを言われるのだと、私は覚悟した。
黒田は静かに話し始めた。
ひと月ほど前、思いがけず元妻から連絡があった。娘が大学に受かったということだった。
東京にいる彼らに、出張のついでに十年ぶりに会い、自分は自然と娘の学費を出したいという気持ちになった。
そしてつい先ごろ、たまたま東京本社への異動が決まった。行ったら、たぶんいっしょに住むことになると思う。元妻の病弱な両親はすでに他界しており、その持ち家には十分なスペースがある。
もう一度籍を入れ直すかはわからないが、誰に気兼ねすることもないので、ゆっくり考えようと思う。
「うちの会社、九月が異動時期なんだよね。あともう、半年もないか」
そう言うと、黒田は食べかけの和菓子を一気に口へ放り込んだ。
「ご栄転、おめでとうございます」
私は座ったまま、頭を下げた。声は硬かった。
黒田は口をもぐもぐさせながら、黙って私を見ている。そして、咀嚼し終わって飲み下すと、緑茶を一口すすってから言った。
「僕ね、あなたのこと、好きだったよ」
私はふっと笑った。
そして、堤と最後に二人で話した場面を思い出した。
あの時、私は堤に好きだったと言わなかった。
言ったからって、どうなる? 聞いたからって、どうだというの?
きっと何も変わらなかった。
言葉が虚しく
帰る時、黒田は何も言わなかった。私が、お茶ごちそうさまと会釈すると、かすかに頷いて、いつもの憎らしいほど整った笑顔を軽く返してきただけだった。
玄関を出て振り返ると、閉まりかけた扉の隙間にまだその笑顔が見えた。
さっきと同じ駅への道をとぼとぼと歩きながら、もう一度私は泣いた。
この涙は、黒田の話がショックだったからだけじゃない。
無性に自分に腹が立っていた。悔しくてしかたがなかった。もし立ち止まりでもしたら、私は地団駄を踏んでその場に崩れ落ちただろう。
すれ違う人が、泣きじゃくる私に驚いて振り返ったのがわかった。でも、そんなこと、どうでもよかった。
駅に着いても、気持ちの持って行き場はなかった。
いくらなんでも、この状態で電車には乗れない。
私は駅の裏へ向かって、小さな公園に入った。もう日が落ちかけて肌寒く、そこには誰もいなかった。
ベンチに座ると、コートの襟をかき抱いて、また泣いた。
情けない。きっと罰が当たったのだ。私は黒田に抱かれながら、婚活サイトで真剣にアプローチしてくれるほかのオトコたちと会っていたのだ。そして、黒田と彼らを天秤にかけた。
いや、もっと正確に言うと、黒田を好きだった私は、途中からはほとんどアリバイのためだけに、彼らの時間と気持ちを浪費したのだ。
彼らと顔を合わせたあと家路を辿りながら、「今日の人も合わなそうだった」「まだ断ってないけど、好きになれない気がする」などと黒田に電話で報告していた自分の姿を思い出す。私はその電話をかけることを、楽しんですらいたんじゃないの?
山辺のことを偉そうに咎めていたことも思い出した。
私の方が、もっとひどいことをやっていた。最低だ。
すっかり暗くなって、やっと帰る気になった。
改札をくぐりながら、もうこの駅を使うことはないんだと思った。
黒田は「好きだったよ」と過去形で言ったのだ。
空いた電車に揺られながら、私は暗い荒海へ逆戻りしていく自分を想像した。
折悪しく、私は以前から漠然と考えていた一人暮らしをついに決行しようと着々と準備していた。それはもはや、婚活の一環という当初の目的ではなく、黒田との逢瀬をもっと制約なしに自由に楽しむためと言ってよかった。
それなのに、こんなことになるなんて……笑うに笑えない。
すでに契約して、二週間後に移ることになっている部屋を思い浮かべる。一人さびしくあそこに寝るのだ。その図は、取り残された今の私にひどくお似合いだった。
それからちょうど半年ほどが経ったころ、この不毛な恋の痛手からやっと抜け出しつつあった私を待っていたのは、腐れ縁の元カレだった。
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