儚くも脆く。
その日は平日だった。
十七時半にエクセレント・タイムへ出向くと、やや白髪まじりのオトコが座っていた。パリッとしたスーツ姿がなかなか様になっている。
この人かなぁと軽く会釈しながら奥の立花に声をかけると、待ってましたとばかりににこやかに出てきた。
例によってプロフィールカードをもとにお互いを軽く紹介してくれるのかと思いきや、「じゃあ、あとはお二人で直接お話してくださいね。結果は、明日にでもお電話ください」と笑顔で送り出す態勢だ。
ずいぶん手抜きだな、とますます不信感が湧く。私の方は、この人が通信機器販売会社の社長ということしか聞かされていない。
そんな私の思いをよそに、No.8氏は席を立つと、「お食事行きましょうか」と言って、労るような柔らかい物腰で私を出口の方へと促した。
おぉ、なんか大人だ!
いきなり、いい感触。こういう扱われ方にはグッと来てしまう。
気をよくした私は、即座に立花への不満を引っ込めて、彼に従うことにした。
エレベーターに乗り込むと、すぐ近くのカジュアルなレストランへ行こうと思っていると、No.8氏は言った。全部お任せしておけば大丈夫だという、妙な安心感がある。私の足取りは、いつしかいそいそという感じになっていた。
「今日は、お酒はやめておきましょうか」
レストランの席につくと、No.8氏がメニューを見ながら言った。そして、フードのページを開き、こちらに向けて手渡してきた。
いいぞいいぞ、なんかいいぞ。
さすが、会社を経営するくらいになると、こういう場でもソツなく、紳士的に振る舞うもんなんだなぁ。すぐに恋愛感情が湧いたわけではないけれど、今までの人との違いにさっきから感心しきりだ。
しばしののち、No.8氏が「私は魚介のワイン蒸しとオムライスセットにします。今日はお昼を食べ損ねてて……」と言った。微妙にそのチョイスの意図を測りかねたのだけど、普通に食事するということなのだなと思って、私はミニドリアとサラダのセットを頼むことにした。まだあまりお腹が空いていない。
料理を待ちながら、彼がドライブと読書が趣味なこと、結婚のチャンスは何度かあったけれど、仕事の忙しさにかまけてるうちに逃し続けて、今の年齢まで一人なことなどを話してくれた。
仕事においても人生においても先輩である、ちゃんとした紳士を前に、私はなんだか自分のことなんて話す価値がないような気がしてしまう。
いや、それもあるけど、「ずっと話を聞いていたい」気分にさせられるのだ。私のことにも興味を持ってほしい、なんて、たっくんには思ったくせに、この違いは何なんだろう!? 落ち着いた声と話しぶりのせいだろうか。
彼の読書の趣味は、ほとんどがビジネス書などの実用書に偏っているらしい。読みたいものが次々と出てくるので、小説を読む暇がないのだそう。
「最近読んだので、すごくおすすめなのがあるんですよ」
そう言って、彼はもはや自分のバイブルとして毎日ページを開いているというその本のタイトルを教えてくれた。彼の社の全員に配ろうと思ってるそうだ。そして、私にも本の内容を説明してくれた。
確かに、興味深い。
私は運ばれてきた料理を食べながら、彼の熱弁を真剣に拝聴した。そして、だからこそ尋ねたのだ。
「その本、なんていう人が書いたんですか?」
当たり前の質問だと思ったし、当たり前に答えが返ってくると思っていた。だって、人にも勧めてて、社員にも配ろうとしてるくらいなんだから。
彼は眉をしかめて「えっと……」と言ったきり、額に手を当てて黙ってしまった。やっと言った言葉は──
「誰だっけ」
えっっ!? 毎日読んで、内容をそらんじてるくらいなのに、著者名がわからないの??
私はキョトンとした。それはないだろう。
「何をやってる人が書いたんですか? 経済学者? 外国の方?」
「えぇ、外国の……ごめんなさい、わからないです」
ウソでしょ!?
私はすっかり興ざめしてしまった。
私も本が好きだ。タイトルは言うまでもなく、そこまで気に入ってる本なら著者名も絶対に覚えている。
そう思ったとたんに、頭の中の紳士的な社長像は、儚くも脆くパリパリとヒビ割れていった。
今さら現実を見るように、テーブルの上に視線をやった。
さっきから、店員によって真ん中に置かれた魚介のワイン蒸しは、手つかずのままどんどん冷めていっている。それはどう見ても、二人で取り分けて食べるため、という格好で鎮座している。
「これ、冷めちゃいましたね」
話題を変える意図もあって、私から言ってみた。
するとNo.8氏は、「あ、そうだ、そうですね」と皿を自分の方に持っていき、取り分け用のサーバーは完全無視でダイレクトにムール貝を口に運び始めた。
いや、私もぜひとも食べたかったというわけではない。でも、真ん中に置かれていたのだ。ちょっと訊くくらいはしない??
きっと無意識にじっと見ていたのだろう私の視線を感じてか、「あ、これおいしいですよ」と言って、No.8氏はいきなり私の空いたサラダの皿に向かって、自分のスプーンでえびを分けてくれようとした。
あっちの皿からこっちの皿まで、テーブルの上にワイン蒸しの汁がぼたぼたと点線を描いた。
「あ、あ〜あ」
No.8氏は、情けない声を出した。
それは、あっという間のことで、なんとも無様な光景だった。
私の頭には、「どうして?」しか浮かばなかった。
どうして著者名を覚えてないの? どうして「食べませんか?」って最初に言ってくれないの? どうしてサーバーを使ってくれなかったの? どうしてどっちかのお皿を寄せなかったの?
どうして? どうしてなの!?
最初の好印象はひび割れただけでなく、いつの間にかすっかり霧散していた。
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