七十一話 ローレライの門

「あ……流石にこれ以上は無理……」


 出口まで50プラムを切った頃、水壁を展開していたアクエスが音をあげた。

 水壁が解除された瞬間、堰き止められていた水の濁流が恐ろしい速度で俺たちに迫る。

 一気に膝丈まで増えた水嵩は尚も勢いを増して今にも通路を満たしそうだ。

 完全に水に浸かったが最後、息も出来ないまま溺れ死ぬ光景が脳裏をよぎる。


「まずいな……予想以上の速さで増水している。このままでは——————」


 腰にまで到達し水没した通路でこれ以上、足を早める事は不可能と判断したのだろう。

 それでも諦めずにクラネスは前へと進む。直に胸の高さまで達する水深ではもう泳いだ方が早いだろうが、濡れた衣服が邪魔でそれすらも満足に出来ない。


 加えて既に限界まで力を行使したセシルとアクエスはもう一歩も動けない有様だ。

 でもだからって二人を見捨てることなんて……。


「悩んでる時間も惜しい……。殿下、アクエス、まだ水の連換術を発動する事は可能ですか!?」


「チョロチョロとした水鉄砲でいいのなら……。水壁のようなものは無理————」


「では、顔の周囲に水の膜を張って空気を確保することは!?」


「それくらいならまだ出来ると思います……。それでも持って五分が限界でしょうけど————」


「クラネスが考えてること把握した。普段なら全員まとめて水の膜を展開して、水中を移動することもできるだろうけど、今は二人でもこの人数分の酸素を確保した、小規模の水の膜を連換するのが精一杯……」


「……五分あれば十分だ。お前達、殿下とアクエスを決して振り落とすなよ。呼吸が続く限り諦めずに進め!!」


「は! 副隊長!」


 クラネスの鼓舞する号令を合図にセシルとアクエスがなけなしの力を振り絞った水の連換術を発動する。俺の顔の周りにも柔らかい水の膜が形成された。


 既に両足は水中に浮いている。意を決して両腕を動かし足をバタつかせ水中に潜った。

 二人が連換術で形成した水の膜は十分機能しているようだ。今のところ息継ぎも必要なく水中でも地上と同じように呼吸が続く。だが、顔の周囲を覆ってるだけあって過信は禁物だろう。

 一度息継ぎをするために水面に顔を出す。どうやら完全に水没しない限り、こうやって酸素を補充する事は出来るようだ。——通路の天井にまで水没するまでの間に限定されるけども。

 だが、水底を歩きながら二人を運んでいる親衛隊員の進む速度は歩いているよりも遅い。

 とてもじゃないが五分で出口まで到達できるようなペースじゃない。

 二人が連換術を発動して既に二分は経過した。

 このままじゃ全員酸素が尽きて溺れてしまうのは避けられない。

 どうすればいい? 俺の風の連換術は水の中じゃ殆ど機能しない。

 せめて、水の抵抗を極限まで減らすことが出来れば……。


 そこまで考えてはたと思い至る。聖葬人ジュデールと対決した時に、七色のエーテルと呼応するかのように身体を覆った七色の風。


 物理法則を無視した速度を出したにも関わらず、身体には何処にも異常は無かった。

 水中であの風を全員に纏わせることが出来れば、残り少ない酸素でもなんとか出口まで到達する事は出来るかもしれない。


 だけどぶっつけ本番で上手くいく保証なんて無い。

 あの時は地下礼拝堂に充満する七色のエーテルがあったからこそ、奇跡のような事が起こったわけで、俺一人の力でそんなことが出来るなんて……。


 とにかく、息が続く限り二人を背負って運んでいる親衛隊員を押してでも進むしか無いだろう。

 充分に酸素を水の膜の中に補充し、再び水中へと潜ろうとした時だった。


 流れる水に混じって明らかに不思議なエーテルが紛れている。

 それも水の精霊の御神体が安置されていた大広間から流れ込んできたと思しきものだ。

 これは……洗脳されていたシエラが御神体に注ぎ込んでいたエーテルなのだろうか。


 左腕に装着した翡翠の籠手が水中に充満する不思議なエーテルを取り込んで、淡く七色に発光している。これならあの時の不思議な現象を再現する事も可能かもしれない……。


 直ぐに水中に潜水し連換術を発動する準備を整える。

 時間は直に三分を過ぎる。もう一刻の猶予も無い。


「元素収束——」


 翡翠の籠手にたっぷりと七色のエーテルを取り込み、あの日、エリル師匠が俺を燃え盛る業火から護ってくれた『あの風』を強くイメージした。


「元素——解放!」


 本来なら水中で吹くはずの無い七色の風が俺たちの身体を覆うように吹き始め、水の抵抗が減少する。エーテル風とでも表現すべきそれは、水中でもお構いなしに吹き荒れて、前方へと進む水流をも生み出した。


「これは……身体が軽くなった? グラナ、お前がやったのか?」


「話は後だ。もう酸素が尽きるまで時間が無い。この七色の風で覆われている状態なら、水中でも地上と変わらない速さで移動出来るはず……」


「ああ……。これなら速く駆けることも出来る——。お前達、まだ走れるな!?」


 クラネスの声掛けに親衛隊員達も驚きを隠さぬまま水中を駆ける。

 さっきまでとは段違いの全力疾走————。

 俺も全力を振り絞って追い風を連換し水流を調整し続ける。実際、やってみてよく分かる消耗の度合い。連換術を発動させたまま移動し続けるのがこんなにキツいなんて初めて知った。

 

 セシルとアクエスが激しく消耗したのも、今なら分かる————。

 少しでも気を抜いた瞬間、意識が飛びそうだった。


「見えた……ローレライの門だ。まだあそこまでは浸水はしていない——」


「よし……。後少しだ! 一気に駆け抜けるぞ!」


 水底から上に視線を向ければ、激しい水の流れを象った幾何学的で巨大な門が視界に飛び込んで来た。門からこの深層領域まではかなりの長さの階段も設置されている。

 既に階段の半分まで浸水しているが、大広間の前にあった門と同じようにエーテルを通さぬ限り何も通さないのであれば、あれさえ閉じてしまえば帝城まで水が浸水するのも防げる……と祈るしかない。


 最後の力を振り絞り水没した階段を駆け上がる。

 全員が水中から水面へと飛び出すと同時に、呼吸を維持し続けてくれた水の膜も、物理現象を無視した七色の風も効力を失った。


 速度を緩めず急いでローレライの門を潜り抜けた。

 先に脱出していた親衛隊員達とラサスムから来た援軍の男達から歓声が上がる。

 だが、喜んでばかりもいられない……。急いでこの門を閉じないと————。


「ハァ……ハァ……。セシル、ローレライの門はどうやって閉じればいい!?」


「……門を開ける時に注ぎ込んだエーテルを吸い出せば、自然と閉じるはず……です」


「意外と単純な仕組みなんだな。分かった! 元素……収……」


 翡翠の籠手を門に向けてエーテルを吸い出そうとした瞬間、これまでの無理がたたったのか身体がぐらっとよろめいた。

 足元が覚束ず、倒れ込む俺にクラネスが急いで駆けつけようとする。が、その手は僅かに届かない——。

 この体勢じゃ受け身も取れないな……と、頭を強打するのを覚悟した時だった。


「師匠!!」


 あの時よりは短くなった銀髪をたなびかせて、小柄な体躯であの時も俺を守ってくれて、離れ離れになってから、どれだけその存在に心救われていたのかと気付かされた弟子が、両手を広げて俺を受け止めた。


 けれど、そこはやはり非力な女の子。俺の体重を受け止め切れずに、二人仲良く石の床に倒れ込む。


「いたたっ……。はっ!? 師匠!? 大丈夫ですか!? 頭打ってませんか!?」


「ああ……。お陰でどこも痛く無い。助かったよシエラ——」


「——無事で良かったです……。後は休んでてください。ローレライの門は私が閉じますから……」


「閉じるって……。シエラ、お前もしかして————」


「——少しだけですけど、操られていた時の記憶が残ってるんです。あの門の閉じ方も————」


 俺を優しく床に寝かせたシエラはすくっと立ち上がる。

 そして、胸元から七色石のロザリオを取り出し『ローレライの門』に向けた。

 ボロボロの白い聖職者服を纏い、真剣な面持ちで門と対峙するシエラの迫力に、周囲は固唾を飲んで見守っている。


「元素……収束!」


 力強い掛け声と共に七色石のロザリオへと、門に注ぎ込まれたエーテルが吸い出されてゆく。

 シエラだって決して万全な状態じゃ無いはずだ。ここで師匠が踏ん張らないでどうする——。

 満身創痍の身体をなんとか起き上がらせて、俺は再度、翡翠の籠手を門に向ける。

 無理して連換術を行使しようとしたその時、俺の背後に風が渦を巻き何かが顕現した。


(……やめときな。体内のエーテル残量が極端に少ない時に、エーテルを急激に取り込むのは、自ら体内のエーテル濃度を高めるようなもんだ。——下手したら死ぬぞ、お前)


「……風の精霊、いたのかよ」


(ったく、相変わらずつれねぇ野郎だな。————少しは弟子を信じてやれよ。あのロザリオに選ばれた以上、あの子は聖女……エステルの意思を継ぐものなのだから)


「……聖女、エステル?」


 子供の姿をした風の精霊は何も答えない。ただ黙ってシエラが『ローレライの門』を閉じるのを見守っている。それも、何処か懐かしい誰かを眺めているような……。


「やった……門が閉じる————」


 どれだけのエーテルが注ぎ込まれていたのかは分からないが、急速に青い輝きを失った門は音もなくゆっくりと左右の扉を噛み合わせるように閉じた。


 この分なら今いる地点が浸水することも無いだろう————。

 いつの間にか風の精霊は、また姿を消した。

 謎がまた一つ増えたが、そんなことより……。


「師匠……。また会えて……本当に良かったです————」


「……ああ。お帰り、シエラ」


 転びそうになりながらも俺に向かって飛び込んで来た愛弟子を優しく抱きとめる。

 まだ、やらなきゃいけない事は残ってるかもしれない。

 それでも今だけは、この再会を心から噛み締めた————。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る