27

 イリスは飛行機のチケットを手配し、財布を手にしただけの着の身着のままの姿で、逃げてきたはずの故国ユースアに降り立った。


 ユースアとトゥイでは光の色が違った。空は涼しく澄み渡っている。雲には雨ではなく氷の気配がした。風にも。イリスの踏む緑の下生えは弱くはなかったが柔らかで弾力があった。声高に叫ぶのではなく、ささやいているようにも思える色をしている。

 ひっつめた髪からわずかにほつれた後れ毛を押さえつけて、彼女は風に吹かれていた。抱いた花束が香る。あの人が愛した百合の花。きっと、あの人はあそこでたくさんのそれらに囲まれているはずだったけれど、この花を選んだのは、それが一種のけじめであると思ったからだ。私は自ら望んでここに来た、あなたの愛した花を持って、あなたに会いに。


 様々な石の碑の間を縫い、イリスは一歩一歩、踏み慣れぬ墓地を歩んでいった。草には彼女の黒いパンプスが埋まり、風は花の香りを撒き、髪や頬に触れていく。ティファニー・ヴィジット・カナリーの墓の前にたどり着いたとき、一瞬、彼女は母の墓を間違えたのではないかと思った。


 愚かしい親類に見放され、養い子の訪れを久しく受けていなかったはずの墓は、今は白い光を放ち、どこかの国の王女に信奉者が捧げるような、色とりどりの花に埋もれていたのだ。


 言葉をなくし、悪意ある行動よりも強く受けた衝撃に立ち尽くしたイリスは、やがてゆるゆると息を吸い込んで、口を覆った。――誰の行いか、分かってしまったからだ。

 草を踏む音に振り返ったイリスは、スーツに身を包んだフラムの姿を見た。笑うのと怒るので表情ははっきりと定まらなかった。「ノイったら」と泣きそうな声が漏れる。

「ノイを責めないでください。私が聞き出したんです」

「ごめんなさい、イリス」フラムに肩を抱かれたノイは、同じようにスーツに身を包んで、しょんぼりと肩を落とした。けっして怒ったわけでなかったイリスは表情を和らげた。

「ティファニーに花をくれたのはあなたたちね」

「ええ」

「ありがとう。母は常々、子どもは私だけだと言っていたから、本当はずっと気がかりだったの。一度来なければと思っていて」

 逃げたわけではないという意味を含ませると、フラムは頷いた。

 イリスが選んだ百合は、数ある花のひとつになってしまったが、ティファニーはとても美しかった。フラムからたくさんの花を贈られ、少女のように頬を染めて、彼にお礼のキスを贈ってくれるだろう。笑みが浮かんだ。イリスが憧れるような素直さと好意を示すことのできる人だった。


「一人は、寂しいわ」

 イリスは告白した。どこか遠いところで、潮鳴りが聞こえている。寂しいとは思わないわ……そう言ったイリス自身が脳裏に浮かんだ。

「ティファニーには私だけだった。私には、誰もいない。それはきっと、私を愛してくれる人から見れば、寂しく見えるんだろうっていうことが、ここにきて分かったわ」

 フラムの目は、墓石にひざまずくイリスを見守っていた。彼女は振り返り、立ち上がると、その瞳を見て泣きそうに笑った。これから言う言葉は彼女に辛苦を覚えさせた。それでも、どうしても言わなければならなかった。彼は始めた、彼女もまた。

「私の望みを聞いてくれる?」

 フラムは頷く。何も言わず、聞かず。

「今からとてもひどいことを言うわ。それでも?」

「ええ。あなたが初めて私に望むことだから」

 イリスは一度目を閉じた。ティファニー、ごめんなさい、力を貸して。



「私より先に死なないで」


 言葉の残酷さにやはりイリスは堪えきれず、泣き出しそうになって顔を覆った。


「私を置いていかないで。私を先に死なせて。こんなことを言う自分が嫌いなの。愛しているのに先に死にたいなんて。誰にも言えない。でもひとりぼっちはもう嫌。私を守って。私を、愛して……」


 フラムはイリスを引き寄せた。力強い腕に抱かれ、ああ、と吐息が漏れた。素直に身を預けようと思えば、呆気ないほど彼女は彼の胸に収まり、ぬくもりも鼓動も心地よく、涙する彼女をあやした。

「誓いましょう。たとえあなたの恐れが現実になっても、私はあなたを孤独にはしない」

「怖いことは言わないで」

「大丈夫です。だって、ここにはノイがいる。それに、私はきっと、あなたに家族をあげられる。あなたを永遠に愛する家族を……」

 涙目をあげるイリスに、フラムはささやいた。

「簡単です、イリス。呪文を唱えればいい」心からそれを望み、待ち受けている。「たった一言、勇気を出せば。歌って、私の金糸雀レディバード」

 イリスは息を吸った。これまで封じ込めていたその言葉は、大いなる勇気を持って唱えられた。


「愛しているわ、フラム」


 そのとき、風が吹いた。突風ともいうべき強い風。ノイと目を閉じたイリスを庇ったフラムは、驚いたようにノイの名を呼んだ。イリスも彼を見た。

 ノイの身体から、白い光が立ち上っている。心地良さげに目を閉じていた少年がまぶたを持ち上げると、そこにあったのは青い瞳だった。ユースア人の、朗らかで明るい女性の瞳。


『もう大丈夫ね? ひとりじゃないわね?』


 まるで母親のように懐かしい声がそう言って笑うと、再び風が吹いて彼らを取り巻き、あっという間に空高く駆け上っていった。突き抜けるような光を浴びたように感じたイリスは、風を折って天空を見上げ、目を見開いた。

「虹だ!」ノイの声が響く。

「ティアムだったのか……」

「なに?」聞き慣れない言葉を聞き返す。

「ティアム。依り代です。ノイは精霊の対話能力の持ち主だったようですね。この子があなたのもとに現れたのは、多分、あの精霊があなたのもとへ導いたからでしょう」

「そうなの、ノイ?」イリスが覗き込むと、少年はにっこりした。

「僕がいます、イリス。僕たちは、あなたを愛しています」

「懐かしい声がしたわ、まるで娘を心配するような」肩を抱く手にもたれて、イリスは七色のアーチを見上げた。「いいえ、きっと心配したのね。だからちょっと悪戯をしたんだわ。そういうところのある人だったもの」

 神々のメッセージを伝える七色の橋を見ながら、イリスの瞳に涙が浮かんだ。それは心の奥から自然と溢れ出てきたものだった。彼女の悲しみの淵には水が溢れ、凍り付き、枯れていたものを押し流しつつあった。そしていつかそれは喜びに変わるだろう。あの美しい島で見た、透き通ったマングローブの泉のように。彼らと手を重ねながら、イリスは確信を抱いた。


 私たちは幸せになる。

 そして、私はひとりにはならない。絶対に。


 彼を見つめる瞳に、イリスは心からの愛を表した。涙と微笑みは、光に輝いた。フラムの瞳は誰よりも彼女を愛を訴えており、柔らかな髪に優しいキスを降らせてくる。目を細めながらノイと微笑みを交わし合って込み上げたのは、たった一つの言葉だった。

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