イリスが二階に上がると、その後ろをついていこうとしたノイは、しかしフラムにもの言いたげな視線を投げ掛けてきた。その意味は様々あるが、フラムは言った。

「〝意外に思うだろうが、酔狂ではない〟」

 ノイの目に、わずかに批難の色が浮かぶ。

「〝召使いの真似事をなさらずとも……フー・ラム様なら、レディも歓迎してくださいますでしょうに〟」

「〝素直に名乗って受け入れられるとは思いがたいな〟」フラムは緩く腕を組んだ。少年は唇を曲げる。彼もそう思ったのだろう。

「〝占術の御言葉は〟」ノイの目が真剣味を帯び、射抜くように鋭くなる。「〝レディに関係することだったのですか〟」

 トゥイ民族の一部の家系には、誕生日ごとに占いによって予言を与え祝う習慣を持つ者たちがいる。当たり障りのないものもあれば、断定的なものもあり、古すぎるその行為を馬鹿馬鹿しいと笑う少年時代を、フラムやいとこたちは送った。習慣と伝統を重んじられる成年に成長した今は参考程度に聞いているが、今年聞いたものは、彼にとってかなり頭を働かせなければならない言葉だったのだ。

 フラムは低く呟いた。

「〝お抱えの占い師は、私が伴侶と出会うと言っていた……〟」

 階上からイリスが呼ぶ声がしている。それに答えようとして、インターホンが邪魔をした。こらえ性のないやつらめ、とフラムは目をすがめる。彼女の従兄弟があまりいい性質を持っていないことは、昨夜の一件でもう分かっている。

 ノイは、かわいそうに、驚きで丸い目を更に目を丸くした後、威嚇するようにフラムを睨んでいた。

「〝言ったろう? 昨日から休暇なんだ。休暇が一日で終わったとは私は言っていない。仕事の心配はしていたがね〟」玄関に向かいつつ、上へ行くように手を振って、言った。「〝それに、私のことを知らない人間と過ごすのも悪くはないさ〟」


 ドアを開けると、二人の男が立っていた。夜目には分からなかったが、金髪碧眼の白人で、お互いによく似た顔をしていた。いかにも大学を出て実業家を気取っている富裕層の坊々だ。しかしフラムはそれが偏見に基づくものであるという自覚があった。エイジア人の彼には白人は判別がつきにくい。逆の場合もしかりだ。

「昨日はどうも」と、戸惑いを浮かべる彼らにフラムは言った。一方は彼の存在が半信半疑だったらしく、幻を見るように目をしばたたかせている。それだけで、イリスがしばらく恋人の影もなかったことが確認できた。

「やあ……イリスは?」聞き覚えのある声が言う。昨日会ったルイの方だと見当をつけた。女性をサディスティックに追いかけ回すような男とは、あまり付き合いたくはないが。

「彼女は会いたくないと言っています」

「お前は誰だ?」ここでようやくフラムの存在が夢でないと確認できたのか、マイクが大声を張り上げる。「ここで何をしてる!」

「そちらの方から聞いたのでは?」フラムはにっこりした。「イリスの婚約者です」

 裏を見せない笑顔に怯んだようにマイクが黙り、ルイを伺っている。しかし兄の方が冷静だった。腕を組み、「君がイリスの婚約者だと言うなら」と言って、にやついた。「証拠はあるんだろうな?」

「証拠? 私がここにいる、それだけで十分ではありませんか?」

「何かあるだろう? 婚約指輪だとか、親と映った写真だとか、誓約書、だとか」最後の言葉に彼は力を入れた。それは二重の意味を含んでいた。ルイは、フラムが金で買われたと思っているのだ。「いくらもらって、そんなフリをしてるんだ?」


 その時、フラムは背後でドアが開く音を拾った。ノイの声がして、トゥイ語で「待ってください」と静止している。押し問答をしているようだ。トゥイ語で叫んだのは、ノイがこちらにイリスの行動を知らせようとしたからだろう。その甲斐はあまりなく、風の強い外にまで聞こえる声で「どいてちょうだい!」とイリスが叫んだ。フラムは後ろに怒鳴った。

「〝ノイ、イリスの服装を、できるだけ乱せ!〟」

 困惑の極みだったのだろう、返事はなかったが、フラムは焦ることなく、遺産を狙う男たちに言った。

「言ったでしょう、私がここにいるのが証だと。どうしてイリスが出てこないと思いますか? 彼女は『寝室で寝ている』から、私が代わって応対に出たのです」

 そして髪を乱し肩で息をするイリスの登場で決まりだった。ワンピースドレスの肩紐を掛け直す彼女の姿はいかにも急いで支度をして寝室から出てきた、という姿で、イリスが嫌うような人間なら彼女とフラムがそれまで何をしていたかという想像力を見事に働かせてくれるはずなのだった。そんな想像をされていることは夢にも思わないイリスは、青い瞳を怒りに燃えさせ、フラムの前に割って入ると、面食らっている従兄弟たちに言い放つ。

「彼に失礼なことを言うのは許さないから! ルイ、あなたが私にしたことを、私は忘れてはいないわ。二度と家に上げる気はありません。マイクも同じよ」

「イリス――」

「分かったら、二度と接触してこないで。そうすればいつかはいいことがあるかもしれないわ」あまりの剣幕に押された従兄弟たちの前で、イリスは音高くドアを閉めた。


 大声を張り上げたために乱れた息でリビングを突き進み、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。ノイがこわごわとフラムの背後に現れ、様子をうかがった。フラムは言った。彼の思いも代弁するつもりで。

「何故あなたがそんなに怒るのです?」

「怒らずにいられる? あなたたちを侮辱する権利なんて、あの二人にはないのに!」

 つい数分前まで、穏やかに食事していた女性とは思えない振る舞いだった。かと思うと、不意にその場にしゃがみ込む。気分でも悪くなったのかと駆け寄ると、その肩は震えていた。「大丈夫よ」と彼女は平気そうではないが、笑った声で言う。

「大丈夫よ……あの二人に大声を出すなんて初めてだったから、今になって震えがきちゃったの。いじめっ子だったんです、あの人たち」イリスの吐いた息は震えていた。「もう来ないかしら?」

 フラムは彼女の、腕をさする手を取る。強く見えるのに弱い、弱く見えるのに強い――見るたびに捉える色が違うオパールのような女性だと思った。しかし、取った手は乳白色で柔らかくとも、秘めた熱を予感させて、温かい。

「来ても私が追い返します。私はあなたの夫ですから」

 イリスは弱々しく微笑んだ。「彼らにとっては、ね」彼女は決してフラムの台詞を本気とは取っていなかった。彼女のその言葉で、これからの生活は決まったようなものだったのだが、このときのイリスはまだ気付いてはいなかったのだ。フラムは決めた。

「〝嘘にするつもりはありませんよ〟」

 困惑の顔をするイリスの手を取った。やはり、彼女はトゥイ語が堪能ではないらしい。それすらも楽しいのは、彼の手の中にある柔らかく家事をする美しい女性の手が逃げることを知らないからだ。その爪に口づけながら、フラムはそっと微笑した。この若く美しい、異国人の女性……彼女を、私のものにする。

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