第97話中西彰子と麗が話をしている研究室に、高橋麻央が入って来た。

麗は、面白そうな顔で見つめて来る中西彰子に、もう少し説明する必要があると思った。


「石見の国に地方官として赴任していた柿本人麻呂が、大和へ戻る際に石見の国に残してきた現地妻を思って詠んだ一首」

「石見の海には、良い浦もなく、潟もないと他人は言うけれど、そんなことは自分は、どうでもいいこと」

「そして他人から見れば、どうということのない田舎の妻かもしれない」

「しかし、この自分にとっては、愛しくて仕方がない、いつでも寄り添ってくれた妻」

「当時、地方官の現地妻は、ほとんど経済的な理由で、都に帰る男に同行はしない」

「だから、男の都への帰還は、永遠の別離」

「最初に詠んだ石見の海の描写は、まるで映画のオーバーラップのように、愛しくて仕方がない現地妻の姿に重なります」

「都に戻る山道を、苦しみながら歩きながら、気になるのは残した妻のことばかり」

「寂しくは思っていないだろうか、これから、どんな人生を過ごすのだろうか、想いはつのるばかり」

「もう一度、妻と暮らした家の門を見たい、妻の姿を見たいと、嘆く」

「そして、最後の句の、なびけこの山」

「この絶唱のすごさ、激しい爆発は、本当に圧倒されます」

「こんな強い絶唱は、なかなかありません」


麗にしては、珍しく言葉が長く続いた。


中西彰子は、うんうんと頷く。

「まさに正統的な解釈、しかも深い」

「確かに、残してきた妻、残すしかなかった愛しい妻の顔が見たくて、それを見せないでいる山に、なびけと命令するなんて、すごいよね」

「いろんな解釈があるけれど、いいなあ、それ」


麗は、少し反省する。

「すみません、まだ初心者で、研究者を前に、素人の解釈を」


そんな麗に中西彰子は、ますます興味を持ったようだ。

「ねえ、麗君、もっとゆっくりお話したいなあ」

「私のゼミとか、研究会があるから、そこに来ない?」

「私もまだ勉強中の身、是非、来て欲しいなあ」


中西彰子の口から、麗がまさに望んでいた言葉が出た。

麗は、「はい、ありがとうございます、是非」と、頭を下げる。


その後は、様々な万葉歌人の話題となり、麗も知っている限りは、話に応じることが出来た。

そして、スマホのアドレスを教え合っていた時だった。

研究室のドアにノック音。

中西彰子が、ドアを開けると、高橋麻央の姿がある。


麗は、少し焦った。

まさか、高橋麻央が、ここに来るとは想定していない。

それでも、立ち上がって、高橋麻央に頭を下げる。


高橋麻央は、研究室に入って来て、面白そうな顔。

「へえーー・・・麗君、万葉もやるの?」

すると中西彰子。

「うん、なかなか面白い子だね、麻央は知り合い?」

高橋麻央は麗の前にどっかりと座る。

「いや、知り合いも何も、今度一緒に住んでもらって、共同研究をしましょうって」

中西彰子は、目を丸くする。

「え・・・麗君、源氏もわかるの?」

「麻央が認めるって、すごい話だけど」

「でも・・・万葉の解釈の才能もすごいよ」


麗は、「はぁ・・・」と下を向く。

どうにも、年齢が倍近い女性二人には、腰が引ける。


その麗に高橋麻央が質問。

「はい、麗君、源氏物語に引かれた万葉集の歌は?」


麗は、あまりにも突然で、直接的な質問で、考える時間もない。

思いつくままに、

「石走る 垂水の上の さわらびの萌え出づる 春になりにけるかも」

「巻8でしたか、志貴の皇子が春が来た歓びを生き生きと詠うもの」

「それと、源氏物語の早蕨の巻で中の君の歌」

「この春は たれにか見せむ 亡き人の かたみに摘める 峰の早蕨」 」

「ただ、中の君は、父の八の宮と、姉の大君の二人に先立たれ、ひとり淋しく宇治の山荘に残されて、気持ちが晴れない状態で・・・」と懸命に説明。


麗の反応を見た中西彰子は目を丸くし、高橋麻央は満足そうな顔で麗を見つめている。

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