第82話日向先生宅の麗(1)

麻央の車は麗と佐保を乗せ、ほぼ渋滞もなく、北鎌倉の日向先生の屋敷に到着した。

海が近いので、ほのかな潮風を感じる。


麗は先生の屋敷に入り、実家の近くにあった御用邸を思い出した。

「明治から大正・・・昭和の初期の雰囲気」

「実にレトロだ、住みやすいかどうかは、わからない」


中学校の遠足で、クラスメイトたちが文句を言っていたことも思い出した。

「何、これ、木造ってダサイ」

「昔は昔でしょ?何を有難がる?」

「火を付けたら、すぐに全焼、無価値になる」

「市長とか、謝罪会見するのかな?」

「え?それ見たい!面白そう!」

「誰かやりなよ、面白いから!」


麗自身は、全くそんな話には加わらない。

もともと、友人がいなかったのもあるし、面白半分に歴史を馬鹿にするのは好きになれない。

しかし、反論をしようものなら、ますます変人扱いをしてくるのが、田舎者たちの得意とするところである。


「群れをなしていれば、ご機嫌」

「群れのリーダーに逆らうものは、徹底除外」

「群れのリーダーに理解できないことは、悪いこと」

「まるで猿山の猿と同じ、どうでもいいけれど、付き合うのだけは御免こうむる」

「男も女も低俗な話題しか口にしない、考えもしない、目の前のことだけ」

「そもそも、あいつらは本を読まない、買うのはコミックばかり」

「ゲームしかやっていない連中も多い」

「それで試験でひどい結果になっても、全く反省がない」



しかし、麗はいつまでも過去を思い出して苦々しい気分に浸っているわけにはいかない。

何しろ、源氏物語の大家、日向先生が面前に姿を現したのである。


「ああ、これはこれは、お呼び出しして、申し訳ありません」

相変わらず、温厚な表情と声に、麻央と佐保は当然、麗も頭を下げる。


麻央が笑顔で麗の袖を引く。

「麗君、緊急避難で連れて来ました」

「当分は、わが家で預かろうかと」


麗が神妙な顔で黙っていると、日向先生は麗に声をかける。

「三井さんの件で、心配をかけてしまいました」

「まさか、こんなことになるとは」


日向先生が頭を下げるので、麗も下げるしかない。

「いえ、先生に頭を下げられても困ります」

「僕も予想外のことで」

と、同じような言葉を返す。


日向先生は、麗の顔を見て、尋ねる。

「ところで、麗君、貴方の源氏とか古典の知識は、相当なものと思うのです」

「とても、高校を出たばかりの大学一年生とは思えません」

「どちらかの先生につかれて、学ばれたとかなのでしょうか」


麗は、また答えに困った。

麗のその方面の知識は、主に九条の大旦那と、母の実家の叔父晃に学んだもの。

しかし、それをここで口に出すのは、実に憚られる。

麗は、懸命に言葉を選んで答えた。


「いえ、特別に学者などの先生について習ったわけではありません」

「ただ、知り合いに詳しい人がいて、勉強の仕方などを指導してもらっただけで」

「それも、頻繁ではなく、ほぼ独学となります」

「ですので、正式な学問ではないので、ところどころ、綻びがあるかと思います」


日向先生は、満足そうな顔、また別の質問。

「源氏以外に古典で読んだ本はありますか?」


麗は、少し落ち着いた。

源氏以外では、あまり隠す必要もないと思う。

「はい、万葉集、古今、新古今などの歌集」

「伊勢物語、讃岐典侍、更科日記、建礼門院右京太夫」

「宇津保、俊陰も読みました」

「それと白氏文集は当然」

・・・・


麗が読んでいた古典は、実に多かった。

麻央と佐保は目を丸くして、日向先生は目を閉じて聴いている。


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