十二曲目『祝福の鐘』
俺には、イズモという兄がいた。
十歳年上のイズモ兄さんは一言で言うと__ヒーローだ。
成績優秀、運動神経抜群、爽やかでいつも笑顔を絶やさない、優しくて頼れる好青年。正義感も強く、誰かを助けるのになんの躊躇もなく飛び出してしまうような、そんな人。
誰もが憧れるヒーローのイズモ兄さんは__俺にとっても、憧れだった。
両親が喧嘩ばかりしていた幼少期。部屋の片隅で怯えていた俺を、イズモ兄さんは優しく抱きしめてくれた。
父親にそっくりな俺を嫌っていた母親からも、イズモ兄さんは守ってくれた。
学校で虐められていた俺を、イズモ兄さんはいつも笑って話を聞いてくれた。
心を壊すことで自分の身を守っていた俺にとって、イズモ兄さんだけは唯一の味方だった。
イズモ兄さんの前では年相応に笑えた。色々話すことが出来た。どんな時も俺を見捨てず、誰よりも俺のことを想ってくれていた。
そう__俺が誰かを守ろうと、助けようとする行動は全部……憧れだったイズモ兄さんの
◇◆◇◆
ガタガタと震えて動けなくなっている俺を無視して、ルガルたちはガーネットに向かって走り出していた。
必死に抵抗するガーネットだけど、素早く連携したルガルたちの動きに翻弄され、赤い甲殻が傷だらけになっていく。
鮮血が舞い、ガーネットの悲鳴が響き渡る中、ボスのルガルはまるで愉しんでいるかのように口角を歪ませていた。
「グル……ル……ッ!」
ガーネットはぜぇぜぇと息を荒げ、フラフラと足取りが覚束なくなっている。ただでさえ年老いている上に、流れている血の量と体に刻まれた傷によってガーネットの体力は限界が近くなっていた。
__このままじゃ、ガーネットが……ッ!
誰かガーネットを助けてくれ。そう願っても、この森には魔女以外戦える人はいない。
だけど、魔女は一向に助けに来てくれなかった。気付いていないのか、それとも気付いてて動いていないのか。
どちらにせよ、今ガーネットを助けられるのはこの場には……一人しかいない。
__でも、足が……。
分かっている。俺しか助けられる人がいないってことは。
でも、足が言うことを聞かない。戦うことへの恐怖心に足は震えるばかりで、一歩も前に踏み出せなかった。
__イズモ兄さんだったら……ッ!
もしこの場にイズモ兄さんがいたら、間違いなくルガルたちに立ち向かっていただろう。
俺みたいな紛い物の正義感じゃなく、純粋な正義感で走り出していただろう。
俺は所詮、イズモ兄さんの真似をしてきただけだ。
本当の俺は__戦うことに怯えるだけの弱者に過ぎないんだ。
「__グルォォォォォォォォォッ!」
すると、ガーネットは咆哮しながら仰け反り、大きく息を吸い込む。
大きく開かれた口の中に火花が散り、思い切り吐き出すと口から火球が放たれた。
草花を焼きながら一直線にルガルたちに向かっていく火球。人一人ぐらいなら容易に飲み込めるほどの大きさの火球に、ボスのルガルが前に出た。
「__ガァァァァァァァァァァァッ!」
そして、ボスのルガルは同じように大きく仰け反りながら息を吸い込むと、口からおぞましいほどのどす黒い魔力を吐き出す。
全てを飲み込む黒い魔力と火球がぶつかり合い、爆音と共に衝撃波が波紋のように広がった。
__うわぁッ!?
襲ってきた衝撃波にゴロゴロと地面を転がる。地面を震わせ、吹き荒れた暴風に森の木々が揺れ動いていた。
衝撃波が収まるとガーネットは目を見開いて驚き、ルガルはニヤリと口角を歪ませている。
__ルガルが、ブレスを吐いた……?
俺が知っている知識では、ルガルは鋭い爪や牙での近距離攻撃しかなく、遠距離攻撃の手段を持っていないはず。
だけど、ボスのルガルは黒い魔力の奔流……ブレスを吐いていた。
通常ではあり得ない攻撃に愕然としていると、五頭のルガルがまたガーネットを襲う。
体にしがみつくように爪を突き立てられたガーネットは、その重みに耐えきれずに地面に倒れた。
「__グルアァァァァッ!?」
甲殻を貫かれ、肉を切り裂かれたガーネットの断末魔が森中に響く。
どれだけ暴れてもルガルたちは爪や牙でガーネットを痛めつけ、無慈悲なまでに襲っていた。
__が、ガーネットッ!
地面に倒れてた俺は立ち上がろうとして、足がもつれてまた地面に倒れ伏す。受け身も取れずに倒れ、口の中に砂利の感触がした。
__ちくしょう……動けよ、俺! 今動かないと、ガーネットが……ッ!
俺の意思と反するように震えている足を叩きながら、ガーネットの方に目を向ける。
ガーネットは尻尾を振り回すことでどうにかルガルたちを振り払い、起き上がろうとして力なく倒れていた。
「グ……ル……」
倒れているガーネットの目は、意識が遠のきそうになっているのか虚ろになっている。
地面に広がる血溜まり、痛々しいほどに刻まれた傷跡、ダラリと流れる血、砕け落ちた甲殻や鱗。
__あ、あぁ……ッ。
動けなくなったガーネットを見て、ボスのルガルが一歩ずつゆっくりとガーネットに近づいていく。
一本一本がナイフのように鋭利で太い爪を鳴らし、長い舌で口元を舐めながら、ボスのルガルはガーネットの目の前に立った。
__やめ、ろ……。
声にならない俺の声が届くはずもなく、ボスのルガルはガーネットの首元を掴むと抵抗する力も残されていないガーネットは首を絞められながら顔を持ち上げられる。
そして、ルガルはもう片方の爪を振り上げ、ガーネットにトドメを刺そうとしていた。
__やめてくれ……ッ!
このまま爪を振り下ろされ、ガーネットは殺されてしまう。
その光景が頭に過り、必死に手だけをガーネットに向かって伸ばした。
届かない。どれだけ手を伸ばしても、届くはずがない。
今、俺が飛び出していかないと、ガーネットは無慈悲に殺される。
__イズモ兄さん……。
この異世界にいない__
なんの力もない子供のように、情けなく、自分じゃない誰かに助けを求めた。
だけど、誰かが助けてくれるような都合のいい展開なんてあるはずがない。俺は情けなく地面に倒れたまま、ガーネットが殺されるのをただ見てることしか出来ない。
__俺は、どうしたら……。
戦うのが怖い。どうせ戦っても弱い自分じゃ誰も助けられない。
人の真似事ばかりしていた俺に、何が出来る?
弱く、臆病な、弱虫の俺に……何が?
『__タケル!』
ふと、イズモ兄さんの声が聞こえた気がした。
それは、ノイズだらけの過去の記憶の断片。
夕暮れ色に染まった空。幼い俺はイズモ兄さんと手を繋いで歩いていた。
なんの話をしていたのかは覚えていない。だけど、イズモ兄さんはニッと笑いながら、俺に何かを言っていたはずだ。
『俺はな、つい誰か困っていたら飛び出しちゃうけど……本当は、凄く怖いんだぞ?』
そうだ、イズモ兄さんは言っていた。
誰もが憧れるヒーローでも、怖いものがあるんだと幼い俺は意外過ぎて驚いていた。
たしか、俺は聞いたはず。
『怖い気持ちをどうやって抑えてるの?』
思い出せ。イズモ兄さんはあの時、俺の問いに__こう答えていた。
『怖い気持ち、恐怖心はな__』
そうだ……恐怖心は__ッ!
震えていた足が、ピタリと止まった。
『__抱えたまま、飛び出すんだ!』
__抱えたまま、飛び出せ……ッ!
俺は声にならない雄叫びを上げながら、地面を蹴って飛び出す。
無意識に魔力を纏い、紫色の光の尾を引きながら疾走した俺は、勢いのままガーネットに向かって爪を振り下ろしたボスのルガルに向かって__剣を薙ぎ払うッ!
__テアァァァァァァァァッ!
爪と剣がぶつかり合い、手に重い感触が伝わってくる。
それでも、俺は力任せに剣を振り抜き、ボスのルガルの爪を弾き返した。
「ガルァッ!?」
不意を突かれたボスのルガルは目を見開きながら俺から距離を取る。
俺はガーネットを守るように立って剣を構え、真っ直ぐに睨みつけた。
__これ以上は、やらせない……ッ!
心の中には恐怖心が燻っている。足もまだカタカタと震えている。
それでも、立ち向かえ。恐怖心を殺すんじゃなく全部抱えたまま、戦え__ッ!
「……グル、ル……?」
後ろからガーネットの弱々しい声が聞こえた。パチクリと目を丸くして俺を見つめているガーネットに振り向き、引きつりながらどうにか笑みを浮かべる。
__ガーネットは休んでてくれ。ここは、俺がやるから。
俺の声が届いたのか、ガーネットは静かに頷くと目を閉じて体を休め始めた。
ゆっくりと深呼吸して、剣を構え直す。
ボスのルガルは俺を警戒しているのか喉を鳴らして一定の距離を保ち、他の五頭は少しずつ近づいてきている。
__怖い、な。
ポツリと声にならない呟きが漏れ出した。
どうにか立ち向かおうとしているけど、やっぱり怖いものは怖い。本当だったら今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
でも、俺はこうして立っている。戦おうとしている。
イズモ兄さんならそうしていたから? この異世界を救う勇者として召喚されたから?
__違う。
これは、この想いは……ガーネットを助けたいと動き出した俺の感情は、誰の物真似でも誰かに頼まれたからでもない。
俺が、俺自身が
ふと、ボスのルガルの姿にフェイルの姿が重なった。
俺の心に住み着く、恐怖の具現だ。
今の俺にフェイルと戦えるほどの実力があるのかは分からない。いざ目の前に本人が現れた時、立ち向かえるかも分からない。
__それでも、思い出したんだ。イズモ兄さんは怖くても誰かを助けるために、恐怖心を抱えたまま飛び出していた。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
まるで俺の奥底……魂が、歓喜しているかのように。
__もう、目を逸らさない。自分の弱さも、情けなさも、恐怖心も……全部抱えて、前に進む!
心臓が激しく鼓動する。俺の感情に呼応するように、魔臓器から魔力が身体中を駆け巡る。
体から吹き出した紫色の魔力が……その色を、変えていった。
__俺は! もう逃げない! 怖くても、絶対に!
紫色の音属性の魔力に純白の魔力が混ざり合う。
そして、まるで祝福するかのような大きな鐘の音と共に、純白の魔力が森全体に広がっていった。
「ガ_____ッ!?」
純白の音の波紋は驚いて声を上げたルガルたちを飲み込んでいき、黒い魔力と共にその姿をかき消した。
気付けばルガルたちは全員消えてなくなり、俺とガーネットだけが残される。想像もしてなかった展開に、俺は唖然としていた。
__い、今のはなんだ?
俺がやったことなのに、他人事のように呟く。
感情のまま叫んだ瞬間、俺の音属性の魔力が突然変化した。
困惑していると後ろで倒れていたガーネットが緩慢な動きで起き上がる。
「グルォォォォォンッ!」
ガーネットは月に向かって咆哮した。よく見てみるとルガルたちによって刻まれていた体の傷が塞がり、心なしか元気になっている。
__どうして……?
ガーネットが元気になったのも俺の……純白の魔力が混ざり合った音属性によるものか?
理解が追いつかなくなり混乱していた俺は、ガクッと足の力が抜けて膝を着いた。
__や、やばい……意識、が……。
緊張の糸が切れたのか、体に力が入らない。
意識も遠くなり、目蓋が落ちていく。
そして、抵抗虚しくそのまま意識が途切れるのだった。
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