第26話 不甲斐ない僕に普通の日々が戻ってきた

 大学に復学し、新しいゼミに入って2週間が経った。

 心配してたのが馬鹿みたいで、最初からそのゼミにいたかのようにあっと言う間に馴染んでしまった。


 微生物の研究を行っている町田ゼミは自由で風通しのいい雰囲気だ。

 僕らは微生物が作り出す天然有機化合物の構造を分析し、有益な類縁化合物を合成する研究をしている。

 簡単に言うと、僕らの生活に役に立つもの、薬などの材料になるようなものをそこらへんで見つけ、別のルートで似たものを作り出すのだ。


 いつもキャンプ場でバタバタ走りまわっているので、じっとしてもくもくと座って作業するのが新鮮だ。

 ちなみに週末はなるべくバイトに入っている。わけあってお金がいるのだ。


「マナ君、あまり頑張り過ぎないように。ノリさんにもホリ君にも思いっきり釘を刺されてるんだからね」


 町田教授は僕を夜に見るたびにそう言って心配する。

 彼は好々爺こうこうや然とした白髪の初老の男性だが、長年の数々の研究結果が高く評価されているすごい人でもある。

 スーパーで主婦に混じって買い物をしてても不思議ではない見た目からは、全くもってすごさが想像できない。

 大体、教授にしては服装がラフだ。例えば今日はベージュのチノパンと白のシャツにベストだが、日替わりで白シャツがピンクになったりチェックになったりする。着るものを朝選ぶのも楽だろう。シンプルで機能的だ。


 そういった気安さはノリさんと似ている。

 ノリさんのことを知ってからというもの、近年注目されているイスラム社会やインド社会についての考察を彼が新聞に寄稿しているのを見かけるようになった。結構有名人のようだ。


「いえ、なんだか楽しくて」


「そうですか。でも、キリがないから適当に帰りなさいよ」とふんわり助言する。


 もともとが真面目で熱心な生徒が多いN大の薬学なのだ。こういうことを言うと余計に生徒が頑張るとわかってなくて言っているところが、また僕の中の教授の好感度を上げてくる。


「はい、ありがとうございます」


 窓の外を見るともう暗かった。




「ふう、帰ろっと」


 僕が今日とったデータをまとめ終わりPC電源を落として帰り支度を始めると、隣の男性も立ち上がった。


「一緒に帰るよ」


 同じ町田ゼミの日紫喜ひしきだ。入りたての僕の面倒を教授から頼まれて見てくれている。いかにも研究者っぽいひょろっとした皮肉屋の男性だ。でも本当は優しいのを僕はもう知っていた。暗いから危ないと思って待っていてくれたのだ。

 同じ方向の電車を使っているので、いつも気を使って用事がない時は待っていてくれる。

 本当は危なくないのだが、せっかく言ってくれてるのでありがたく気持ちだけ甘える。最近は本当に物騒なので、何かあったら僕が守るつもりだった。


「ありがとうございます、では行きましょうか」


 夜の大学はなんだか雰囲気があって、廊下の角からゾンビが出てきてもおかしくない。

 だってこの大学は歴史があるというとあれだが、旧制高校の中でも格式あるナンバースクールの一つであり、つまりは古いのだ。


「怖くない?」


「はあ、ゾンビがいたら是非つかまえていろんな部分の組織を調べたいですね。なんで動くんだろって、ゾンビ映画を見るたびにいつも不思議で」と僕が言ったら、日紫喜は大笑いした。


「マナは頼もしいね、安心した」


「なんでですか?」


「だって、連休にホリジュンの福井のフィールドワークに付いて行くって聞いたよ。結構女子には過酷だから大丈夫かなって心配してたんだ」


「ああ、あれ…僕免許がないって言ったら、逆に断られました…楽しみにしてたのに…酷いですよ」


「そうなの?…怖っ、じゃあゼミの誰かにお鉢が回ってきそうだな…」


 そういって彼はささっと携帯でゼミ仲間にその情報を流した。ピロピロ返ってくるので、さっそく反応があったようだ。


 そう、僕はホリジュンから免許を取るように言われ、今お金を貯めているところだ。もう春休みで大分貯まっているが、今度の連休もバイトするつもりだ。


(本当はリアムに会いに行きたい…でもダメだ!)


 甘えた考えの自分をたしなめる。

 彼は忙しいだろうし、これくらいの距離があるからお互いいいのだろう。近いと毎日でも会ってしまうだろう。

 それにまだ胸も大きくなっていないのだ。



 僕なりに調べたのだが、まずバストアップに必要なことは充分な睡眠とフィットする下着をつけることだ。


 バストの大きさは卵巣から分泌される女性ホルモンが乳腺に刺激を与える影響が大きい。その女性ホルモンの分泌を少しでも活発化させるためには、夜11時までになるべく就寝し、体のホルモンバランスや新陳代謝などを整えることだ。


 下着は、寝ている時に横や下にバストが垂れることがないようにするために着用する。サイズはきつくても緩くてもダメだ。


 あとは何かを毎日飲んだり、食べたりするとバストアップにいいというもの、例えば牛乳や豆乳、は都市伝説に近い、科学的根拠のない話だ。


 実際は、ホルモンバランスを整えるためのサプリメントやジェルが効果がある。通常の食品や飲料等から摂取することはほぼ不可能に近い、ホルモンに近い成分などが入っている為だ。


 バストアップのジェルも、お風呂上りや就寝前にバスト全体に塗ってマッサージしてから寝ると効果がある。女性ホルモンに含まれる多くの成分を体外から皮膚吸収することで、乳腺に直接刺激を与える。


 僕はサプリ以外すべて実践していた。

 これもリアムに目にもの見せてやるためだった。

 でもマッサージは自分の身体を大事にしている気持ちになれるが、忙しいとバカらしくなる時もある。これで大きくなる気が全くしない、せいぜい乳ガンの早期発見に役に立つくらいだろう。


(そうだ、毎週末に効果を測ってグラフにしてみよう。やる気もバストアップにつながるはずだ…)



 そんなことを考えてたら携帯が鳴った。リアムの元気そうな声が聞こえて安心する。


「今晩は、まだ寝てないの?そっち深夜でしょ?」


「勉強終わったからマナの声を聞いて寝ようと思って。帰り?」


「うん、駅に向かってる」


「誰と?」


「あー、一人だよ」と隣の日紫喜を見ながら言った。彼はいつもの事なのでわかってる。リアムは疑わしそうな声で、


「ふーん。気を付けてね、っていうか相手が心配」とからかった。僕が気を使って一人でいるって言ってるのわかっている気がする。カンがいいのだ。


「警察に捕まらない程度にしとくから大丈夫」


「ふふ、相変わらずだね。おやすみ、大好きだよ」


「ん、おやすみ。僕も好きだ」と言って切った。


「わー、相変わらず熱いね、灼熱地獄だな」


 日紫喜がからかう。 

 

(仕方ないじゃないか、リアムがそういう人なんだから。でもそういう彼だって…)


「ホリジュンセンセの事、好きじゃないんですか?僕が行けないんだから、連休の福井に立候補したらいいのに」


 ホリジュンが研究室に遊びに来ると嬉しそうに尻尾を振って寄って行くのを僕は見ている。

 恋愛音痴を返上する為、誠意他人の恋愛研究中の身なのだ。彼はわかりやすくてサンプルにとてもいい。


「え?ああ、まあね…あの長い黒髪とか、厚い唇とか…めっちゃいいんだよね…」


「髪…唇…ですか」


 ホリジュンは綺麗な髪をものぐさに一つでまとめている。それがまたセクシーでカッコイイ。


 僕は自分の髪を触る。2か月放ったらかしで長くなってしまった。

 そろそろ切りに行きたいのだが、もう短くする必要もない。


(どうしよっかな…)


「ね、僕に似合いそうな髪形ってどんなだと思う?」


 日紫喜はそういうの得意そうかと思って聞くと、速攻で断られた。


「彼氏に聞くか、自分で探せば?」


「僕そういうのわかんないんだ。恋人に聞くのも嫌だし、適当でいいから、お願い」


 僕が両手を合わせると、彼は仕方なさそうに頷いた。




 そして夜に送られて来た髪形はすべてセミロングかロングだった。


(本当に適当かよ!)


 僕は思わずがっくりして床に膝をついた。理系男子を見誤っていた。

 かわいい髪型の写真はありがたいが、今短いんだからこんなの出来るわけない。


(そうだ、アユに頼もう)


 僕は彼女にお願いのメッセージを送った。

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