最終章 第4話 Make your choice その6

 龍二の言葉が、深月の身体に広がる。

 奥底へと染み込み、彼女の鼓動を強くしていく。

 その確かな感覚に、深月は笑みを浮かべた。

「……結局、私のことは名前で呼んでくれないのね」

 少しだけ残念そうな色を滲ませながら、柔らかな声で深月はそう言った。

「それは、えっと……なんて言うか、ごめん。どうしても最初の呼び方が抜けないっていうか……こう、恥ずかしくて」

 恋人という偽装のために必要だと言われていた。

 時折、思い出したように深月はそれを求める事もあったが、一度馴染んでしまった呼び方は、そう簡単には変えられなかった。

「僕らくらいの男子にとってはさ、女子を名前で呼ぶのって、結構特別だから」

「そういうもの?」

「たぶん、平均的な男子の意見としては」

「でも、例外はあったようだけど?」

 深月はそう言って、聞き耳を立てているうてなへ視線を向けた。

「うてなはなんて言うか、ほら……ああいう感じだから」

 どういう意味だと、うてなが眉を吊り上げる気配を感じつつ、龍二は苦笑する。

「普通の同級生と違うというのなら、私も同じでしょう?」

「そうなんだけど、久良屋さんはその、うん……」

「……なに?」

 これが最後なら、正直に打ち明けようと龍二は頬を掻く。

「学校で会った時から、久良屋さんは凄く、女の子な感じがしたから……」

 何者で、なんのために現れたのかを知った後でも、最初の印象が強すぎて、どうしても恥ずかしさが消えてくれなかったのだと、龍二は耳を赤くする。

 くのりの時もそうだったと、龍二は思い出す。

 長い間、逢沢さんと呼んでいた。

 けれどそのうち、くのりの方から名前で呼ぶように強制してきた。

 苗字から名前へ、という壁を乗り越えるのは、簡単な事ではなかった。

 どうにか名前で呼べるようになったのは、彼女にもっと近づきたいという下心があったからだ。

 逢沢くのりと久良屋深月。

 二人の少女に抱いた印象は似ているが、やはり決定的な違いがあった。

 下心を抜きにして名前で呼ぶのは、ある意味告白をするよりも、龍二にとっては大変な事だったのだ。

「……うてなは、違ったのね」

「……それに、最初からそう呼んでたから」

「つまり、私も最初から名前で呼ぶように強制するべきだったのね」

「えっと、それはうん、どうかな」

 もしそうされていたら、想像もしたくないほどの心労に襲われていただろうと、龍二は嫌な汗を掻く。

 その困り果てている表情を見て、深月は肩の力を抜くように小さく息を吐いた。

「結局、恥ずかしいかどうか、だったのね」

「……簡単に言うと、そうなる」

「……なら、いい」

 照れつつも申し訳なさそうに頭を掻く龍二に、深月は頷いて見せる。

「それに私も、あなたに久良屋さんと呼ばれるのが、もう馴染んでしまっていたし」

 そしてそれは、非常に居心地良い響きであり、安堵を覚えるものだったと、深月は微笑を浮かべた。

 自分も名前で呼ばれるようになりたいと思う感情が、消えたわけではない。

 けれど、安藤龍二にとって自分は、神無城うてなともまた違う、特別だったのだと知る事ができた。

 二人が護衛と護衛対象という立場を越えて遊びに興じる姿を、いつも見ていた。

 時には隣で、時には後ろで。

 その輪に加わろうと思えば、きっと出来たのだろう。

 加わりたいという気持ちも、今にして思えばあったのだと思う。

 にも関わらずそうしなかったのは、怖かったからだ。

 いずれはこうして、失うとわかっていたから。

 どこかでそれを、恐れていたのだ。

 手に入れて、失う事の怖さを。

 博士によって封じられた記憶が、そうさせたのかもしれない。

 全ては今更だ。

 安藤龍二との時間は、これで終わる。

 あの時間には、決して戻れない。

 だが、久良屋深月という少女が消えるわけではない。

 今この瞬間、生きているのだと実感している。

 そしてこれからの時間に、彼は自由を与えてくれた。

 選択するというチャンスを、深月に託してくれたのだ。

「……ありがとう」

「お礼を言うのは、僕のほうだよ」

 龍二は笑みを浮かべながら、手を差し出してくる。

 握手を求める彼に応えようとして、深月はその手を伸ばした。

「――――っ」

 彼が差し出した手ではなく、その背中に腕を回し、抱き締める。

「えっ、ちょっ……く、久良屋さんっ?」

「彼女とは、こうしていたでしょう?」

「そ、そうだけどっ」

「イヤなら、突き飛ばして。照れくさいのなら、我慢して」

「……ぁ、うっ」

 そんなの、我慢するしかないじゃないかと、龍二は真っ赤な顔で唸る。

 行き場を失った手をどうにもできず、緊張に身体を強張らせていた。

 その反応を楽しむように、深月は目を閉じた。

 早鐘を打つ鼓動が、直接伝わってくる。

 微かな発汗と、体温の上昇も感じる。

 安藤龍二という少年が、腕の中にいる。

「……あなたを、忘れない」

「…………うん」

 囁くような深月の言葉に、龍二は小さく頷く。

 緊張は薄れてくれないが、引き金を引くよりは気楽だと、自分に言い聞かせていた。

「あなたと過ごした時間も……あなたを、救えなかったことも」

「久良屋さん、それは……」

「決して、忘れないわ。この後悔を抱えて、私は生きてみようと思う」

「…………そっか」

 引きずって欲しくはないと願う気持ちはあるが、それが彼女の歩む糧になるならいいと、龍二は頷いた。

「本当に、ごめんなさい……それと、ありがとう」

「僕のほうこそ……」

「考えて、みるわ……今はまだ、なにもわからないけど」

「久良屋さんなら、大丈夫だよ。僕は、信じてる」

「……頑張って、みるわ」

 信じるという言葉の重さを噛み締めながら、深月はそれでも頷いて見せた。

 そう応えるのが、自分が自分であるための最初の一歩だと信じて。

 背中を押してくれた、安藤龍二という少年のためにも。

 そして、どちらからともなく、二人は身体を離した。

 改めて向かい合い、互いに微笑む。

 その様子を見ていたうてなが、深月の横に並んだ。

 龍二の発言に少なからず不満はあったようだが、これ見よがしに鼻を鳴らした後、同じように微笑を浮かべる。

「……今まで、ありがとう。二人のおかげで、僕は決心できた」

 二人はその言葉に、一度目を合わせる。

 本心で言えば、止めたいという気持ちは互いにある。

 だが、龍二の決意を否定はできないと、頷き合った。

 そんな二人の気持ちを、龍二は嬉しく思う。

 三人の空気を察したように、博士が動く。

 同時に、複数の人影が近づいてくるのが見えた。

 いよいよその時が来たのだと、全員が理解する。

「それと、最後に……」

 足音を立てて近づいてくる気配を背に、龍二は二人を見る。

「姉さんと……父さんと母さんにも、ありがとうって伝えて欲しい」

 できる事なら直接伝えたいが、それはきっと叶わないだろう。

 一度身柄を預ければ、外界からは完全に隔離される。

 面会が許される立場だなどと、希望は持てない。

 だから龍二は、二人に託す。

「血は繋がってないし、僕はただの居候だったけど……僕にとって家族と呼べるのは、あの三人だけだから……頼めるかな?」

 微かに揺れる双眸を受け止め、二人は力強く頷いて見せた。

 込み上げてくる感情に、身体が痺れる。

 だが、決してそれを表には出さないと、拳を握り締めた。

 それは龍二も同じだ。

「……ありがとう。それじゃあ、うん」

 これで最後だ、と笑顔を見せて頷く。

「……どうか、元気で」

 明確な別れの言葉は口にせず、龍二は背中を向けた。

 やって来た職員に連れられ、すぐに姿は見えなくなる。

 その場に残っているのは、深月とうてな、そして博士の三人。

「君たちがどうするのかは、後日改めて聞かせてくれ」

 そう言い残し、博士も立ち去る。

 すぐにでもデータの収集を始めるのだと、その浮足立つ背中が語っていた。

 二人はジッとその背中を、黙したまま見送った。

 静まり返った、広大な実験室。

 そこに取り残された二人は、嫌というほどに痛感する。

 ある一つの物語が、これで終わったのだと。

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