最終章 第3話 Eidolon その6

 その音は、龍二の胸ではなく、頬で鳴った。

 龍二が引き金を引いた瞬間に鳴ったのは、カチリという軽い音。

 直後、龍二の頬をうてなの手が叩いた。

 本来ならその手は、龍二の腕を跳ね上げるために振るわれたものだった。

 だが間に合わず、しかし銃口からはなにも発射される事はなかった。

 そうと気づいたうてなは、そのまま振り上げた手で、龍二の頬を叩いたのだ。

 深月を支えたままでなければ、その一撃で奥歯の一本くらいは折れていただろう。

 響くような熱い痛みに、龍二は遅れて理解した。

 自分がうてなに、ビンタされたのだと。

 無意識に手を頬に当て、うてなを見る。

 そして、思わず一歩下がった。 

 怒髪天を衝くと言わんばかりの形相に、本能的な危機を覚えたのだ。

「う、うてな――」

「なに考えてんだ!」

「いや、僕は――」

「本気で引き金を引くとか、バカを通り越して……バカなんじゃないの⁉」

 怒りに唇を戦慄かせるうてなは、単純な言葉しか出て来ず、更に苛立ちを募らせる。

「……うてな、落ち着いて。気持ちはわかるけど、彼の話を……」

「でもさ、こいつっ」

「いいから……まずは、聞きましょう」

 まだ弱々しい深月の声に、うてなは唸りつつも従う。

 彼女を支えている事を思い出し、いくらかの冷静さを取り戻した。

 が、依然として龍二に向ける視線は怒気を孕んでいる。

「……ちゃんと、説明して」

 うてなを宥めた深月だが、そう言って龍二を見る目は、批難の色を宿していた。

 手足を拘束されていなければ、深月もうてなと同じ事をしたとその目が語っている。

 龍二がやって見せた行動は、それだけ二人にとって許しがたいものだった。

 当然、龍二もそれはわかっている。だからこそ申し訳なさそうにしつつも、どこか嬉しそうな気配を隠し切れない。

「二人が怒るのも当然だと思う。でも、勝算はあったんだ」

 握ったままの銃に視線を落とし、龍二は呟くように話す。

「あの人にこれを渡された時、すぐに思った。この銃に、弾丸は装填されてないって」

 弾倉を取り出した龍二は、その言葉を証明するように二人に見せる。

 確かに、弾丸らしきものは一つも装填されていない。

 安堵するように小さく息を吐いた龍二は、ゆっくりと博士に視線を向ける。

「いくらあの人でも、殺傷能力のある弾丸が装填された銃を渡すとは思えない。自分に向けられる可能性がある以上、そんなリスクを冒すはずがない……違いますか?」

「否定はしないよ。まぁ、仮に私が構わないと言っても、部下が許してはくれないだろうがね」

 勿体ぶる事もはぐらかす事もなく、博士は肩を竦める。悪戯がバレた子供のような表情は、彼女のイメージからかけ離れていて、アンバランスに見えた。

「ならば君は、それを見越して取り引きを持ちかけたというわけか」

「いくらなんでも、僕だって怖いですから。確信が持てなきゃ、やれないですよ」

 思い返しても、まだ手が震えて来る。

 引き金を引く瞬間は、総毛立つような思いだった。

 それでもああしたのは、示さなければいけないと思ったからだ。

「あんた、やっぱりふざけてるでしょ? 勝算だとか確信だとか言ってるけど、それだって絶対じゃない。それがどういう意味か、わかってるでしょ?」

 否定のしようがないうてなの正論に、龍二は困ったように頷く。

「そうだね。絶対じゃ、なかった」

「だったらやめるのが普通でしょうが! なに分の悪い賭けに全力でぶち込んでんの⁉ もし装填されてたらどうするつもりだったわけ? あんた、死んでたかもしれないのよ⁉」

 本当にわかっているのかと詰め寄るうてなに、龍二は一瞬言葉を詰まらせる。

 が、顔は背けず、真剣な顔で告げた。

「それならそれで、いいと思ってた……」

 耳を疑うような龍二の言葉に、二人は絶句する。

 怒りすら霧散してしまうほど、あり得ない言葉だった。

「僕に残された時間は、長くても半年くらい。それもどうせ、モルモットとして閉じ込められて、よくわからない検査をされるだけだと思う。正直、そんなことで消費されるくらいなら、君たち二人のために使いたかったんだ」

 安藤龍二が守りたいと思うものは少ない。

 最も大切でかけがえのないものは、失ってしまった。

 なら残された最後の時間、最後の意思を誰のために費やすかを考えた。

 その末に辿り着いた答えだ。

「君たちが守ってくれたこの命で、君たちを解放できるなら……そうしたいって、思ったんだよ」

「――――っ!」

 乾いた音が、また響く。

 龍二の頬を叩いたうてなの瞳は、揺れていた。

 言葉を噛み砕くように歯を食いしばり、うてなは荒い息を漏らす。

「ふざっ、けんなっ……勝手にあんたの命をっ、押し付けようとするなっ」

 ようやく出てきた言葉は、腹の底から吐き出すような苦しさを伴っていた。

 激しく揺れるうてなの双眸に、龍二はまた困ったような笑みを浮かべる。

「なに? そんなバカみたいな自己犠牲が格好いいとでも思ってんの? あんた、言ってたもんね……そんなんで、ヒーローになれるとでも思ったわけ?」

「まさか。僕には無理だよ。なりたくても、なれない……僕じゃ、君たちを救えない」

「だったら、なんであんなことしたのよ……」

 痛みの混じるうてなの声に、龍二は静かに答える。

「最後まで、主人公でいたいんだ」

 銃を放り捨て、拳を握り締める。

「モルモットだとか人造人間だとか、そういうのはどうでもいい。僕は僕の……自分の人生を自分で決められる、主人公でいたい。そう思わせてくれたのは、君たちだよ」

 万感の想いを込めた言葉を、龍二は晴れやかな顔で告げた。

 あまりにも迷いのない言葉に、うてなは感情を見失う。

 言ってやりたい事が多すぎて、どれから口に出せばいいかもわからない。

 そしてそれは、深月も同じだった。

 すでにどちらが身体を支えているのかは曖昧だ。

 互いに支え合うようにして、どうにかその場に立ち続けている。

 ただ、深月の場合はうてなとは少し違う。

 龍二の言葉が、奥深く突き刺さっている。

 それをまだ消化しきれず、読み取れずにいた。

 わかっているのは、彼が答えを持っていたという事だけ。

 深月が見つけられなかった答えの幻影が、そこにはあった。

 龍二の言葉が頭の中で反響するたび、心臓の鼓動が聞こえてくるようだった。

「やはり面白いな」

 そこに浴びせられたのは、冷や水のような博士の声だ。

 三人の視線が、同時にそちらを向く。

 彼女のねっとりとした視線が、龍二からうてな、そして深月へと流れる。

「これほどの結果を得られるとは思っていなかった。周囲に影響を与えるような人格は、与えていなかったのだがな。果たして、同じ素材を使って同様の結果を得られるものかどうか……今後が楽しみだ」

 独り言のように呟き、博士はテーブルに腰かける。

「君とはもう少し、話してみたくなった」

 向けられた本人でなくとも、悪寒を覚えるような暗い熱を宿した視線に、龍二は喉を鳴らす。

 不吉の象徴とも思える博士の唇が、悪意に歪む。

「君自身……人造人間というものについて、軽く説明はしたが、理解はできているか?」

「……それとなくは」

「ならば話は早い。私から君に、プレゼントを用意しよう」

「……プレゼント?」

「そうだ。だが、条件はある。先ほど君が口にした取り引きの条件を変更させて貰う。こちらからは、別のものを提供しよう」

 正体の掴めない不安に、龍二は息苦しさを覚える。

 二人の自由ではなく、なにを与えるというつもりなのか。

 理性がどこかで、考える事を強く否定しているような気がした。

 当然博士は、構わず続ける。

「もう一度、会いたくはないか?」

 まるで悪意をまき散らすような声だった。

「…………なんの、ことだ」

「わかっているだろう?」

 腕を組んだ博士は、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、言った。




「逢沢くのり。彼女ともう一度会えると言ったら、君はどうする?」

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