最終章 第3話 Eidolon その1

「考え直すなら、これが最後のチャンスってやつだけど」

 それが義務だとでも言いたげに、うてなは隣に立つ龍二を流し見る。

 龍二は軽く肩を竦め、うてなの視線を受け止めるように笑みを浮かべた。

「うてなこそ。送ってくれるなら、ここまでで十分だよ」

 考え直すならお互い様だと冗談めかす龍二に、うてなは楽しげに鼻を鳴らした。

 お互い、わざわざ確認する必要などない。

 答えなどわかりきっていた。

 二人が立っているのは、本部施設の正面入り口だ。

 一度は逃げ出したその場所に、二人は自分の意思で戻って来た。

 逃げ続ける理由は、もうない。

 頷き合った二人は、並んで歩き出す。

 怯えも躊躇も一切なく、逃亡者にあるまじき堂々とした足取りだ。

 二人はすでに、本部施設の敷地内に足を踏み入れている。

 正面の監視ゲートは、軽々と飛び越えてきた。

 二人の侵入に気づいた様子はなかったが、そうではなかったのだとすぐにわかった。

 奇しくも今は新年を迎えたばかり。

 組織の本部施設とは言え、通常時に比べればはるかに人気はない。

 だが、彼女はまるで予期していたかのように姿を現した。

 いや、事実として把握していたのだろう。

 安藤龍二と神無城うてなが、ここにやって来る事を。

 龍二たちも特別隠そうとは思っていなかった。

 面倒だからと監視ゲートは回避したが、身を隠して潜入するつもりなどない。

 それでも、彼女が直接出迎えに現れるのは、予想外だった。

「おかえり、とでも言うべきかな」

 気心の知れた友人に話しかけるような博士の声に、二人は黙して答える。

 わざわざ博士が自ら出迎えに現れたのは、力を誇示するためと見る事もできる。

 二人の行動は問題なく把握できていたと証明するのに、これ以上わかりやすい演出もないだろう。

 実際、龍二は博士の姿を見て僅かに息を呑んだ。

 見透かされているという感覚が、否応なく背中を冷やしていく。

 後ずさったりせずに済んだのは、隣にいるうてなの存在が大きい。

「護衛もなしに出てくるなんて、正気?」

「正月早々、不要な仕事に駆り出すのは悪いと思ってな。私を殺しにきたわけではないのだろう?」

「殴っていいなら殴りたいとこだけどね」

 牽制とも取れるうてなの言葉にも、博士は一向に怯まない。

 二人が現れた目的すらわかっているとでも言いたげだ。

 博士に対する苦手意識を抑え込みながら、うてなは視線を巡らせる。

 本当に護衛の影も気配も見当たらない事に、目を細めた。

 最低でも、一人くらいは護衛のエージェントを連れていると思っていたが、それすらもない。

「……久良屋は、いないの?」

「パートナーが気になるか?」

「ま、少しはね」

「裏切られても気に掛ける、か。なかなかいい関係が築けていたようだな」

「おかげさまで」

 だからこそ、性格の悪い博士なら、この場に深月を連れてくる可能性が高いと、うてなは思っていたのだ。

 ある種の期待でもあったが、それは外れた。

 その事に、うてなの胸中は複雑だった。

 深月に会いたい気持ちと、会ってどうするのかという気持ちが鬩ぎ合う。

 脱走したあの日、彼女がどうしていたのかを知るのは、やはり怖い。

 龍二にその話はしていないが、会えばそういう話の流れになる可能性もある。

 彼の覚悟がどれほどのものであれ、傷は少なくあればいいと、どうしても思ってしまう。

「久良屋深月は無事だ」

 うてなの心中を見透かしたような博士の言葉に、龍二が安堵のため息を吐く。

 その様子をうてなは横目に見て、口の中で舌打ちをした。

 やはり、博士を好きにはなれそうもないと改めて思う。

「彼女には、あとで会わせよう。だから安心するといい」

 そう言って博士は、唇を歪めた。

 含みのある、嫌な笑い方だ。明確に悪意が潜んでいるのがわかる。

 それが誰に対するものなのかはわからないが、腹の底が痛む感覚に、うてなはもう一度舌打ちをした。

「さて、挨拶はこれくらいでいいだろう」

 博士はそんなうてなをチラリと一瞥してから、龍二に視線を向ける。

「ここに来たということは、決心がついたのだろう、安藤龍二」

「……あぁ、もう逃げるつもりはない」

 心の奥底を覗き込むような博士の視線に、龍二は唾を飲み込んだ。

 だが、怯む事なくそう答えてみせた。

 逃げないという言葉が張りぼてではないと、証明してみせるように。

「いい顔をするようになったな。では聞こう。なにが目的で戻ってきた?」

 片手を腰に当て、少し高い位置から博士は龍二を見下ろす。

 漆黒の熱を奥底に宿した博士の双眸が、爛と輝く。

 龍二は拳を握り締め、全身に広がる軽い痺れを抑え込む。

 極度に緊張しているのが、隣にいるうてなにも伝わっていた。

「教えて欲しい。あなたが知る、僕にまつわる全てを」

 声を震わせずに、龍二はそう言い切った。

 博士の目をしっかりと見返したまま、一度も逸らす事なく。

「簡単に言うが、それは国家機密に匹敵するものだ。教えて欲しいと言われて、はいそうですかと話せる内容ではないよ」

 そう答える博士の声は、楽しげに弾んでいた。

 龍二が知りたい事などそれくらいしかないだろうとわかりきっていたが、そのはっきりとした物言いに高揚すら覚えている。

「どんな秘密でも、それは僕のことだろ? だったら知る権利があるはずだ」

「権利、ね。君には人権すらないのだが、それは理解しているか?」

「……知らない。だから、知りたいんだ」

 当たり前のように人権すら否定された龍二は、手のひらに爪が食い込むほど強く握り締める。

 なけなしの勇気を振り絞って、自分自身を奮い立たせていた。

「君の気持ちはわかった。が、だからと言って私が従う理由は、どこにもないな」

「その時は、こっちもやり方を変えるだけ」

 博士の言葉に答えたのは、うてなだった。

 龍二の要求に応じないのなら、実力行使に出るまでだと、不敵な笑みが物語る。

 面白いと鼻を鳴らした博士は腕を組み、二人を交互に見やる。

「君たちは実に興味深いコンビだな。もっと観察したくなるよ」

 軽く顎を擦りながら、細めた視線を二人に絡める。

 数メートルの距離があるにも関わらず、龍二は喉を締め付けられるような怖気に襲われていた。

 そのまま博士の視線に晒され続けたら、膝が折れてしまいそうな気にすらなってくる。

 加速していく心臓の鼓動は、どうやっても抑え込む事ができない。

 苦しくなる呼吸を落ち着かせたのは、背中に添えられたうてなの手だった。

 見えない傷が塞がっていくように、痛みにも似た動悸が収まっていく。

 ひとりではないという事実が、龍二に力を与えていた。

 ありがとう、と視線を向けた龍二に、うてなは得意げに笑ってみせる。

 これほどまでに頼りになる笑みは、そうない。

 龍二は改めて博士を見上げた。

「あぁ、実にいいな。そんな君だからこそ、逢沢くのりを壊してくれたのかもしれないな」

 博士に挑発する意図はない。

 その言葉には嘲りも侮蔑も、一切なかった。

 龍二は感情をかき乱されるが、それでも耐える。

 なにを目的としてここに来たのかを、忘れてはならないと自分に言い聞かせていた。

「本当に不思議でならないよ。君と彼女では、雲泥の差だな」

 今度の言葉は違った。

 博士の言う『彼女』が誰の事かはわからないが、明確な感情が込められていた。落胆が、ため息に混じる。

 だがそれも一瞬だ。

 博士は穏やかとすら言える笑みを浮かべ、半身を引く。

「安藤龍二。君の意思に敬意を表し、答えてやろう。少し早いが、まぁいいだろう」

 そう言って博士は、中に入れと顎で示し、背中を向けて歩き出す。

 が、すぐに一度立ち止まり、振り返ってうてなを見る。

「君とは、まだ良い関係でいたいしな」

 敵対する事を望んではいないと、博士は微笑む。

 結果として要望には応えるのだから、やり方を変える必要はないだろうと言外に告げていた。

 うてなはこれ見よがしに鼻を鳴らし、龍二の背中を叩く。

 よくやったという意味合いと、ここからが本番だという気合を入れるためだ。

 龍二はそれに頷き、博士の背中を追う。

 そして、決して戻る事のできない場所へ、自ら足を踏み入れた。

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