最終章 第2話 夢の続きを見る君へ その1
闇よりも濃い漆黒の一撃が、神無城うてなの頬を掠めた。
日付が変わる直前の路地は、不気味なほどに人気がない。
襲撃を受けたのは、別のセーフハウスへ移動するために、それまで使用していた建物から外へ出た瞬間だった。
吐き気を覚える不吉な気配がなければ、最初の一撃で勝負はついていたかもしれない。
うてなが全身に魔力を漲らせた瞬間、死角から滑り込むように影は飛び出してきた。
街灯すら乏しい、寂れたマンションが立ち並ぶ路地には、うてなと龍二、そして襲撃者の影が二つ。
まるで人払いの魔術を使用していると思えるほどに、一帯が死んだように静まり返っていた。
掬い上げるような一撃をかわしたうてなは、すぐに龍二を背後に庇う。
突然の出来事だったが、うてなも龍二もそれほど取り乱す事はなかった。
気持ちの悪い魔術的気配をうてなが感じ取ると同時に、龍二も僅かな空気の淀みを察知していた。
その感覚を、忘れるはずがない。
うてながどう動いたかはわからずとも、何者かに襲撃を受け、守られたのだという事を、龍二はすぐに理解していた。
そしてその襲撃者が、淀みの原因でもあると。
「なんなの、こいつら」
左右に広がる二つの影を交互に見据えながら、うてなは舌打ちする。
いつでも動き出せるように備えつつ、相手の正体に思考を巡らせていた。
ただのエージェントなどではない事は明白だ。
戦闘用の黒いスーツは共通のものだが、黒い仮面までつけるエージェントなど見た事も聞いた事もない。
悪趣味を通り越して、気色が悪い。
それはなにも、格好だけではない。
二人の襲撃者は、どちらも背格好から判断して少女だろう。
彼女たちは、組織が送り込んだ刺客で間違いない。
そんなわかりきった事よりも問題なのは、彼女たちが纏う気配だ。
あり得ないはずの、歪な魔力を二人は纏っている。
うてなの魔力とは違う、この世界に存在する魔力だ。
しかしその魔力は、断じて正常ではない。
うてなはその気配に、覚えがあった。
「なるほど。こいつらと戦ったわけか」
そう納得したうてなは、唇を湿らせる。
まさか、追手として差し向けられるとは思ってもみなかったが、自分を相手にするのなら十分あり得る話だ。
龍二を連れたうてなを捕縛しようと思うのなら、打つ手は二通りになる。
一つは、大規模な部隊を導入して人目をはばからずに物量で攻める方法。
そしてもう一つは、うてなに匹敵する力を持つ精鋭を差し向ける方法だ。
組織――いや、博士は後者を選択したという事だろう。
その場合、必然的に少数精鋭の部隊になる。
この二人の少女が、その精鋭なのだろう。
「ったく、どうやってこんなやつらを――っ」
うてなの悪態を、鋼の爪が切り裂く。
刺客が装備しているガントレットから飛び出した、三本の刃だ。
うてなは上半身を引きながら、相手の腕を弾いて流す。
戦闘用のスーツもガントレットも装備していない今のうてなは、魔力による強化だけで戦わなければならない。
魔力による障壁は、通常の物理的攻撃を通さない。
だが、相手が魔力を宿す存在であるのなら話は別だ。
どんな技術が使用されているかわからない以上、安易に防御するわけにはいかない。
それも一対二となれば、難易度は格段に跳ね上がる。
加えて背後には、戦うすべを持たない安藤龍二が控えている。
これ以上ない劣勢にありながら、うてなは不敵とも言える笑みを浮かべていた。
幸いにも、相手の狙いはうてな一人に絞られている。
最初から龍二を戦力としてカウントしてないのは明白だ。
そしておそらくは、彼を傷つけずに回収する事が目的なのだろう。
「なら、やってやろうじゃない」
それならまだ戦えると、うてなは自身を鼓舞するようにアスファルトを蹴った。
意思の疎通をしている様子もなく、二人の動きにも連携と思えるものはない。
強化された身体能力と時間魔法を併用すれば、御せない相手ではなかった。
「――っ、くっ、こんのぉ!」
それでも攻防を繰り返す間に、うてなはダメージを負っていた。
単純な戦闘能力では、うてなが遥かに勝っている。
だが相手は、生半可な攻撃では怯みもしない。
それどころか、腕が折れるのも構わないとばかりに拘束を解き、反撃してくる。
まるで痛みを感じていないと思えるほど、ダメージを顧みない攻撃だった。
「ゾンビかよ!」
腹部を貫くような蹴りを受けて、うてなが吼える。
相手の足を掴み、電柱へと叩きつけるように投げ飛ばした。
そのままぶつかれば、いくらスーツを着用していてもダメージを負うほどの勢いだ。
だが少女は電柱にはぶつからず、獣のような身のこなしで電柱を足場にし、再び襲い掛かって来た。
クソが、と声にならない叫びを上げて、うてなは敵を迎え撃つ。
せめてスタングローブが使えればと、内心舌打ちをしていた。
こういう状況でこそ必要な道具だが、生憎と予備もない。
うてなの弱点が、如実にあらわれていた。
相手を殺さずに無力化する技術の欠落だ。
スタングローブに頼りきっていた弊害とも言える。
以前からわかっていた欠点であり、まさにうてなが苦手とする相手を差し向けてきたという事だろう。
戦闘技術の習得を疎かにしてきたツケだと言われているようで、うてなは苛立ちを覚える。
おまけに相手は、魔力を帯びた一撃を放てる。
「このままじゃジリ貧か」
吹き飛ばされて転がった地面に膝をつきながら、うてなは小さく呟く。
今の攻防で、立ち位置が変わってしまった。
うてなと龍二の間には、二人の刺客が立ちはだかっている。
だが、やはり龍二を拘束する素振りは見せない。
普通のエージェントであれば、どちらかが足止めをして、もう片方が龍二を確保するタイミングだ。
そうしないという事は、うてなの推測が正しかったという事だ。
暗がりで距離も少しあるが、向こう側で龍二がどんな顔をしているのかはわかる。
「ったく、なにやってんだろ、私」
口の中に広がる微かな血の味に、うてなは頬を歪める。
自嘲するような言葉は、なぜか楽しげだった。
こうして苦戦を強いられているのは、気絶させるという決定打を打てないからだけではない。
逃亡生活による疲労もあった。
スーツの補助機能も、今にして思えば随分と役に立っていたのだろう。
あの夏の夜に戦った魔術師に比べれば、相手の実力はたかが知れている。
それでも今の自分には、手強い相手だとすでに理解はできていた。
相手がもっと――それこそあの魔術師に匹敵するほど圧倒的なら、気兼ねなく全力を出して戦える。
だが今の相手に全力を出した場合、殺さずに制圧する事は難しい。
かと言って、両手足をへし折ったとしても、向かってくる事はやめないだろう。
「ホント、いい性格してる」
こんなわけのわからない魔力を宿した、不気味な刺客を送り込んできた人物の顔を思い浮かべ、うてなは鼻を鳴らした。
他人が嫌がる事に関して、あの博士以上に得意な人間はいないだろうと、うてなは本気で思っていた。
左右から同時に接近してくる少女の攻撃を、うてなは紙一重で回避する。
示し合わせたわけではないだろうが、うんざりするほどいいタイミングだった。
これでもかと拳を唸らせながら、加熱する思考の片隅で、うてなは考える。
自分はどうしてここまでしているのだろうか?
不慣れな痛みを覚えながら、血を舐めて、肉を叩き、骨を砕く感触に背筋を震わせる。
他人を傷つけ、肉体を破壊する感触は、何度味わっても気持ちの良いものではない。むしろ不快だ。
そんな思いを、自分ではない誰かのために味わっている。
そこには、見返りすらない。
義務でも、ない。
なのに自分は、戦っている。
思い浮かぶのは、ある少女の姿だ。
こうなる事は、わかっていた。
組織を裏切るのは、愚の骨頂。
組織が持つ力がどれほどのものかは、少しでも関われば実感できる。
個人でどうにかできるような規模ではない。
それでも彼女は――逢沢くのりは、その道を選んだ。
安藤龍二という、一人の平凡な少年のために。
「いや、違うか」
逢沢くのりが選んだのは、自分自身の感情だ。
安藤龍二に対する好意のために、それ以外の全てを捨てた。
それを龍二のためだと言うのは、間違いだろう。
彼女はどこまでも自分の感情を優先し、組織に敵対した。
うてながくのりと話した回数は、そう多くない。
彼女の真意や奥底に秘めた感情を、正しく理解できているとは、さすがに言えない。
それでもやはり、信じられないという気持ちがあった。
自分ではない誰かのために、今まで積み重ねて来た自分を捨てるなんて。
たった一つの譲れないもののために、それ以外の全てを捨てるなんて。
もちろん、エージェントとしての生活がいいとは思わないが。
「これじゃあ、割に合わない」
いくら打撃を加えても、手応えはない。
動きが衰えるどころか、体力を消耗しているのかすら怪しい。
それに対してうてなは、自前の体力を奪われつつある。
決定打がないというのは、やはり致命的だった。
その事実に、うてなはますます考えてしまう。
どうして自分は今もこうして戦っているのか、と。
逢沢くのりの取った行動は、どれもこれも理解できない。
そこまでする価値を、どうやって見出したと言うのか。
仮にそれを訊けたとしても、返って来る答えは一つだっただろう。
安藤龍二が好きだから、愛しているから。
「――っ、ぁ!」
かわしきれない、と理解した瞬間、うてなの意識は途切れた。
一秒にも満たない時間だったが、気が付いた時には地面に倒れていた。
ひんやりとしたアスファルトの感触に、意識が冷まされていく。
このまま倒れていれば楽なのだろうと、甘く鈍い誘惑が全身に広がっていく。
「――――」
閉じかけた瞼の隙間に、安藤龍二の姿が映る。
この距離と暗さでは、どんな表情をしているかなどわからないし、声も聞こえない。
瞼の重さに、視界が更に狭まる。
宙に浮かんだままの疑問が、針のように思考を刺した。
結局自分は、どうして戦っているのだろうか?
誰かを守るために、誰かを傷つけてまで。
答えは単純だ。
そうしてでも守りたいと、思ってしまったから。
ではなぜ、そう思ってしまったのか。
「…………あぁ、そっか」
やっと理解できたと、思考がクリアになっていく。
靄がかっていた世界が、一気に開けた。
今なら、わかる。
逢沢くのりがなぜ、ああしたのか。
私もきっと、そうなのだろうとうてなは思う。
安藤龍二に対して自分が抱く感情が、実際にはなんと呼ばれるものなのかは、正直わからない。
うてな自身、未だ曖昧で不確かなその感情を持て余している。
逢沢くのりのそれと似ているような気もするが、なにか違う気もしていた。
どちらかと言えば、そう。
神無城うてなにとって安藤龍二は、家族に近い友人。
そこにある感情は、親愛のそれに近い。
「……それに……ね」
仮にそれが、一般的に恋と呼ばれるものだったとしても、それは叶わない。
彼の気持ちは今も、そしてきっとこれからも、彼女にだけ向けられる。
それを自分に向けて欲しいなどとは、思わない。
そんな彼と彼女を見てきたからこそ、今の自分があるのだから。
「……だから、構わない」
逢沢くのりが抱いていた感情と自分のそれは、色も形も大きさも違う。
安藤龍二が向ける感情も、彼女と自分では違っている。
それでいいと、うてなは思う。
安藤龍二は、神無城うてなを信じてくれている。
そしてそれに応え、守りたいと想う気持ちは、確かに存在している。
ならば戦う理由は十分だ。
放っておけないのだから、仕方がない。
「……ったく、これじゃああいつのこと、バカにできないな」
口の中に溜まった血を吐き捨てながら、うてなは立ち上がる。
いつかの夜、何度倒れても立ち上がった少女の姿を、夜空に見る。
「本当に、ね……」
楽になりたいなどという弱音は、最初から存在していなかったかのように、消え去っていた。
倒れる前よりも、はるかに調子がいい。
「やっぱり、ごちゃごちゃ考えるのは向いてないや」
気持ちさえはっきりとしてしまえば、なにも問題はない。
だって仕方がない。
どんなに愚かな選択だとしても、それが自分好みの生き方なのだから。
だからあとはやりたいようにやるだけだと、うてなは不敵な笑みを浮かべ、加速した。
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