最終章 プロローグ
「ここだ」
端末で目的の部屋であると確認した少女は、途中で入手していた鍵を使ってドアを開けた。
頭からつま先まで雨に濡れている少女は乱暴に靴を脱ぎ捨て、水滴で床が汚れるのも構わず中に入る。
雨の音だけが流れる暗い部屋は、冬の冷気に満たされていた。
それでも外で雨に打たれるよりは、遥かにいい。
考えるべき事は山ほどあるが、彼女は全てを後回しにして少年の手を引っ張る。
うな垂れたままよろめいた少年は、引っ張られた拍子に壁で頭を打つ。
が、なにも反応は見せず、少女に促されるまま部屋の中へと足を踏み入れる。
靴を脱がせるべきかを少女は一瞬迷うが、今は無視する事にした。
「そのままじゃ、風邪ひくから」
そう言って少女は、ずぶ濡れの少年を脱衣所に連れて行く。
脱衣所と浴室の明かりをつけ、シャワーのコックを捻る。
自動で温度が調節されたシャワーは、すぐにお湯を吐き出し始める。
「……着替えは、用意しとく」
だから今はシャワーを浴びて身体を温めろと、少年を浴室へと押し込み、少女は脱衣所の外に出た。
閉ざした脱衣所から漏れる微かな明かりを背に、少女はその場に座り込む。
背中を預けた脱衣所のドア越しに、シャワーの音が漏れ聞こえる。
「…………はぁ」
少女――神無城うてなは深く息を吐き出し、目を閉じる。
二人がやって来たこの部屋は、逢沢くのりが個人的に用意していたセーフハウスの一つだ。
組織の追手を掻い潜りながら、どうにか辿り着く事ができたのは、夕暮れ時だった。
早朝から続いていた逃亡劇は、これで一区切りついたと言えるだろう。
昼を過ぎたあたりで追手を振り切る事はできていたが、痕跡を極力残さないようにするのは、想像以上にうてなの体力と精神力を奪っていた。
一度は落ち着いた天気も、一時間ほど前に崩れ始め、ここに辿り着く頃には全身ずぶ濡れになってしまった。
そしてそれ以上にうてなを消耗させたのは、自力で動く意思を失いかけていた少年――安藤龍二だ。
「……逢沢、くのり」
囁くようにその名を呟いたうてなは、目を開いて闇を見据える。
路地裏で見た白い光景を、その闇の中に見る。
うてな自身がはっきりと確かめたわけではない。
だが、くのりの身体を抱き上げて蹲る龍二の背中が、これ以上ないほどに全てを物語っていた。
声にならない慟哭に、うてなの心臓が軋んだ。
あの瞬間、自分がどうすればいいのか、わからなかった。
かけるべき言葉も、取るべき行動も。
目には見えない断絶を、そこに感じていた。
だが、遠くに見えた車両の影と、人の接近に気づいた。
それが組織の追手であると、うてなは直感した。
次の瞬間、うてなは龍二に駆け寄って肩を掴んでいた。
そうしなければならないと、強く思った。
「龍二、立って。逃げないと」
ゾッとするほど冷たい肩に、うてなの声は震えていた。
触れた肩から、彼の感情が流れ込んでくるような錯覚に襲われたのだ。
思わず膝をついてしまいそうになる自分を奮い立たせ、うてなはもう一度彼の名を呼んだ。
それでも龍二は、反応を見せなかった。
動かない少女の身体を抱き締めたまま、それ以外の事を全て忘れてしまったかのように。
正直、そのままにしておくのも、選択肢の一つだったのだろう。
けれどうてなは、顔を埋めたまま動かない龍二を、力任せに振り向かせた。
「――――っ」
その表情に、思わずうてなは息を呑んだ。
胸が軋むどころではない。
無数のナイフを突き立てられるような痛みに、怯んでしまいそうだった。
「……龍二、立って」
辛うじて絞り出したうてなの言葉に、龍二は小さく首を振った。
「……置いて、いけない」
そう言って、穏やかに目を閉じている少女の身体を、また抱き締める。
彼女がただ眠っているだけなら、うてなも頷いただろう。
面倒な事には変わりないが、彼女を連れて行くという龍二の言葉に、異を唱えはしなかった。
「それは諦めて。彼女は、連れていけない」
だが、現実はそうではなかった。
どれだけ穏やかで、今にも目を開けそうな顔をしていたとしても、逢沢くのりはもう、息絶えていた。
それは龍二もわかっている。わかっていて、置いてはいけないと首を振ったのだ。
ならばうてなは、それを認めるわけにはいかなかった。
目を開く事のない逢沢くのりを連れて逃げる事は、負担にしかならないとわかっているのだから。
龍二と二人で逃げる事すら、困難を極める。
それがわかっていて、認める事などできるはずがない。
「……うてな」
「ダメ。諦めるしかない」
議論する余地はないと断じるうてなに、龍二は唇を噛んだ。
「……なら僕は……いい……もうくのりをひとりには……だから……もう……」
「そんなの、許さない」
俯こうとした龍二の頬を両手で挟み、うてなは強引に顔を上げさせた。
色を失いかけている龍二の瞳を、うてなは真っ直ぐに見つめた。
「今は……今だけは、絶対に許さない。ここで捕まることも、どうでもいいなんて諦めることも」
うてなの胸中に渦巻いているのは、静かな怒りだった。
「辛いのはわかる。でも、だからって今ここで絶望なんてするな」
打ちひしがれた目の前の少年に、言葉を叩きつける。
「あんたがここで諦めたら、全部無駄になる。そんなの、許さない。このままじゃ、あんたの想いも、彼女の想いも……全部、無意味になる」
それだけは見過ごせないと、うてなの感情が発熱していた。
自分はただ、手を貸すだけの立場だとわかっている。
これは安藤龍二と逢沢くのりの問題であり、自分は当事者ではないと。
だがそれでも、今の龍二を認めるわけには、いかなかった。
「絶望に、逃げ込むな」
逢沢くのりの死を目の当たりにし、追手がそこまで迫っているこの瞬間。
挫けてしまうのは、仕方のない事かもしれない。
安藤龍二は、ただの少年も同然なのだから。
けれど、神無城うてなは見てきた。
これまで彼と彼女が、どんな風に生きてきたのかを。
だからこそ、傍で見てきた友人として、目の前の闇に身を投げ出そうとする彼を、見過ごす事はできなかった。
「最終的には結局、同じかもしれない。もしもあんたがそうしたいなら、すればいい。私には、とめる権利はない」
「…………」
「でもそれはさ、ちゃんと考えて、考え抜いた上で、あんたが決めなきゃダメなんだよ。辛いからって、今ここでそっちに流されるのは、絶対にダメだ」
立ち止まるのはいい。
膝をついてしまうのもいい。
だが、流されるように身を預けてしまうのはダメだと、うてなは思ったのだ。
それだけは、見過ごしてはならないと。
逢沢くのりがどんな気持ちだったかはわからない。
最後になにを望んだのかも、わかるわけがない。
それでもこの状況で、龍二が諦める事だけは望んでいないと、そう思った。
「考えるためにも、今は逃げなくちゃいけないの。だから龍二……わかって」
真剣に訴えかけてくるうてなの言葉に、凍り付いていた龍二の意識が、僅かに溶ける。
白い雪に覆われた暗闇の中で、微かに差し込む光のような声。
見逃してしまいそうなほど小さく、龍二は頷いた。
うてなはそれを見逃さず、力強く龍二を引っ張り上げ、立ち上がらせた。
龍二は一度だけ、白い世界に横たわる少女の姿を見る。
なにかを呟くように口を開いたが、声はなかった。
そしてうてなは龍二の身体を抱え上げ、建物の壁を蹴ってその場を離れ、セーフハウスまで逃げてきたのだ。
「……あと、少しだったのにさ」
せめて一目、会えていたのなら。
そう思わずにはいられなかった。
暗闇を見つめたまま、うてなは寒気に身を震わせる。
正直、すぐにでもシャワーを浴びたかった。
エアコンを作動させて部屋を暖めるべきなのだろうが、動く気にはなれない。
背中から聞こえてくる、ドア越しの音。
水がタイルを打つ音が、ずっと聞こえている。
「…………っ」
そこに、もう一つの音が混じり始めた。
心が削られていくような、擦り切れるような慟哭。
シャワーの熱が、凍てつき鈍っていた感情を融解させたのだろう。
経過した時間が、そうさせたのかもしれない。
どちらにせよ、背中から覆い被さってくるような音が、一つの事実をうてなに突きつける。
「……泣かせたくないって、言ってたくせに」
誰よりも近いようで隔絶された暗い廊下でうてなはそう呟き、顔を覆った。
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