第5章 第1話 おかえりなさいを言えなくて その7
火照った身体の熱は、まるで毒のようだ。
それを誤魔化すように、深月は浴室の壁に手をつき、火傷しそうなほど熱いシャワーを頭から浴びていた。
いつもと同じだ。
抑え切れない衝動に襲われ、逃げるように浴室へと駆け込んだ。
乱暴に服を脱ごうとしたが、それすら我慢できず、深月は下着とシャツを着たまま、立った状態でシャワーに打たれていた。
思考を溶かすような熱に、俯いたまま甘い吐息を漏らす。
目を閉じ、瞼の裏に見える少年にナイフを突き立てていた。
現実では不可能でも、妄想の中でなら存分に殺せる。
彼に銃口を向ける高揚と、引き金を引く絶頂を知ってしまったあの夜から、深月はもう抗う事すらやめていた。
妄想で得られる快楽に身を委ね、シャワーの音に紛れて嗤う。
全身に浴びる熱湯は、まるで彼の血のようだ。
暗闇の中で振るうナイフ、そこに返ってくる感触はリアルのそれと変わらない。
自分が知る現実の感覚を全て注ぎ、妄想の中で殺人に耽る。
壁についた指先が、ピクリと震えた。
妄想が現実を侵食し、深月の身体に快感を走らせる。
「――んっ、ぁ」
微かに漏れた吐息は、絶頂の切れ端だ。
深月自身、唇からこぼれた淫らな声に驚きはない。
シャワーを浴びながらする妄想は、もはや日常になっている。
抗い続けていた時期から、ずっとそうだった。
殺害衝動と深く結びついた快感。
自身の身体に触れる必要すらない。
目を閉じて彼を殺すのは、深月にとって自慰そのものだ。
卑しい絶頂を迎える事で、殺害衝動を発散する。
受け入れてしまった今では、自己嫌悪すら抱かない。
ただ、その回数と密度が増えていくだけだ。
繰り返し、身体を震わせる。
シャワーに紛れているのは、喘ぎ声や吐息だけではない。
柔肌を伝い落ちる水滴は、あらゆるものと混じり合って足元に広がっていく。
そんな自分を嘲笑い、それでもやめる事ができない。
「――はっ、あっ! あっ、んっ!」
至福とも言える絶頂を迎えた瞬間、深月は背中を反らし、髪を振り上げた。
唇と首筋に当たるシャワーの刺激に、もう一度身体を震わせ、崩れ落ちる。
力の入らなくなった膝を浴室のタイルにつき、浴槽にもたれ掛かるようにして座り込む。
頭上から降り注ぐシャワーのほどよい勢いが、絶頂の余韻には心地よかった。
白んだ視界をタイルに向け、痕跡を隠すように流れていくお湯を眺める。
そのまま穢れも一緒に洗い流してくれれば、などと考える自身を深月は嗤う。
自嘲の笑みを浮かべ、唇から声を漏らす。
まるで知らない誰かが泣いているようだと、冷めた感情で深月はそれを聞いていた。
「…………なにを、しているんだろう」
改めてお湯を張った浴槽に肩までつかりながら、深月はぼんやりと天井の水滴を眺めていた。
半端に着たままだったシャツと下着は、洗濯機に放り込んである。
全身に染みわたる熱に、自然と表情も和らいでいた。
思考が鈍っているように感じるのは、きっとお湯のせいだろう。
定まらない思考をどうにか繋ぎ止めようと、これからの事を考える。
うてなは出て行ったきり、まだ戻らない。
彼女もどこかで、なにかを考えているのだろう。
「あの娘なら、そんなに迷わないでしょうけど」
自分とは大違いだと、深月は目を閉じる。
長期にわたる任務は終わった。
すぐ次の任務が与えられるのだろうか?
それとも、少しくらいは休暇を貰えるだろうか?
「欲しいと思ったことは、ないのに……」
今はなんだか、休みたい気分だった。
なにも考えず、なにもせず。
虚無の中で、全てを忘れてしまいたいと深月は本気で思っていた。
いっそ、記憶も消して欲しいくらいだ。
そうすれば、妄想で人を殺して快楽を貪るような事も、しなくてすむようになるだろう。
許されるのなら、そうして欲しい。
組織なら――博士ならそれくらいできそうな気がする。
「問題は、聞き入れてくれるか、だろうけど……」
博士の性格を知っていれば、望みが薄いのはわかりきっている。
技術的に不可能とは思わないが、やはり期待はできないだろう。
なら、このままでいるしかない。
何事もなかったように振舞いながら、別の任務につく。
いつか、失敗して死を迎えるまで。
「いっそ処分されたほうが、楽かもしれない……」
そう言って鼻を鳴らし、掬い上げたお湯が指先からこぼれていく様子を眺める。
問題のあったエージェントは処分される。
その事実は、以前から知っていた。
処分がどういう意味を持つのかまでは、さすがに知らないが。
捕らわれているはずの少女があの場にいた事には、当然疑問を持った。
組織から離反し、捕縛されたはずの少女が、龍二の誘拐にまた関わっていた。
そしておそらくは、逢沢くのりの最終テストとやらにも。
夏以来、ずっと処分されずにいたという事なのだろう。
博士の気まぐれか、なにか別の目的があったのか。
彼女について疑問は尽きないが、深月の関心はまた別にある。
博士の口振りから、逢沢くのりはそう長くは生きられないように感じた。
処分されるからではなく、彼女自身の寿命として。
なにか持病を抱えているようには見えなかったが、隠し通すくらいの事は当然できるだろうから当てにはならない。
与えられた情報にも、それらしいものはなかったはずだ。
そもそも、持病を持っている者がエージェントになどなれるわけがない。
ならば、知らないなにかがある、という事だろう。
そのなにかは、逢沢くのり特有のものなのか。
それとも、自分たちにもあるものなのだろうか?
「……くだらない」
そこまで考えたところで、深月は自分の思考を笑い飛ばした。
今更すぎる。
知っている事と知らない事。
どちらが多いかは、考えるまでもない。
当たり前のように受け入れているが、エージェントがなんなのかすら、わからないのだから。
「……また、これだ」
頭部に鈍い痛みを覚えた深月は、目を閉じて全身の力を抜く。
自身の生い立ちについて考えようとすると、いつもこうなる。
頭痛と共に倦怠感を覚え、気分が悪くなる。
物心ついた時から、組織の中で訓練を受けていた。
一番古い記憶は、痛み――全身がバラバラになるような痛みだ。
両親の顔など、もちろん知らない。
久良屋深月という名前すら、本名なのかどうかもわからない。
後から与えられたものだとしても、驚きはない。
正直に言えば、名前に愛着はない。
自分を認識しやすくするためのもの。ただそれだけだ。
過去や生い立ちに興味があるかどうかで言えば、あるのだろう。
顔もわからない両親に会いたいという感情はないが、この数ヶ月で気になり始めているのは確かだった。
全てはきっと、彼のせいだろう。
殺意とはまた別の、もどかしくなる感情。
落ち着かない気持ちに、どうしていいかわからなくなるような感覚。
それはある意味、恐怖に似ていた。
興味など抱かなければ良かったのだ。
彼にも、自分自身にも。
ただ忠実に、淡々と任務をこなしていれば、迷いも生まれなかった。
そうだ。なにも生み出したいなどとは、思わない。
自分は命令に従うだけでいい。
命じられるまま、望まれるまま、ここに在れば良かった。
「今更、なのよね……」
だがもう、知ってしまった。気づいてしまった。
自分という存在に、疑問を持ってしまった。
そのせいで、ずっと気にも留めなかった事が気になってしまう。
疑う必要のなかった世界に、疑念を抱いてしまう。
すべて、彼のせいだ。
「だから、殺したい……?」
まさかだ、と深月は首を振る。
彼に対するそれは、全く違うところから湧き出してくるものだ。
「嫌になる……」
もう考えるのも、迷うのも億劫だ。
「……いっそ、消えてしまえば」
深月はそう思いながら、温くなり始めた浴槽に、全身を沈めた。
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