第3章 第4話 SIGNAL その1

 肌寒さを覚えた龍二は、薄手のカーディガンを羽織って机に戻る。

 季節は夏から秋に移り変わり、あっという間に寒さが身に染みる時期になっていた。

 少し前まではうんざりするほどの暑さだった事が、嘘のように思える。

「とは言え、暖房はまだ早いもんな」

 龍二の部屋にもエアコンは設置されているが、一年を通してあまり使用頻度は高くない。安藤家の人々は気にせず使っていいと言ってくれるが、居候という立場にある龍二としては、可能な限り我慢しようと考えてしまう。

 椅子に座り直した龍二は、改めてペンを手に取ってノートを眺めるが、すぐにペンを置いた。

 球技大会も一ヶ月以上前に終わり、受験生としては当たり前の、勉強に追われる日々に突入していた。

 進学を希望している龍二も例外ではなく、こうして机に向っている。

 しかし、やらなければいけないとわかっているが、あまり捗ってはいなかった。

「あと一時間くらいか」

 腕時計で時間を確認した龍二は、椅子の背もたれに身体を預けてため息を吐く。

 夕飯の準備を終えた奏に呼ばれるまでには、それくらいの時間がある。

 学校から寄り道せずに帰宅して机に向かってみたものの、結果はこれだ。

 どうにも集中できないのは、今日に始まった事ではない。

 日増しに手が止まる時間が増えてきているように思える。

「ダメだよな、これじゃ」

 そう思いつつも、やはりペンに手は伸びなかった。

 その時、見計らったようなタイミングで携帯が鳴動する。

「……やっぱりか」

 メッセージを送ってきた相手は、予想通りの人物だった。

『我、挑戦者求む』

 無駄に凝った顔文字と一緒に送られてきたメッセージに、龍二は苦笑する。

 差出人はもちろん、神無城うてなだ。

 数回に及ぶメッセージのやり取りによって、おおよその事情を龍二は理解する。

 どうやら、お目付け役とも言うべき久良屋深月が本部に行っているようで、今日は羽目を外して遊んでも問題ないらしい。

 ゲームは一日一時間、とまでは言わないまでも、プレイ時間に対して母親のように目くじらを立てられるのが、彼女の日常だ。

 今日はその心配がないので、久しぶりにがっつり遊びたいという事だった。

「謹んで遠慮させて頂きます、と。これで良し」

 事情を把握した上で、龍二はあっさりと断りのメッセージを送信する。そしてすぐに携帯の電源を切った。

 こうしておけば、諦めずに誘おうとするうてなの連絡に煩わされる事もない。

 うてなが羽目を外すと言ったのなら、徹夜を覚悟しなくてはならない。

 少しくらいなら一緒に遊ぶのも構わないが、羽目を外すと宣言しているうてなに付き合うほど、龍二も暇ではないのだ。

 とは言え、勉強に集中できるわけではない。

 龍二が手を伸ばしたのは机の上ではなく、その下にある引き出しだった。

 中にあるのはごく普通の文房具がほとんどだ。

 龍二はその奥にある小さな箱を手に取り、無言で眺める。

 かれこれ四ヶ月ほど、机の中にしまわれているその箱は、龍二にとって特別な意味を持つ。

 安藤奏の誕生日プレゼントと一緒に購入した、逢沢くのりへのプレゼントが収められた箱だ。

 最初の事件が解決したら、くのりに渡そうと思っていたが、当然、あんな事になっては渡せるはずもなく、ずっと机の奥にしまい込んだままになっていた。

 捨てる事もできず、かといって他の誰かに渡せるようなものでもない。

 もしかしたらという希望と願望、そしてくのりへの感情がそれを許さなかった。

 かと言って、渡せなかったプレゼントを目にすれば、深く刻まれた傷が疼き、痛みを覚えてしまう。

 だから机の奥へ、目を背けるように押し込むしかなかったのだ。

 それに手を伸ばして眺めるようになったのは、あの文化祭があった頃。

 再会は束の間、ほんの僅か数分だった。

 それでも、生きているとわかった。

 儚い希望ではなくなった瞬間でもあった。

 それからだ。こうして時折、その箱を眺めては想いを馳せるようになったのは。

 あの日以降、くのりから連絡はない。姿を見せてくれる事も、ない。

 だが、それまでのような不安に押し潰されそうな感覚はなかった。

 たとえ会えなくとも、彼女は今、どこかで生きているのだから。

 生きてさえいるのなら、チャンスは訪れる。

 彼女が龍二にコンタクトを取るのは至難の業だという事は、百も承知だ。

 龍二を取り巻く警備システムは非常に高度であり、最先端の先を行く。

 当然、深月やうてなに気づかれるわけにもいかない。

 いざくのりがその気になったとしても、そう簡単な事ではないだろう。

 だが、一度は会いに来てくれた。

 慌しい文化祭の準備中の、針の穴を通すような隙を狙って。

 ただの偶然であるはずがない。なにかしらくのりが行動し、龍二が一人になる瞬間を作り上げたのだろう。

 たった数分間の再会。

 けれど、大切なのは時間の長さではないと、龍二は初めて思った。

 それを証明するように、あの瞬間に感じた胸の高鳴りと熱が忘れられない。

 今もまだ、身体の奥に残っているように感じる。

 だからこそ、思い知った。

 今更確認するまでもないと思っていたのに、呆れるほど自分の気持ちがわかってしまった。

 安藤龍二は今でも、逢沢くのりに恋をしているのだと。

 たとえ彼女が、人を殺した事があるのだと告白されても、なお。

 彼女がなによりも隠し通したかったはずの、決して変えられない真実を知っても、変わらなかった。

 目を閉じれば、浮かんでくる。

 そして強く、思ってしまう。

 声を聞きたい。

 手に触れたい。

 笑顔を見たい。

 ――この手で、抱き締めたいと。

 誤魔化しようがないほど明確に、望んでいた。

 これほどまでに欲深い感情を持っていたのかと、自分自身ですら驚くほどに。

 その恥ずかしくなるほど赤裸々な欲望に、龍二は決めた。

 次にくのりと会えたのなら、必ず伝えようと。

 今でも君が好きだと、彼女の目を真っ直ぐに見つめて。

 可能ならプレゼントも一緒にと思っているが、それは高望みすぎという気がして、龍二は苦笑した。

 そっと箱を元の場所へ戻し、引き出しを閉める。

 龍二は机に頬杖をつき、小さく息を吐いた。

 勉強が捗らない理由は、くのりへの感情とは別に、もう一つある。

 誘拐された時に聞かされた、自分についての断片的な情報が、龍二の迷いになっていた。

 くのりの話が本当なのだとしたら、龍二に残された時間は半年もない。

 どんなに頑張って受験勉強をしたとしても、進学する事ができないのでは、無意味に思えてしまう。

 具体的にどうなるのかはわからないが、くのりは怖い事を言っていたはずだ。

「どうなっちゃうんだろ……」

 正直、その事は考えたくもない。色んな想像が脳裏に浮かぶが、どれもこれも最悪を絵に描いたようなものばかりだった。

「誕生日あたりになにか、あるのかな」

 安藤龍二の誕生日は、一月十四日だ。それが本当なのかどうかは、今となっては信じられないが。

 そのあたりがリミットなのかもしれないと考え、すぐに思い出す。

「違うか。卒業はできるって言ってたし」

 そしてそのまま、組織に回収されると言っていた。

 なぜ僕が、と以前の龍二なら心当たりがない事に悩んでいただろう。

 だが今は、自分が普通ではないと知っている。

 この世界に存在しないはずの、特別な魔力を持つ一人。

 安藤龍二と神無城うてなだけが持つ、希少なもの。

 龍二が特別視される要因があるとすれば、やはりそこに行きつく。

 逆に、それ以外には考えられない。

「本当に、なんでだろう……」

 どうして自分の身体にそんなものが宿っているのか、見当もつかない。

 が、なにかの間違いではない事もまた、事実なのだ。

 うてなにキスをされてから、見えないはずのものが見える。

 彼女の身体を包むような魔力の影が、淡い色を伴って見えるのだ。

 同時に、魔力の波動を肌で感じるようにもなった。

 幻覚や勘違いではないと、あの夏休みの日に理解した。

 あれ以来、うてなが魔力を使用する場面を見ていないので、今も見えるのかはわからない。

 ただそれでも、あの日見たものは否定できないのだ。

 龍二は一度、うてなに訊いてみた事がある。

「あのさ、魔力があるってことは、僕もうてなみたいにこう、戦えちゃったりする可能性あるのかな?」

「いやないでしょ」

「なんでさ? 魔力があれば使えるものなんじゃないの?」

「そんなわけないでしょ」

 即答だった。あまりにもバッサリと切られた龍二は、それなりに落ち込んだ。

 さすがにその様子を可哀そうに思ったのか、うてなはきちんと説明をしてくれた。

「そもそも、私の魔法はこの世界じゃ一割も使えないの。もともと存在しない魔力であり、術式だから。使えるのは私の身体に依存する魔法だけ。もっとそれらしい魔法を使うには、元の世界じゃないと無理。仮の話にはなるけど、もしあんたが私の世界に行けたら、新しく術式を刻んだり習得することはできる、かもしれない」

「じゃあ、この世界じゃ魔力があっても……」

「もしかしたら、人より回復力は多少なりとも優れているかもしれないって程度。凡人であることに変わりなし」

 そう結論付けたうてなは、諦めろと言って鼻を鳴らした。

 魔法に関してはうてなの話を信じるしかないので、龍二は素直に頷き、その話はそれっきりだ。

 ただの興味本位だとうてなは思っていたようだが、龍二としては内心、酷く落胆していた。

 もしかしたらという可能性に、本気で期待していたのだ。

 ほんの少しでも、うてなと同じように魔力を操り、戦えるのならと考えていた。

 うてなや深月と肩を並べて、などと高望みをするつもりはなかったが、少しでも一緒に戦える力を得られれば。

「少しはなにか、やれると思ったんだけどなぁ」

 彼女たちに守られるだけの現状から脱する事も、彼女たちの助けになる事だってできたかもしれないのに。

 それだけじゃない。

 自分から行動を起こす事だってできるかもしれない。

 それこそ、くのりと一緒に逃げる事だって。

 そう単純な話ではないとわかっていても、考えずにはいられなかった。

 なにもかもを捨てて、くのりと共に……。

 だが、そう考えた時、彼女たちの顔が浮かんだ。

 それは家族同然に接してくれる奏の顔。

 そして、龍二のために危険を顧みず守ってくれる、深月とうてなの顔。

 もし力を得られたとしたら、自分はどうするのだろうか?

 くのりと逃げるという事は、深月とうてなを裏切るも同然だ。

 そんな事を考えたと知られたら、彼女たちはどう思うのだろうか。

 自分自身の醜さを直視するような想像に、龍二は顔を歪めた。

 龍二がくのりと逃げたら、深月やうてなはどうなるのだろう。

 ――そして、どうするのだろうか?

 考えても、答えなど出るはずもない。

 結局、どうしていいかはわからないままだ。

 そもそも、全部妄想も同然。

 魔力で戦えるようになる可能性はないのだから、前提が成立しない。

「はぁ……」

 大きくため息を吐いた龍二は、机から離れてベッドに突っ伏した。

 こんな事を考えるのは、もう何度目になるかわからない。

 思考を巡らせるべき方向性すらわからない、完全な迷子だ。

 龍二は頭を抱え、ベッドの上で転がる。

「――――え?」

 突然鳴り響いた携帯の音に、龍二は飛び起きた。

 確かに電源を切っておいたはずなのに、どうして着信が入るのか。

「…………」

 不審に思いつつ、ディスプレイに表示された相手の名前に嫌な予感を覚える。

 こういう時の嫌な予感は、まず間違いなく的中する。

「…………なんで?」

 電話に出た龍二は、開口一番そう訊いた。

『電源を切ったくらいで勝ったつもりか? 舐めるなよ。その程度の遠隔操作、できるに決まっている』

「…………嘘でしょ?」

 なぜか勝ち誇っているうてなに、龍二は愕然として呟く。

 実際にやられているのだから認めるしかないのだが、認めたくないという気持ちが捨てきれない。

『というわけで、めっちゃ暇してるでしょ? 寝転がってる余裕、あるもんね? なら夕飯食べたら来ること。いい? 来ないとどうなるかは、言わなくてもわかるよね?』

 そしてなにより、遊び相手が欲しいがために、その凄まじい組織の技術を一切の躊躇なく使用してくる、この頼れる護衛の行動力を信じたくない。

「……今のうてな、とんでもない悪役みたいだよ」

『そういうのいいから。んじゃ、後で』

 要件は済んだとばかりに通話が切れ、聞こえてくる機械音に龍二は無常を感じて、呟く。

「……勘弁してよ」

 が、無視した場合を考えると、覚悟を決めるしかない。

 改めてため息を吐いた龍二は、夕飯の準備ができたと呼ぶ奏の声に応えた。

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