第3章 第3話 Eazy Time その1

 特に胸を躍らせるでもなく、久良屋深月は文化祭に賑わう廊下を一人で歩いていた。

 文化祭が始まってから一時間ほど経過しているが、賑わいが衰える気配は僅かも感じられない。

 これほどまで活気に溢れるものだとは、想像もしていなかった。

 準備期間からその熱量に驚く場面は多々あったが、当日となるとその比ではない。

「どうしたものかしらね……」

 龍二に勧められて適当に歩いてみたが、僅か数分でどうしていいかわからなくなっていた。

 こんな事なら、ずっとクラスの出店を手伝いながら、龍二の護衛をしていれば良かったと深月は早くも後悔し始める。

 話し合いの結果、深月にその役が回って来るのは午後になってからだ。時間にしておよそ、二時間は暇を持て余す事になる。

 せっかくなのだからと勧められて歩き回ってはみたが、興味を抱けるようなものは一つとしてなかった。

 それは学生レベルの出し物に興味がないというわけではなく、深月個人の問題だ。

 こういった普通の事をどう楽しめばいいのか、一人ではわからない。

 普段なら龍二やうてなが一緒にいるので、それに合わせる事で誤魔化せていた、エージェントとしての欠点だった。

 うてなであれば一人でも十分すぎるほど楽しめるのだろう。

 それに加えて彼女には、龍二以外にも友人と呼べそうな生徒が数名いる。

「訓練に組み込む必要があるとは、思いたくないけれど」

 今後の課題として本部に提案するか否かを、深月は真剣に考えながら歩く。

 すれ違う生徒たちの楽しそうな表情を見るたびに、ため息を吐きたい衝動に駆られる。

 普段の学校ならばそれほど問題なく溶け込めているはずだが、日常から少し外れただけで自身の異質さが浮き彫りになってしまう。

 日常を楽しむ才能がないとでも言えばいいのだろうか。

 自嘲気味な考えに引きずられるようにして、賑わう校舎から外に出る。

 比較的人通りの少ない場所を選んで、特別に設置されているベンチに座った。

 どうせならクラスの屋台が見える位置にと思ったが、龍二に気づかれたら余計な気を遣わせてしまいそうだったのでやめておいた。

「なにを、しているのかしら……」

 小さく息を吐き、遠くを行き交う生徒たちを眺める。いや、生徒だけではない。保護者や他校の生徒らしき姿も見受けられる。

 警備の都合上、あまり好ましい状況ではないが、こればかりは仕方がない。

 もっと以前から潜入任務についていれば、手を回して外部の出入りを制限する事もできたのだが。

「……こういう思考が、ダメなのでしょうね」

 なにをするにしても、考えるにしても、まず任務ありきになってしまう。

 エージェントとしてそれが間違っているとは思わないが、正解ともまた言い難いのだろう。

 健全な学生の空間では、どうあっても自分は浮いた存在になってしまう。

 表面上は取り繕う事ができていても、やはりどこか、異質なのだ。

「表面上なのは、ここも一緒か」

 誰にともなく深月は呟き、携帯端末で警備システムを確認する。

 だが、情報を目で追うだけで、思考は別のほうへと向いていた。

 笑顔で溢れているこの空間でさえ、裏がある。

 多くは目を背けて、気付かないふりをしているだけだったりするのだ。

 深月はそれを、この学校の誰よりも知っていた。

 平穏に見えるこの学校にも、当然問題はそこかしこに転がっている。

 いじめと呼ばれるものはもちろん、大小さまざまな悪意が潜み、毎日のように誰かが傷を負っている。

 思春期特有の悪意は厄介なものだと、よくわかる。

 中には無自覚な悪意で傷つける場合もある。

 彼ら、あるいは彼女たちは知らないのだ。

 組織によって設置された警備システムには、全てが記録されている。

 そこには教師の悪意も含まれている。

 このデータを学校側やしかるべき場所に提出すれば、一体何人の救いになるだろうか。

 誰にも相談できず、思い悩んでいる生徒を救うことができるかもしれない。

 眩しい日差しのような楽しさの陰に隠れた、僅かな哀しみ。

 そこに手を差し伸べる手段を、深月は手にしている。

 だが、彼らを救う事は、久良屋深月に課せられた任務ではない。

 深月の任務はあくまで安藤龍二の護衛であり、一般人の問題に不要な干渉をするべきではない。

 エージェントとしてそう判断するのは、当然の事だった。

 万人を救うために、ここにいるわけではないのだ。

「…………嫌なものね」

 それでもどこか、胸の奥に疼く感情がある事を、深月は認めている。

 拭う事のできない不快感が、ずっしりと重さをもって残っていた。

 深月はそれを、よくない傾向だと判断していた。

 この任務について二ヶ月以上が経過している。

 その間に、エージェントとしての資質を損なっているような気がしていた。

 エージェントにとっては、任務が全てだ。

 それ以外の問題など、気に留める必要もなければ、心を痛める必要もない。

 あぁ、これだ。

 心が痛む。

 それこそがエージェントにとって不必要なものなのだ。

「問題はないはずなのに」

 定期的に受けている検査では、問題なしと診断されている。

 にも関わらず、これだ。

 検査が不十分なのか、それとも問題は別にあるのか。

「ダメね」

 ネガティブな思考から抜け出すように立ち上がり、深月は手近な出店に向かう。

 どれがいいかなどわからないのだから、近いところから立ち寄ってみればいいのだ。

 そうすれば、自然と次に繋がる。

「…………」

 が、いざ出店の近くまで行ったところで、足が止まってしまう。

 どんな風に声を掛ければ自然なのだろうか?

 そんな簡単な事にすら悩んでしまう自身を、深月は内心恥じる。

 そして同時に、パートナーであるうてなの姿を思い出した。

 彼女はいつも、どうしていたのか。

 もう飽きるほど、呆れるほどに見て来た彼女の行動を思い浮かべる。

「あの、一つ、貰える?」

 さすがに同じようにするのは恥ずかしく、無難な言葉を選んだ。

 明るく返事をした女子生徒は、慣れた手つきで品物を渡してくれる。

 深月も軽くお礼を言ってそれを受け取り、代金を支払ってその場を離れる。

 ただ一人で買い物をしただけなのに、心拍数がいくらか上がっていた。

 こんな事で緊張していたのかと、自分自身に驚きを隠せない。

 だが、品物を手に入れる事はできた。あとは先ほどのベンチに戻って食べればいい。

 歩きながらでも食べようと思えば食べられるだろうが、日々うてなの行動に小言を言っている身としては、やはり抵抗があった。

「いただきます」

 ベンチに戻って律儀にそう言った深月は、出来上がったばかりのたこ焼きを一つ食べる。

 あまりの熱さに口元を押さえ、耐える。

 どうにか時間を掛けて飲み込んだ深月は、静かに息を吐いた。

 火傷をせずに済んだのは幸いだったが、飲み物を用意しておかなかったのは失敗だったと後悔する。

 そのまま少し待ってから、二つ目のたこ焼きを口に運んだ。

 時間を置いた事で多少は熱が冷め、格段に食べやすくなっていた。

 先ほどは味を感じる余裕などなかったが、今度はわかる。

「美味しい……」

 そう感じはするものの、彼女は自分の味覚にあまり自信がなかった。

 食事は栄養補給ができればいい、というスタンスの深月にとっては、味の良し悪しは興味の対象外だ。

 それでも美味しいと口に出す程度には、そう感じられた。

 それが深月の中で、スイッチとなった。

 残りのたこ焼きをしっかりと味わった深月はすぐに立ち上がり、まず自販機のある場所を目指そうとした。

 が、すぐに思い直して行き先を変更する。

 この辺りには、飲み物を販売している出店がある事を思い出したのだ。

 既製品を買ってきて転売しているだけのものを果たして出店と呼んでいいものかは、意見がわかれるところだろうが。

 だが、どうせなら、という気持ちが働いた。

 いつもの自販機ではなく、既製品でも普段とは違うラインナップから選べる事に、意味があるような気がした。

 決して適正とは言い難い値段にも文句は言わず、深月はペットボトルの飲み物を購入して、まず喉を潤した。

 そしてすぐにまた歩き出す。

 当てがあるわけではない。

 ただ出店が並ぶ敷地を歩き、気が向くままにいくつかの店を回った。

 どうしてそこを選んだのかは、深月自身もわかっていなかった。

 匂いにつられたのか、看板が目に入ったからなのか、呼び込みの声に導かれたのか。

 深月はすでに、理由は考えないようにしていた。

 初めての感覚に、ただ従う。

 自身の中に生まれてくる感覚をなんと呼べばいいのか、深月はわからない。

 けれどそれは、不快なものではなかった。

 未知の感覚でありながら、心地良さを覚える。

 普段食べないような物を食べているからだろうか?

 そうではない、と深月は思った。

 美味しいとは感じるが、だからと言って特別なものではないはずだ。

 どれもこれも、決して上等な調理を施されているわけではない。材料だって、ごくごく平凡でありきたりなものを使用しているはずだ。

 とある高校の、文化祭相応の食べ物でしかない。

 だが、美味しい。

 そう感じるなにかが、今この場にはあった。

「……こういう事、かしらね」

 深月は口元を綻ばせ、龍二と行った花火大会の夜を思い返す。

 彼の言葉の意味が、なんとなくだがわかったような気がした。

 雰囲気が大切なのだと、彼は言っていた。

 あの時はさっぱり意味がわからず、自分には無縁のものだと聞き流してしまったが、今ならわかる気がする。

 正解かどうかは、やはりわからないが。

 そしてふと、深月はある考えに至った。

 もしそうなら、龍二やうてなと一緒に食べた時は、どんな風に感じられるのだろう?

 任務でもなく、うてなの食欲に付き合わされるのでもなく、ただの学生が文化祭を楽しむように、それこそ友人のように一緒だったのなら。

 同じ食べ物でも、今以上に美味しいと、自分は感じられるのだろうか?

「――――っ」

 そう考えた瞬間、胸の奥に痛みを覚えた。同時に、頭の奥を刺されるような痛みにも襲われる。

 その痛みはどちらも一瞬で通り過ぎて行き、深月はすぐに平静を取り戻す。

「……あれは」

 そして顔を上げた深月は、向こうから歩いてくる女性の姿に気づいた。

 手元のパンフレットと周囲を見比べながら、懸命になにかを探している。

「……あの」

 すぐ横を通り過ぎようとしたその女性に、深月は声をかけた。

 見ず知らずの他人であればそんな事は絶対にしないが、彼女の事はよく知っている。

「え? あれ、あなたは確か龍君の……」

「はい。クラスメイトの、久良屋です」

「そうそう。あー、いいところで会えた」

 深月の事を思い出した女性――安藤奏が安心したように微笑む。

 先ほどの様子とその安心した姿から察するに、迷子になっていたのだろう。

 彼女は遠目にも、やや目立つ存在だった。

 監視カメラでいつも見てはいるが、今日は普段より着飾っているように思える。

 大人びた服装がそう思わせるのかもしれない。

 周囲の視線が彼女に注がれているのは、エージェントでなくともわかるほどだ。

 当の本人には、あまりその自覚はないようだが。

「探しているのは、うちのクラスですか?」

「えぇ、そうなんだけど、迷っちゃって。ほら、今年って校庭でしょ? だからよくわからなくて」

「そうでしたか」

 それほど難しい配置図ではないと思うが、地形や構造を把握していないと、わかりにくいのかもしれない。

 加えて去年までは教室で行っていたはずだから、彼女が戸惑う理由にも頷けた。

「でしたら、案内します」

「ううん、大体の場所さえ教えて貰えれば十分よ。久良屋さん、今は休憩中なんでしょう?」

「問題ありません。私もそろそろ戻ろうと思っていたので」

「そうなの?」

「はい。ですから、遠慮せず」

「それじゃあ、お願いします」

 丁寧に頭を下げる奏に、深月は頷く。

 交代の時間はまだ先だが、彼女を放っておくのは気が引けた。任務にも、完全に無関係というわけではない。

 安藤奏は、龍二にとって家族同然であり、特別な存在でもある。

 万が一の場合を考え、目を光らせておいた方が得策だと判断したのだ。

 危険があるとは思えないが、彼女は一般人でありながらやや注目を集めすぎる。

 そういう意味でも、深月がそばにいた方がいいだろう。

 それに、と自身の感情にも気づいていた。

 もし皆で、と考えたせいだろう。

 一人ではもう、同じように楽しめない気がしていた。

 だから深月としても、クラスの屋台に戻るのは都合が良かったのだ。

「それじゃあ、行きましょうか」

「えぇ。お願いします」

 人懐っこい笑みを浮かべる奏と共に、深月は歩き出す。

 その足取りは、かつてなく軽快なものだった。

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