第2章 第2話 黄昏から来た少女 その1
「おはよう、姉さん」
リビングで寛いでいる奏に挨拶をしながら、龍二は冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぐ。
「おはよ。今日は、ちょっと早いね」
「昨日は、久しぶりに良く眠れたから。そのおかげだと思う」
奏にそう答えながら、牛乳を飲み干したコップを洗い、食器乾燥機に入れておく。
「そうなんだ。じゃあ、すぐ朝ごはんにする?」
「うん」
キッチンにやって来た奏の柔らかな声に頷き、肩を並べて朝食の準備を手伝う。
「まぁ、朝食って言っても昨日の余り物なんだけどね」
「さすがにあの量を全部は無理だよ」
前日の夕飯を担当したのは奏だったが、張り切って用意した結果、家族四人では到底食べきれない量になっていた。男手が父親と龍二だけでは、太刀打ちできないほどだ。
「次は気をつけます」
奏はそう言って照れくさそうに舌を出し、手首につけていたシュシュで髪をまとめ上げる。先日、龍二が誕生日プレゼントとして贈ったものだ。
その様子に温かいものを感じながら、龍二は窓から差し込む日差しに目を向けた。
朝を清々しいと感じるのは、久しぶりの感覚だった。
奏に言った通り、昨夜はベッドに入って眠りに落ちてから、一度も目覚めることなく朝を迎えられた。
たったそれだけの事で、随分と気持ちはスッキリとしていた。
うてなに付き合わされたカラオケの効果があったのかもしれないと、心の中で苦笑する。
「聡さんと静恵さんは、出かけてるの?」
「お父さんは急な仕事で呼び出し。お母さんは、友達とお買い物だって」
「そっか」
他愛のない会話を挟みながら、食事の用意を済ませる。テーブルに並んだ朝食は、龍二と奏の二人分だった。
自分が起きてくるのを待っていてくれたのだと気づき、龍二は頬を緩ませる。
当たり前のようにテーブルで向き合ってくれる奏に感謝しながら、穏やかな気持ちで朝食をとる。
テレビから流れてくる朝のニュースは、どれもこれも平和なものばかりだった。
終始穏やかなまま朝食を終えた二人は、そのまま食後のコーヒーを口にする。
「なんだか、元気出たみたいだね」
「……そう、見える?」
「うん」
包み込むような奏の視線をこそばゆく感じながら、龍二は手元のカップを眺める。
奏が訊かずにいてくれた話をするのなら今がいいと、龍二は決意して顔を上げた。
「夏休みに入る前のこと、なんだけどさ」
「……うん」
空気を察した奏は、静かに頷いて龍二の言葉を待つ。
「くのりが、転校することになって」
「……そう、だったんだ」
「急な話で僕も驚いたんだけど、ギリギリまで隠してたみたいで、さ」
嘘をついているという事実から目は背けぬよう、奏の目を見たまま龍二は話す。
「凄く、遠くに行っちゃったんだ」
「そっか。辛いね」
「……うん。でも、仕方ないよ。こればっかりは、さ」
龍二の言葉に奏はただ相槌をうつ。
なんとなくではあるが、逢沢くのりに関することなのだろうと奏も気づいていた。
落ち込んでいるという言葉では生温い。塞ぎ込んでいる龍二を見ていたら、わかる。
心配になってくのりに訊いてみようとしたが、夏休み直前の事件からメールでもメッセージアプリでも連絡が取れなくなっていた。
事件に巻き込まれた生徒がいたという報道はなかったが、タイミングがタイミングなだけに心配だった。
かと言って、あの状態の龍二に訊くのは憚られた。
だから奏は、龍二が話してくれるまで待つことにしたのだ。
龍二が彼女に恋をしていることは、明白だったから。
「それでまぁ、ちょっと落ち込んでた。心配させて、ごめん」
深月と打ち合わせた通りの嘘を奏に話し、龍二は笑顔で謝罪する。
本当のことを話せるわけがないのはもちろんわかっているが、それで心苦しさが和らぐわけではなかった。
「心配するのは、お姉ちゃんの特権ですから」
龍二の中に残る痛みまで包むように、奏は満面の笑みを浮かべてみせる。
冗談めかした奏の言葉が、ジクジクと痛む龍二の心を優しく撫でた。
「とにかく、少しでも元気になってくれて良かった」
カップに触れていた手に、奏の手が重なる。
「うん。ありがとう、姉さん」
その温もりを確かめるように、龍二も手を重ねた。
安藤家の家事や宿題に精を出した龍二は、昼食を終えた午後、外に出た。
「あんた、正気?」
これでもかと照り付ける太陽に目を細める龍二を、不機嫌そうな声が出迎えた。
腰に手を当てて見上げてくるのは、神無城うてなだ。
「おはよう……じゃないか。こんにちは」
「挨拶とかいいから」
いきなりの暴言をスルーした龍二に、うてなはますます眉を吊り上げる。
「えーっと、久良屋さんから聞いてる?」
「だから正気かって訊いてんの」
なるほど、と龍二は納得する。
正気かどうかを問うのはあまりにも酷いと思うが、目的を知っているのなら当然かとも思う。
弁解する余地がない事はわかっているが、どうしてもそうしたかったのだ。
午前のうちに深月と連絡を取り、許可は得ている。
うてなはその護衛として駆り出されたのだ。
様子を見る限り、全力で反対しているようだが、龍二も引く気はない。
「どう思ってるかはわかるけど、頼むよ。ほら、昨日は僕がそっちに付き合ったんだし。今日は僕の番ってことで、さ」
龍二は拝むように両手を合わせ、頭を下げる。
主導権がどちらにあるかと言えば、腕力的に考えてうてなの方にそれはある。
なので最終的に龍二は、彼女の感情に訴えるしかないのだ。
「……ったく、なんで久良屋も許可出すかなぁ」
疲れたようなため息を吐き出し、うてなは髪を掻く。
「……それはつまり、オッケー?」
「特上寿司の出前がなかったら、認めてない」
「えっと、ありがとう」
感謝の言葉は、受け入れてくれたうてなに対するものというより、食べ物で買収してくれた深月に対するものだった。
出会いがしらの挨拶は、うてななりの抵抗と意思表示だったのだろう。
「場所、わかってんの?」
「メールで送ってもらった」
「あっそ。じゃ、タクシー呼んで」
「え? でも僕、今月はちょっと予算が……」
「こんな暑い中、あんなとこまで歩きたくない。ここが血税の使いどころってやつでしょ」
「……いいのかなぁ」
「いいの。ほら、早くして」
彼女の機嫌をこれ以上無駄に損ねては困ると、龍二は素直に従うことにした。
そのマンションは、タクシーでおよそ三十分の距離にあった。
それなりに高級感の漂う外観を見上げる龍二の隣で、うてなは面倒くさそうな顔をしていた。
「なにぼけっとしてんのよ」
「思ってたより、高そうなマンションだなと思って」
それだけが理由ではないのは明白だったが、うてなはあえてなにも言わなかった。
意を決したように頷いた龍二は、エントランスに入って郵便受けを目指す。
深月が送ってくれた情報を携帯で確認しながら、指定された郵便受けのロックを解除した。
中に置かれているのは、目的の部屋に入るための鍵だ。
ぽつんと置かれた鍵に手を伸ばして取り出す。一瞬だけあった間は、躊躇によるものだ。
「あった?」
「うん」
エントランスで待っていたうてなに、手にした鍵を見せる。
興味なさげなうてなの横を通り過ぎ、オートロックを解除してエレベーターへと向かう。
目的の階につき、その部屋の前に辿り着くまで、二人の間に会話はなかった。
手にした鍵と、部屋番号を見比べて間違いがないことを何度も確かめる。
あとは鍵を差し込んで、扉を開けるだけだ。
「…………」
だが龍二の手は、鍵を差し込もうとしたところで止まった。
深月には相当な無理を言って手を回してもらったのに、いざとなったら鍵を持つ手が震えてしまう。
「……代わろうか?」
龍二の行動に対して、明らかに賛同していなかったうてなが助け舟を出す。
その事に龍二は驚きつつも、首を振って顔を上げた。
「大丈夫。僕が頼んだことだから」
声に出すことで自分自身に言い聞かせ、龍二は鍵を差し込んだ。
無機質な音が廊下に響き、扉が開く。
蒸し暑い空気が、流れ出してきた。
淀んでいるようにすら思える、しんと静まり返った部屋に足を踏み入れる。
その部屋は、想像以上に殺風景だった。
最低限の生活用品が揃っているかすら疑わしい。
以前、セーフハウスとして連れて行かれた部屋よりも、生活感というものが希薄だった。
体温の感じられない部屋を見回し、龍二は知らず知らずのうちに止めていた息を吐き出す。
微かに積もり始めている埃が、無情な時間の流れを表していた。
「……ここが、本当に」
「間違ってない。ここが、逢沢くのりの部屋」
腕を組んで壁に寄り掛かったうてなは、淡々と事実だけを告げる。
「まだ調べたいことがあるとかで、ほとんどそのままにしてある。調査員が持ち出したものは、パソコンとか装備一式くらい」
「そうなんだ」
冗談みたいに部屋が殺風景なのは元からだと、うてなは暗に示す。
龍二は頷き、無言で部屋を見て回る。
部屋の間取りからすると、四人家族で暮らすことを想定された造りになっているようだ。
とは言え、そんな人数が暮らしていたような形跡はない。
リビングに置かれた小さなテーブルとソファ。
寝室と思しき部屋には、ベッドすらない。
申し訳程度の衣装棚と、パソコンなどの機材が置かれていたと思われるデスクがあるだけだ。
どこで眠っていたのだろうか、と疑問に思う。
床か、あるいはソファで眠っていたのだろう。
その姿を幻視し、龍二は疼く胸に手を当てた。
殺風景すぎるその光景に、哀しみが込み上げてくる。
「そう言えばって思ってさ、気付いたんだ」
閉ざされたままのカーテンを開け、龍二は街を見下ろしながら呟く。
「くのりが家族の話をしたこと、なかったなって」
部屋に籠っている間、様々なことを考えていた。
自分のことだけではない。
くのりと過ごした時間、かわした他愛のないやり取り。
どんな表情をしていたのか、必死に思い出していた。
「ひとり暮らしだったなんて、知らなかった」
当たり前と思い込み、知ろうとしなかった事がいくつもあった。
その一つが、くのりの家庭事情。
はぐらかされていたというより、家族の話題そのものを避けていた。
住んでいる場所も、おおよそしか教えて貰ってはいなかった。
くのりと会うのは学校か、モールがほとんど。
想い出の大半が、そのどちらかにある。
「ホント、なんにも知らなかったんだなぁ」
どんな気持ちでくのりが過ごしていたのかはわからない。
思い出せる表情に、違和感を覚えたことはなかった。
どれも自然で、どこにでもあるような笑顔。
だからこそ、その記憶とこの部屋が結びつかない。
殺風景よりも、なお寂しい。
孤独を詰め込んだような部屋だと、龍二の目には映る。
「なんで、ここに?」
壁に背中を預けたまま、うてなは疑問を投げかける。
「……見ておきかったんだ。くのりが生活していた場所を」
なにかがわかるかもしれない。少しでも知れるかもしれないと、そう思って。
だが、わかった事はない。
知らなかったという事を、より強く再認識しただけだ。
「あんなことがあっても、まだ好きなの?」
うてなの口調に、茶化すようなものはない。嘲りも、呆れもない。
ただ事実を確認するような、淡々とした言葉だった。
「……うん」
龍二は困ったような笑顔で、それに答える。
裏切られたとも、欺かれたとも思っていない。
純粋な哀しみと、行き場をなくした熱が今も残っている。
「毎晩、夢を見てた。あの夜の、あの瞬間の夢を……」
うてなに無謀としかいえない戦いを挑み続けるくのりの姿。
そして、銃声と共に夜の海へと消える姿を。
「何度も目が覚めるんだ」
夢の中で叫ぶ自分の声が聞こえて、目が覚める。
そんな毎日が、ずっと続いていた。
けど、昨日はそれがなかった。
あの夢を見ずに朝まで眠れたのは、初めてだ。
だからかもしれない。
今日、この部屋に入る勇気が持てたのは。
「ありがとう」
唐突に言われたお礼に、うてなはそっぽを向く。
恥ずかしかったのではない。
彼が毎晩夢にうなされ、何度も目を覚ましている事は知っていたからだ。
最初の数日こそ睡眠時も変わらず監視していたが、それ以降は人工知能に夜は任せている。目覚めてから内容をざっと確認するのが、うてなの役割だった。
龍二が寝言で彼女の名前を呼んでいるのは、何度も確認している。
夜中に目覚めて、トイレで吐いていたのも知っている。
悲しみに呑まれそうな龍二の姿を誰よりも見ていたのは、うてなだった。
だから、だろう。
この場所に来ることを、最終的には認めてしまった。
なにもあるわけがない、死者の部屋に。
「とりあえず、気が済んだら言って。私はゲームでもしてるから」
そう言ってうてなは、携帯端末を取り出す。
「あ、あと一応、あんまり窓際には立たないでね。狙撃されたら困る」
「え? あ、うん」
物騒な忠告をついでのようにされた龍二は、そっと窓際から離れる。
本当にゲームをやり始めたうてなは、話しかけるなというオーラを漂わせていた。
気まずい空気から逃れるように、龍二はキッチンへと向かう。
いくつかの食器と、調理器具がある。とは言え、十分とは言い難い。とても自炊をしていたようには思えない。
冷蔵庫の中も確認してみるが、ミネラルウォーターのボトルがあるだけだ。
くのりがどんな生活をしていたのか推測できるようなものは、やはり見当たらない。
「ん? これって……」
キッチンの隅に、それは置いてあった。
無色透明のような部屋を、唯一彩る二つの箱。
場違いなほど、どこにでもありそうなそれは、弁当箱だ。
使った形跡はなく、新品に見える。いつ頃からあるのかはわからないが、少し埃をかぶっていた。
「なにか見つけた?」
龍二の声に立ち上がったうてなが、キッチン越しに顔を覗かせる。
「これ」
「弁当箱? ってか、なんで二つ?」
「……そう言えば」
龍二は思い出し、口元を綻ばせる。
あれは確か、一年ほど前のことだった。
学食もコンビニも飽きたと愚痴るくのりに、冗談半分で弁当を作ってみればいいと話したことがある。
失敗する自信があると自嘲するくのりに、やってみなければわからないと無責任なことを言った。
それに対する答えは、『毒見役はお前だぞ』という売り言葉だった。
食べられそうな物ができあがったら考えるよ、と龍二は笑って答えた。
結局、毒見役としての出番はないままだった。
もしかしたらあの時、用意したものなのかもしれない。
「ひとりでニヤニヤするの、やめてくんない?」
「ごめん。これは多分――」
「いや、話さなくていいから。興味ないし」
「……そっか」
言葉ほどの冷たさを感じさせず、うてなはまた壁に背を預けて座り込む。
弁当箱を元の場所へ戻し、龍二は熱を宿し始めた身体を鎮めるように、ソファへと向かった。
残り香のようなものは、もう感じられない。
ただ、この場所にくのりが座り、同じ景色を見ていたのだと思うと、妙な感覚に襲われる。
それがなんなのかを考えながら、夕暮れ時までくのりの部屋に留まった。
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