第1章 第4話 サヨナラbetrayer その1

 ゆっくりと、泥沼から這い出るように意識が浮上する。

「…………また、か」

 目覚めてすぐ、椅子に縛り付けられているのだと理解し、ため息を吐く。

 これで四度目。

 違いと言えば、今度は椅子の背もたれに両腕を回した状態で縛られているという事だ。

 薄暗い部屋の様子に目を凝らす。

 時折、思い出したように明滅する照明が照らす部屋は、寂れた工場の一室だった。

 使わなくなった機材などが押し込められている事から、物置として使用されている場所かもしれない。

 微かに雨音と強い風の音が聞こえるが、隙間風が吹き込むという事はない。廃墟というわけではなさそうだ。

 一通り部屋の様子を眺めた龍二は、深いため息と共にうな垂れる。

 嫌になるほど、記憶は鮮明だった。

 気を失う前に見た光景が、瞼の裏に浮かぶ。

 銃で撃たれ、血の海に倒れるうてな。

 そして――。

「目、覚めた?」

 音もなく部屋に入って来た彼女は、まるで挨拶でも交わすように声をかけてくる。

 顔を上げた龍二は、いつも通りすぎるその様子に戸惑いながらも、掠れた声でその名を呼ぶ。

「……くのり」

 落ち着いて考える時間すら与えてもらえず、信じたくはない事実を突きつけられる。

 見間違うはずはない。

 神無城うてなを銃撃し、龍二を誘拐した張本人。

 それは、逢沢くのりだった。

「想定より少し早いな……どれ」

 見慣れた制服に身を包んだくのりは、手にしていた大きめの鞄を足元に置き、椅子に縛られている龍二の頬に手を添え、顔を覗き込む。

「ちょっ、な、なに?」

「黙ってて」

 顔を背けようとする龍二の顔を両手で挟み、後遺症がないかと調べ始める。

 ここに連れて来る際、薬で眠らせたからだろう。

 網膜を調べ、体温と脈も測る。

「許容範囲かな、うん」

 問題なしと見たくのりはそう言って頷き、しかし龍二の顔は固定したまま、真っ直ぐに見つめる。

 その視線にどんな感情を読み取ればいいのかわからず、龍二はただ息を呑む。

 こんな状況でもなお、くのりを直視すると鼓動が速くなっていた。

「…………」

 くのりは何も言わず、波のない水面のような視線で、龍二を見つめる。

 それを受ける龍二の瞳は、様々な感情が入り乱れ、激しく揺れる。

 およそ数秒の出来事だったが、龍二にはそれ以上に感じられた。

 離れる瞬間、僅かに笑みを見せて、くのりは足元の鞄を取って近くの机へ向かった。

 龍二に背を向ける格好で、机の上に鞄を置いて開く。

「状況は、なんとなく察してるでしょ?」

 鞄の中から何かを取り出し、机に並べながらくのりは話しかける。

「……わかんないよ、こんなの」

 弱々しく絞り出された龍二の声が、くのりの背中にぎりぎり届く。

「信じたくない、って感じ?」

「訊かないでよ、そんな事……」

 くのりの声も雰囲気も、教室で話すときとなんら変わりはない。

 いつも通りすぎるその声が、龍二には悲しく聞こえる。

 心地良く聞いていられた透き通るようなくのりの声が、痛みを伴って龍二の胸を締め付けた。

「じゃあ、私が答えるから。龍二が質問して。いっぱいあるでしょ、訊きたい事」

 取り出した荷物を一通り机に並べ終えたくのりは、そう言って振り返る。

 揺らぐ事のないくのりの視線に、龍二は俯いて考える。

 何から訊けばいいのか、わからない。

 そもそも、何を知っていて何を知らないのかすらも、わからなくなっていた。

 脳裏に浮かぶのは、あの瞬間。

 くのりがうてなを撃ち、振り向いた龍二と目が合った時に言った言葉。

「説明は後でするから、黙って私と来て。でなければ……」

 そう言ってくのりは、銃口を倒れているうてなに向けた。

 従わなければ撃つと、龍二が知らない冷めた目が物語っていた。

 血の海に倒れているうてなと、一瞬だけ目が合った。

 龍二は何も言えず、呆然とした表情で頷いた。

 それを見たくのりがどんな表情をしたのか、龍二は覚えていない。

 混乱の極みに陥った龍二の視界は歪み、すぐに眠気が襲ってきたからだ。

 流れるような動作でくのりに薬を打たれたのだと、今ならわかる。

 あの瞬間を思い出しただけで、体温が下がる。

信じていた日常が、あの銃声と共に砕け散ってしまったような感覚だった。

「くのり、君は……」

 続けるべき言葉を探し、視線を彷徨わせる。

「……どうして、あんな事をしたんだ?」

 結局、一番訊きたい事を龍二は避けた。

 くのりはそれに気づいて口元を緩めた。

 わざわざ指摘はせず、つい一時間ほど前に銃を握っていた手のひらを見て、龍二の質問に答える。

「最大の障害を、確実に排除するため、かな。あの子、神無城うてなを無力化するには、あれくらいやらないといけなかったの。知ってるでしょ、あの子が常人離れしてるって」

 軽い口調で言いながら、スカートのポケットから端末を取り出し、机に置く。

 まるでうてなの事を知っているかのように話すくのりに、龍二は目を伏せる。

 質問を続けるなら、どうしても避けては通れないのだと、否が応でもわかってしまう。

 覚悟を、決めなくてはいけない。

「……君は、何者なの?」

 苦悶に満ちた声で、龍二は問う。

「逢沢くのり、だよ」

「そうじゃ、ないだろ……違う、答えてよ」

 はぐらかされたと感じた龍二は、首を振って顔を上げる。

 悲しげに揺れた瞳が、それでも真っ直ぐにくのりを見つめていた。

「違わない。私は、逢沢くのり……逢沢くのり、なんだよ」

 同じように繰り返し答えるくのりの声が、微かに震える。

 龍二を見つめ返す瞳は、切なさに濡れていた。

 はぐらかしているのでも、誤魔化しているのでもない。

 くのりにとってその答えがどういう意味を持つのかはわからないが、それだけは龍二にもわかった。

「知ってるよ。逢沢くのり……一年の時からクラスメイトで、僕の友達で……」

 特別な人だ、と口に出す事はできなかった。

「もしかして君も、彼女たちと同じようにエージェント、なの?」

 会った事がないはずのうてなの名前を、それもフルネームを知っている事から、龍二はそう推察した。

 くのりはただ静かに、一度だけ頷く。

 そうか、と龍二も頷き、深く、長い時間をかけて息を吐き出す。

「なんて言えばいいんだろ……よく、わからないな」

 そう言って顔を上げた龍二は、自嘲気味に笑みを浮かべていた。

 悲しさを通り越したような、そんな脱力した表情に、くのりは針で刺されるような感覚に襲われる。

「君の任務は、なんだったのかな?」

「龍二の監視。だからまぁ、エージェントって言うより、潜入工作員……龍二が好きな映画とかドラマ風に言えば、スパイってところかな」

「スパイかぁ。この国にもいるんだ」

「どこにだっているって。みんな、知らないだけ」

 互いに話す態度は、普段教室で話している時と同じだ。

 それが余計、苦しさを生んでいた。

「話しながら準備、してもいい?」

「うん」

「ありがと」

 頷く龍二に礼を言うと、くのりは制服のリボンを外し、シャツのボタンに手を掛ける。

「って、なんの準備してるの⁉」

「なんのって、迎え撃つ準備。もうじきここに来るだろうし」

 誰が、とは言わなかった。

 この状況で来る人物と言えば、深月とうてなしかいない。

 龍二はハッとして縛られた腕に意識を向ける。だが、そこに腕時計はない。

「携帯も時計も別の場所に送っておいたけど、時間稼ぎにはならないかな」

「それじゃあ、僕の居場所なんてわかるわけ――」

「わかっちゃうんだよねぇ、これが」

 おどけた口調で言いながら、忌々しげに鼻を鳴らす。

「だからま、戦闘準備は必要なの」

「だだ、だからさぁ! なんで脱ぐの!」

 シャツのボタンを全て外した事で、色白の肌と下着が見えていた。

 龍二は勢いよく顔を横に向けるが、一瞬だけ見えてしまったその光景に顔が熱くなっていた。

 初心な反応を見せてくれる龍二に、くのりは頬を緩める。

 正体を明かしてなお、そう反応してくれる事に喜びすら覚えていた。

「別に見てても構わないのに。なんだろ……誘拐したお詫び? みたいなつもりでさ」

「そ、そんなお詫びいらないよ! なに言ってるのさ」

「健全な男子のくせに、やせ我慢するんだ?」

「やせ我慢なんてしてない」

「またまたぁ。さっきだってスカートがどうとか言ってましたよねー?」

 二人で捕まっていた時の事を持ち出し、くのりは龍二が顔を背けた方向に移動する。

「それに前もさ、見た事あるじゃん。私、覚えてるよ? あの時の龍二の顔」

「だ、だからぁ! なんでわざわざ見せつけてくるのさ!」

「だからお詫びだってば。こんな機会、もうないかもよ?」

「誘拐されて着替えを見せつけられる機会とか、そうそうあってたまるか!」

「ハハっ、確かに」

 すっかりいつもの調子を取り戻しつつある龍二の頬を軽く突き、くのりは机の前に戻っていく。

 その途中で、スカートをはらりと足元に落として行った。

「あ、あぁもう……」

 視界の端に落ちたスカートを見て、龍二はますます赤面する。

 くのりはくつくつと笑い、シャツを脱いで放り投げる。

 龍二の頭を狙って放られたシャツは、見事に彼の顔を覆った。

「ちょっ、くのっ、くのりっ!」

「うん?」

「うん、じゃなくて。こ、これじゃあ何も見えないじゃないか」

「見なくていいんでしょ? だったら問題ないと思いますけど?」

「そ、そういう意味じゃなくて……ホント、なんなのさ」

 シャツを頭から被ってうな垂れる龍二は、呼吸をする事すら躊躇っていた。

 彼女の身体を直前まで包んでいたシャツは、まるでくのりに抱き締められているような錯覚を覚えさせる。

 甘い匂いが纏わりつき、頭がくらくらしそうだった。

「存分に堪能してていいよ。さすがにね、私も裸を見られるのは恥ずかしいから」

「もっと前の段階から恥ずかしがってよ……」

 楽しげに聞こえてくるくのりの声に、龍二はため息を吐く。

「そもそもの話、最初から別の部屋で着替えてくればいいじゃないか」

「そこはほら、龍二をからかいたくて」

「……からかう方法が全力すぎるよ」

 龍二は脱力して椅子に背中を預ける。

 何もかもが冗談で、悪趣味な悪戯だったらどれほど良かったか。

 先週から続く出来事が全て、嘘だったらと思わずにはいられない。

「それじゃ、話の続き、しよっか」

 靴とソックスを脱ぎ、下着に手を掛けたくのりが話を戻す。

「もうすぐ、龍二を助けにあの二人が来る。今度は装備もきっちり揃えて、ね」

「装備……」

 言われて龍二は思い出す。

 最初の夜、助けに来てくれた二人は、黒いボディスーツを身にまとっていた。どのような効果があるのかはわからないが、あれがそうなのだろう。

「単純な戦力で言えば、一対二。正直、相手が久良屋深月一人なら勝算は十分あるの。自慢するわけじゃないけど、私って結構強いから。ホント、自慢じゃないけど」

 さも得意げに語っているが、くのりの表情は笑っていなかった。

 微妙な声の感じから、龍二もそれをなんとなく察する。

「相手が二人でも、久良屋二人分だったらやり方次第でなんとでもなるんだ。でも、あの子がいるとそう上手くはいかなくてね」

「あの子って、うてなのこと?」

「そ。神無城うてな。ホント、あれが厄介すぎる」

 脱いだ下着を机に置き、一糸まとわぬ姿になったくのりは、汗拭き用のシートで身体を清めていく。

 大人しくうな垂れている龍二に視線を向け、覗く素振りを見せない事に苦笑した。

 視界を塞いでいるシャツを取ったら、どんな反応をしてくれるだろうかと、邪な考えが浮かぶが、実行には移さない。

「龍二も知ってるでしょ? 普通じゃないのよ、神無城うてなは」

「……あぁ」

 頷いた龍二は、これまでに見たうてなの戦闘を思い出す。

 深月も常人離れした身体能力を持っているが、うてなはそれを数段凌駕している。

 あの強さは、ただ身体能力が凄いというだけではないように思えた。

 走っている車を飛び蹴りで止める事など、普通ならできるはずがない。

 なにか、理由があるはずだ。

「私も正確な情報を全て知ってるわけじゃないけどね。神無城うてなの情報は、組織の中でも最高機密扱いだから。それでもま、噂や何やらは入ってくるものでね。どれだけ高潔を気取った組織だって、結局は人間の集まりって事」

 たっぷりと皮肉を込めて、くのりはそう吐き捨てる。鬱積した暗い感情が、そこには含まれていた。

「神無城うてなの事、知りたい?」

「ぼ、僕は、別に……」

 興味がないと言えば嘘になるが、積極的に秘密を知りたいとは思わなかった。

「まぁ、龍二はそういうタイプだよね。知ってたけど」

 くのりは予想通りだと笑みを浮かべ、清め終えたその身に、一体型になっている漆黒のボディスーツを装着し始める。

 まずは両足を通してから、両腕を差し込んで羽織るように着込む。

 次に特製のブーツを履き、確かめるように踵を鳴らして、金具を止める。

 後は開いたままの股の部分から胸元を閉じるだけだ。

 しかしくのりはすぐには閉じず、脱ぎ捨てたスカートを拾い上げ、次いで龍二の頭を覆うシャツを手に取った。

 視界が開けた龍二は、当然着替えが終わったものだと思い込んでいた。

「ふぅ……やっと終わって――ないし! 開いてる、前!」

 いきなり視界に飛び込んできたくのりの柔肌に、悲鳴のような声を上げる。

 胸の谷間はもちろん、下腹部のかなり際どいところまで見えてしまっていた。

「いや、着替え終わったとか、一言も言ってないんですけど? 勝手に見ないでくれますかー?」

「か、勝手に見せないでくれますか⁉」

 きつく目を閉じ、龍二は正当な抗議をする。

 完全にペースを握られていた。

 心底楽しげな表情で、スーツの前をゆっくりと閉じる。

 そして回収した制服と下着を鞄に詰め込み始めた。

「異邦人」

「え? い、異邦人って、なに?」

 くのりの言葉に龍二は目を開き、可能な限り危うい部分に目が行かないようにする。

 これでもかとボディラインを強調する姿は、容易く龍二の心をかき乱してしまう。

「神無城うてなを示す組織での通り名」

「通り名? えっと、異邦人って、どういう意味?」

「なんて言えばいいのかなぁ。今の組織の在り様を決定づけたキーパーソンらしいんだけど。さすがに私もね、全部を知ってるわけじゃないんだよね。そもそも、あの二人とは指揮系統が違うし」

「なんか、聞いても僕には理解できそうにない気がしてきた」

「だろうねー。ま、そこは知るべき時がくれば知る事になるんじゃないかな」

「まるで僕に関係があるような言い方に聞こえるんだけど……?」

 龍二の言葉に、くのりは答えなかった。

 龍二も龍二で、追及するのを躊躇う気持ちがあった。

「とにかく、神無城うてなに私たちの常識は通じないって事。だから散々回りくどい事をしたってわけ」

 くのりは肩を竦めながら、両手にグローブを装着して確かめ、満足げに頷くとそれを外してポケットにしまう。

 エージェントの名に相応しい姿になっていく様子を、龍二は複雑な気持ちで見ていた。

 その姿を見てもまだ、どこか信じられない気持ちが残っている。

 だが、今くのりが言った、回りくどい事が何を指すのかがわかってしまう。

「これまでの事は全部、うてなを倒すためだったの?」

「うん。全部、そう」

 否定して欲しいと願う龍二の思いを、くのりはきっぱりと断つ。

「あの状況を作り出すために、あの子を利用した。依頼主は、私。もちろん、あの子は私が依頼主だなんて知らないけど」

 はっきりと告げるくのりの目に、迷いや後悔はなかった。

「龍二を誘拐する上で、一番の障害は神無城うてな。彼女の戦闘能力、特に足を奪うのが目的だったの」

 だから隙ができる状況とタイミングを作り上げて銃撃したのだと、くのりは言う。

 平然としているが、できれば龍二には見せたくなかったというのが、彼女の本音だ。

 スナイパーで狙撃という方法も考えたが、この国でそれを実行するのは現実的ではなかった。

 少なくとも、彼女にそれを用意できるだけの力はない。

 どちらにせよ、最後はこうして正体を明かすのだからと、くのりは割り切って龍二の目の前で実行したのだ。

「だからってあんな……も、もし死んじゃったらどうするつもりなのさ?」

「あの程度の怪我じゃ死なないよ、神無城うてなは」

「でも、血がたくさん流れてたし……」

「それでも、死なない。しばらくは……少なくとも、今日はもう戦えないだろうけど」

 それこそが狙いだと、くのりは言い切る。

 たった一日でいい。

 うてなが戦えない状況を作りさえすれば、勝機が見えるのだと。

「わからないよ……くのり、なんでさ」

 龍二がこぼしたのは、問いかけではなかった。

「君が僕を誘拐する理由なんて、どこにもないじゃないか……」

 こんな事をしてまで、と続く声は掠れて消えてしまう。

 ほんのひと時、まるで普段通りの会話ができてしまった。

 それが余計、龍二の心に重く圧し掛かる。

「誰かに脅されてるの? もしそうなら――」

「私の意思だよ。全部、私が決めた事」

「そん、な……僕を誘拐して、何になるのさ? 何が目的なの?」

 拘束されている事すら忘れて立ち上がろうとする龍二の肩を、くのりが手で押さえる。

 そしてそのまま、向かい合う格好で龍二に跨った。

 今度はもう、龍二もうろたえたりはしなかった。

 くのりの視線を、目を逸らさずに正面から受け止める。

 知る覚悟ができているとは、まだ言えない。

 だが、知らなければいけないのだという事はわかっていた。

 龍二の意思を双眸から感じ取ったくのりは、簡潔に答える。

「知って欲しかったの」

「君の、正体を……?」

「まさか。隠し通せるものなら、そうしたかったよ」

 本当に、とくのりは一瞬だけ目を細める。後悔の残滓が、微かな吐息となって漏れた。

「知って欲しかったのは、龍二の事」

「僕の事?」

「そう。あなたは特別なの。組織にとって、ね」

「い、意味が、わからない。僕はただの高校生だよ? 組織なんて知らないし、特別なところなんて……居候してるとか、その程度だよ」

「それはあなたが自分の事を知らないから。ねぇ、どれくらい自分の事、知ってる?」

「僕は……」

 ――僕だ。

 そう言おうとして、龍二は言葉に詰まる。

 何かが引っかかったわけではない。

 だが、言葉が出て来なかった。

 自分でもわからず、それが怖くなる。

「……ね? あなたは、知らないの」

 血の気が引いた龍二の頬に、くのりは手を添える。

 凍えるような感覚に襲われた龍二にとって、手のひらから伝わるくのりの体温が拠り所のように思える。

「あの子が持ってた写真、見たでしょ?」

「あ、あぁ……僕に似てたけど、あんなの知らないよ」

「うん。あれは龍二の写真じゃないから、知らなくて当たり前」

「じゃ、じゃあやっぱり人違いって事じゃ――」

「あの写真は、ね。でも、あなたが特別だって事に変わりはない。あなたが特別だから、私は学生に紛れて監視していたの。一年の時から、ずっと、ね」

 くのりはそう言って、もう手の届かない遠い日に想いを馳せる。

「……覚えてる? 二年前の今頃って、まだ私たち、会話もろくにした事なかったよね」

「覚えてるよ。あの頃はなんか、近寄りがたい雰囲気だった」

「だろうね。そういうスタンスで行こうって思ってたから」

 入学してからしばらくの間、くのりはあまりクラスメイトと関わろうとはしていなかった。話しかけられれば答えるし、不愛想だったわけではない。

 だが、くのりの方から誰かに話しかけたりという事は、龍二の知る限りなかったように思う。

 人目を惹く容姿を持ちながら、なぜかクラスではあまり目立たない。ミステリアスとも言える存在だった。

 しかし、龍二の視界には、きちんとくのりが写っていた。

 初めて会った時から、ふと目で追ってしまう存在だった。

 ――六月の、雨が強い日。

 傘も差さずに歩いていた姿は、遠目にしか見えなかったが、今でも鮮明に思い出せる。

 あれからだろう。以前にも増して、くのりの姿を目で追ってしまうようになったのは。

「話すようになったのは、夏休みが明けてからだったね」

「僕が文化祭の実行委員で、くのりが手伝ってくれた。全然仕事してくれない、女子の実行委員の代わりに」

 ほとんどの生徒が部活に入るあの学校では、帰宅部の生徒が学校行事の実行委員になる事が多い。

 帰宅部だった龍二は、当然のように文化祭実行委員を押し付けられた。

 くのりも条件は同じだったはずだが、実行委員には選ばれなかった。

 夕暮れの教室。

 クラスの出し物で使う看板を、龍二は一人で作っていた。

 慣れない作業ばかりで四苦八苦する龍二の前に、くのりは現れた。

『手伝おっか?』

 顔を上げた龍二に、くのりはそう言った。

 腰に手を当て、少し困ったような笑みを浮かべて。

「ホント、あれが失敗だった。監視対象とは極力関わらないようにって決めてたのにさ」

「じゃあ、なんで?」

「だって、バカみたいでしょ? みんな真面目にやってないのに、龍二だけコツコツ作業しててさぁ。なんか、イラっとするじゃん?」

 数ヶ月、学生としてすごした時間がくのりに変化をもたらした。

 それはほんの僅かで、道端の小石が転がった程度の変化だったが、決定的に何かを変えてしまった。

「おかげで間に合ったんだよね、あの看板。僕一人じゃ、無理だった。本当にあの時は助かったよ」

「今だから言うけど、正直、できはあんまり良くなかったよね、あれ」

「ああいうのは苦手なんだよ、僕」

 たとえ不格好であろうと、完成した時の達成感はひとしおだった。

「ま、私もさ、楽しかったんだよね。ホント、大した事じゃないのに」

 まるで本当の学生になったような感覚だったと、くのりは思う。

 生まれてからずっと、特異な世界で生きてきた。

 物心ついた時から、訓練と、命令に従い、任務を遂行する事だけが全てだった。

 そんなくのりにとって、龍二と過ごした夕暮れの時間は特別だった。

 くのりという存在に与えた影響は、他人には想像もできないほど大きなものだ。

「手伝ってくれたお礼にって、龍二が買って来てくれたんだよね」

 ストロベリーミルクのジュース、と二人の声が重なる。

「なんでそれ? って私、本当にびっくりしてさぁ」

「だって、よく飲んでたから。好きなんだろうなって。間違ってなかったよね?」

「……うん、好き。そう……好き、だったんだぁ」

 それがくのりという少女の歯車を狂わせた瞬間だったと、龍二は知らない。

 監視対象である龍二をずっと見ていた。

 特別なところなど一つもない。面白みも、そんなにない。

 何をやってもほどほどで、むしろどこか冴えない感じさえする。

 まともに話をしたのは、看板作りを手伝うほんの僅かな時間。

 不格好ながらも看板が完成した時に龍二が見せた、屈託のない笑顔。

 その笑顔が、くのりの目と胸に、強く焼き付いた。

 けれど、くのりは知らなかった。

 その瞬間に鼓動と共に刻まれた感情を、なんと呼ぶのか。

 任務が全てだった少女に芽生えた自我と、揺るぎない感情。

 ストロベリーミルクの味が教えてくれた。

 ――その感情が、恋なのだと。

 そう気づいたくのりは、笑った。

 生まれて初めて、心の底から、少女のように笑った。

 あの瞬間を忘れられないのは、龍二も同じだった。

 自覚するのはまだ先だったが、どの瞬間がそうなのかと言えば、間違いなくくのりが初めて笑ったその時だろう。

 くのりが笑う声が、高鳴る鼓動を更に打ち、響かせた。

「私はさ、龍二に恋、しちゃったんだよ」

 その言葉は、龍二の唇に重なり、確かな感触と共に伝わった。

 正面から跨ったまま、頬に手を添えてキスをする。

 驚いて固まる龍二にも構わず、ただ重ねるだけの、静かな口づけだった。

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