第五話 願い




 暗く静謐をたたえる森の中に二つの足音が響いていた。

 一つは、大地を踏みしめるような大きく逞しい足音。

 もう一つは、パタパタと小さな動物が歩いているような軽やかで可愛らしい足音。


「少し休もうか」

「え、ここで⋯⋯ですか」

「もちろん」


 しばらく逞しい足音を鳴らしていたレイニスは、振り向くようにして立ち止まると、その後に倣って小さな足音を立てていた少女に声を掛けた。

 唐突な休憩宣言に素っ頓狂な声を上げた少女へ、実に簡素な答えを返したレイニスは人知れず回収していた自身のポーチに手を入れた。

 そして、その中身をガサゴソと漁りに漁ってから、急にその手を止めた。

 いや、手だけではない。

 レイニスの全身が、動きを止めていた。


「? どうしたんですか?」


 突然の奇行に思わず小首を傾げる少女。

 まるで、水の中から抜き出しているかのように、ゆっくりとポーチから手を抜き出したレイニスは恐る恐るといった様子で中を覗き込んだ。

 それからじっくりと舐め回すような視線を約二分程。

 やがて、壊れた玩具みたいに持ち上げられたレイニスの顔からは、何故か生気の色が失せていた。


「敷物代わりの布⋯⋯どっかに忘れちった」

「えぇ⋯⋯」


 まさに上げてから落とす。

 外道の基本的な技術ともされているそれを、レイニスは見事に、そして、鮮やかに実践してみせた。

 そんなレイニスへ少女の落胆やらほのかな怒りやらの入り混じった非難がましい視線が襲う。


「⋯⋯待ってくれ。今代わりの物出すから」


 少女から逃げるように瞳を逸らしたレイニス。

 そして、仕方がないとでも言いたげにため息を吐くとーー着ていたコートを脱ぎ始めた。


「え、えっ、えっ!?」


 まさか自分のコートを敷物代わりに使うとは想像すらしていなかった。

 思わず目を白黒させた少女は、両手を広げながら慌ててレイニスに話しかけた。


「そ、そこまではしなくても! 服汚れちゃいますよ!?」


 おまけに「寒いのに」と尻すぼみになった言葉が付け足される。

 だが、そんな優しい言葉のほとんどを聞き流したレイニスはコートをそのまま地べたの上に敷いてから、今度は手頃な場所にあった木の枝を手折り始めた。


「あ、適当に座ってていいから」

「は、はあ、わかりました⋯⋯」


 大事なはずのコートは汚れ、厚みの弱い服は寒さをしのぐことすらできていないだろう。

 それでも全く強がっている素振りのない平然としたレイニスの姿に、小さくない申し訳なさを抱いた少女は躊躇いがちに返事を返してから、ゆっくりとコートの上に腰を下ろした。


(あ、ちょっと冷たい⋯⋯)


 きっと降り掛かった雪が溶けて染み込んだのだろう。

 つん、と冷たい感触が服を挟んで座っている少女の下半身から伝わってくる。

 そういったことも全て見越していたのか、レイニスは適当に枝を集め終えるとそれらを全部コートからほんの少しだけ離れたところにまとめた。

 そして、ポケットの中に手を入れた。


「お、無事だったか」


 安堵の声が一面に広がる闇の中へ響いていく。

 レイニスがポケットから取り出したのは、手のひらにすっぽりと収まるくらいの小さな箱。

 指先で器用に口を開け、トントンと小突かれて出てきたのは、先端に多量の赤い粉が付着した細い木の棒ーーマッチだった。

 それを右手の人差し指と親指で摘んだレイニスは、低く重ねられた枝の側にしゃがみ込むと箱の側面に棒の先端を添えた。

 そして、チッ、と小さく弾くように擦り付けた。


(あれ、点かない⋯⋯)


 無論、声には出さない。

 だが、レイニスの頰に一滴の雫が流れる。


「あれ、思ったように点かない⋯⋯」


 無論、大声では言わない。

 何度も添え直しては素早く弾くのを四、五回。

 そうしているにも関わらず、マッチは微塵にも火の気を見せようとはしない。

 ついにはレイニスの背中にひんやりとした汗が伝い出した。

 幸いにも、背が壁となっているおかげで少女にはそんなレイニスの情けない姿が見えていない。

 しかし、カッコ悪さから来る気恥ずかしさや、中々火を点けようとしないマッチへの苛立ちなどが入り混じった妙な焦りが棒を持つレイニスの右手を小刻みに震えさせ始めた。


(くそ、あっ、点いた)


 試行回数総計七回。

 ようやくマッチの先端に点火させたレイニスは溜め込んだ息を重く吐き出すと、複雑に入り組んだ枝の中へ火のついたマッチを投げ入れた。

 それから、木の枝を何本か動かして風が通り抜けにくくなるように重ねてから、膝を抱えるようにして座る少女の隣へ勢いよく腰を下ろした。


(大仕事だった)


 そんなことはない。

 だが、自身の不器用さを認めたくないレイニスは、自分にそう言い聞かせるように胸中で呟いた。

 そして、後ろへ引っ張られるかのように倒れこむや否や、大きく両腕を伸ばした。


「あー、疲れたー」


 冷たいそよ風が覆いを失った手足を撫で、湿った冷気が背中をじっくりと広がっていく。


(そういえば、さっきのは⋯⋯)


 夜空は生憎と木々に隠されていて、星一つ見ることすらままならない。

 代わりにさわさわと揺れる葉だけが瞳の中で動いている。

 そんなレイニスの脳裏にふと先の光景が蘇った。


 『霊』や『騒霊』の身体のほとんどを構成しているのは、『霊力』という力だ。

 霊力は『心』から生み出される生きた力。

 それが強くなるのは、感情が大きく揺さぶられた時、あるいはーー



 ーー胸に秘めた『想い』が強くなった時のみ。



(⋯⋯さようなら、か)


 傷ついたモノに、優しく触れる少女。

 『騒霊』を優しい光に包ませてこの世から旅立たせた少女の、その言葉が耳から、いや、耳だけではない。

 頭からも離れない。


(この子はこの子で訳ありか⋯⋯)


 少女の過去に何があったのかは知る由もない。

 知る必要もないだろう。

 そんなことをグルグルと思案しながら、目を閉じようとしたレイニスの耳へ不意にポスン、と何かの落ちる音が聞こえてきた。

 思わず半開きになった目を少しだけ動かして音のした方に向ける。

 すると何故か、後ろに倒れ込んだ少女のまん丸い目とレイニスの視線がピタリと合わさった。


「えへへ、私も疲れちゃいました」

「⋯⋯っふ」


 照れているのか、少しだけ恥ずかしそうにはにかむ少女。

 そんな少女に対して、小さく息を吹き出したレイニスはただ微笑みだけを返すと、再び木々に覆われた天井を見上げた。

 パチパチと寒さを感じさせない音が休む事なく森の中へ響き、小さく弾けた火の粉は華麗に宙を舞っては、空へ溶け込むように消えていく。


「⋯⋯少し、いいかな?」

「っ、はい?」


 距離感が掴めなかったがために流れていた沈黙。

 その奇妙な静けさの中で、先に口を開いたのはレイニスだった。


「俺には、助けたい人がいるんだ。⋯⋯その人には色々と恩があってね」

「⋯⋯」

「だけど、俺の力ではその人を助けることは⋯⋯できなかった」


 レイニスはその時、自分の声が震えていることに気づいた。



 ーーこの子は今、どんな顔してるのやら。



 不意に、そんなどうでも良さそうな考えが頭の中に浮かんだ。

 これはレイニスが勝手に話し始めたことで、少女からすれば唐突に始まった無駄に大きな独り言に聞こえているかもしれない。

 それでも、レイニスは語るのを、止めなかった。

 端より止める、という選択肢はない。


「そこで君にお願いしたいことがあるんだ」


 上体をゆっくりと起こすレイニス。

 なるたけ優しく、それでいて、なるたけ真剣に。

 意を決して横を向いたレイニスは、少女に言いたいこと、この話の核心を伝えようとして、


(っ!)


 思わず声を詰まらせたレイニスは、固唾を飲み込んだ。

 正直、子供とはいえ、こんな与太話を聞いてくれているとは微塵にも考えていなかった。

 しかし、隣にいた少女は、いつの間にか起きて居住まいを正していた。

 そして、



 ーーその玉のような丸い瞳が、レイニスの目を真っ直ぐに射抜いた。



 ドクン、と心臓の鼓動が跳ね上がる。


(言う⋯⋯しかない)


 レイニスは、心の内に小さくない躊躇があった。

 もし、これから話す『願い』を目の前の少女が承諾したとなれば、彼女にあまりにも大きな重荷を負わせることになる。

 だからこそ、レイニスも言葉を選びながら話していた。

 しかし、その綺麗な瞳を目にした瞬間、『騒霊』を浄化する少女の姿が再び脳裏をよぎった。

 どうしてか、心が騒ぎ立つ。

 もう、我慢するのは限界だった。


「どうか⋯⋯その人を助けて欲しい。多分、いや、間違いない。君の力じゃないとその人を助けることはできないんだ。だから⋯⋯『お願い』だ。俺の大切な人を、どうか、助けて欲しい⋯⋯頼む⋯⋯」


 それは、震える声で紡がれた、懺悔のような哀願だった。

 目を閉じて、頭を垂れるレイニス。

 草木の騒ぎ声が嫌なくらいに大きく聞こえる静寂。

 誰一人として口を開かないその時間が長く感じる。

 そんな中、不意にレイニスの膝へポン、と何かが乗せられた。

 小さいながらもほのかに温もりを感じさせる何か。

 花が芽吹くようにゆっくりと目を開ける。

 細く狭められた目。

 ほんの少しボヤけた視界の中でレイニスが見たのはーー枝のように細い指が並んだ小さくも綺麗な手だった。


「えっと、あの、その⋯⋯難しいことはわからないんですけど」


 レイニスの耳へ鈴のような声が入っていく。

 その声色は、穏やかで心の底から暖まりそうな程に優しい。

 そんなことを知ってか知らずか、ただ耳を傾けるレイニスへ少女はやや遠慮がちに、それでいてはっきりと言い放った。


「それが私にできることだったら、やります」

「っ!」


 その時、レイニスは頭を後ろから叩かれたような錯覚に襲われた気がした。

 今でも目の前の少女に対して申し訳ない気持ちが燻っている。

 だから、


「⋯⋯ありがとう」


 目を上げ、もう一度少女の顔を見る。

 そして、少女の視線を押し返すように強く見つめながら口を開いた。


「俺が今、君に頼んだのはとても危ない願いなんだ。だから⋯⋯約束する。君がその人を助けてくれるまで、俺が君のことを『守る』。⋯⋯絶対に、必ず」


 少女の目が僅かに揺らいだように見えた。

 それは本当に少女の目が揺れたのか、それともーー


「約束、ですよ?」

「ああ、約束するよ」


 ただ口先だけで交わした約束。

 勢いを失った火が、残された力までも全うしようと燃え続けている。


「俺の名前はレイニス・アキルダ。君は?」

「私はシエラ・ティンクスと言います。えっと、これからよろしくお願いしますレイニスさん」

「あぁ、よろしく。シエラ」


 まだ夜は明けない。

 それでも二人は互いに顔見合わせて小さく笑い合った。


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