第三話 奮闘
躊躇いは一時だけだった。
足に力を込め、素早く飛び出したレイニスが向かった先は怪物ーーではなく、少女。
「危ない!」
握っていた拳を開き、手を伸ばしたレイニスは唖然とした表情をする少女を抱き寄せると、低い姿勢のままその場を飛び退いた。
そのすぐ後に空を切ったのは、風圧を伴った怪物の剛腕。
間一髪のところで攻撃をかわしたレイニスは地面を転がり、勢いを殺し切ってからゆっくり少女へ覆いかぶさるように立ち上がった。
「ふう、ギリギリだったな。大丈夫か?」
「え、あ、はい」
まだ何が起きたのか理解が追い付いていないのだろう。
想像よりも落ち着いた姿に思わず安堵の息を零したレイニスは、目を白黒させる少女から目を離すと怪物へ鋭く細めた瞳を向けた。
(あれは……成りたて、といったところか)
獣のような小さい唸り声が嫌に聞こえてくる。
弱弱しい月明りに照らされ、薄っすらと浮かび上がった怪物ーー『騒霊』の身体は恐ろしい程に生気を感じさせない青紫色だった。
四肢は丸太という表現が的確なぐらいに肥大化しており、瞳は本当に血が流れているかのように紅くなっている。
危険だ。
腰に装着していたポーチと灯の消えたカンテラを外し、それらを少女の目の前に落としたレイニスは少女を庇うように『騒霊』の眼前へ一歩踏み出すと、身体を低く屈めてから右手を後方へ引いた。
(とりあえず、一発だな)
まるで獲物を見つけた肉食獣のように目を逸らそうとしない大きな怪物ーー『騒霊』。
それをジッと睨みつけていたレイニスは瞬時に右手へ力を込めるや否や、目にも留まらぬ速さで『騒霊』に肉薄した。
その素早さは動揺すらも遅れる程の速度。
しかし、本能が働いたのか、目と鼻の先に現れたレイニスをその目で瞬間的に捉えた『騒霊』は半ば反射的に腕を振り上げると、それを一拍の間も置かずに振り下ろした。
「グオァ!」
「おっと」
ブオン、という重い風切り音を伴った怪物の鉄槌が叫び声と共に大地へと叩き付けられた。
まるで嵐の時に吹く大風のように激しい衝撃。
だが、その一撃を片手でいなすようにかわし、衝撃波を
「グッ!」
抉られるような鋭い痛みが『騒霊』の口から苦痛の声を吐き出させる。
腕から力を抜き、僅かに後方へ一歩退く『騒霊』。
レイニスはそんな『騒霊』に向かって一歩踏み込んだ。
そして、
「ググム!?」
突如、『騒霊』の目に黒く澄んだ夜空が映された。
先程放たれた衝撃波が影響しているのだろう。
天井を覆っていたはずの緑葉は多く散らされ、星々の煌めきに包まれながらも一際大きな存在感を放つ青白い月はその優しい光を『騒霊』達のいる場所へと注いでいる。
ゆっくりと下へ目を落とす『騒霊』。
やがて、小さく開かれた瞳に映ったのは地面に手をつき、片足を後方へ大きく伸ばしたまま身体を低く屈めたレイニスの姿。
そこですぐさま我に返った『騒霊』は、目を大きく開くとその口を大きく広げた。
「グォオオオオオオオオオオオオアァ!」
「っ!」
『騒霊』の口から放たれたのは絶叫とも取れる程に凄まじい怒気が込められた雄叫びだった。
それと同時に大きく横に伸ばされる『騒霊』の剛腕。
耳を塞ぎ、顔をしかめていたレイニスはその行動に反応が追い付かず、つい瞳を大きく開いた。
「グギガアアアアアア!」
(しまっ!)
間に合わない。
怒りの叫びと共に打ち出された巨腕を見て瞬時に判断を下したレイニスは、低く屈んだまま両手を十字に組むと『騒霊』の放った腕へ向き、その衝撃を迷うことなく受け止めた。
「ぐぃ!」
重く強い衝撃が足を大地から引き剥がした。
決して小さくない苦悶の声を零して吹き飛ばされるレイニス。
だが、幸いにも受け止めるものは何もなかった。
空中で身体を大きく、そして、何度も捻らせたレイニスは地面に接するや否や、手足を伸ばし、関節や身体のバネ全てを利用して勢いを相殺してみせた。
「こりゃあ、まずいな……」
口の端から細く、小さな血の川が流れ落ちる。
レイニスはそれを片手で拭い取ると、どこか焦りの色が混じった声で愚痴を零した。
両者の距離は大きく離れている。
それにも関わらず、限界まで目を開いた『騒霊』はレイニスのことを強く凝視している。
肩を激しく上下させながら小さな唸り声を上げているのは、痛みと疲労のためか。
それとも――獲物へ飛び掛かろうとする前触れだろうか。
「っ! おっと」
不意に、身体が揺らいだ。
危うげながらもすぐに体勢を持ち直したレイニスは、その顔に苦い笑顔を浮かべると共に頬へ一筋の汗を伝わせた。
(想像以上に効いてるな、こりゃ)
左足が震えている。
おそらく、『騒霊』から受けた一撃が足にダメージを与えたのだろう。
そのことに遅れて気づいたレイニスは左手を握り締め、握り締めた拳から中指だけを小さく突き出した。
そして、軽く左腕を上げるとそれを左足の太ももに向かって素早く、それでいて力強く突き立てた。
「くっ」
感覚が消え去ると共に震えが止まった左足。
動きの鈍くなった左足が、レイニスへ重さのある異物をぶら下げているような違和感を抱かせる。
(……使うしかないかな)
できれば人前では使いたくなかった。
木の陰から頭だけを出している少女の姿を視界の端で捉えつつ、自分自身へそう言い聞かせるように内心で呟いたレイニスは、視線を前に戻して『騒霊』の深紅色の瞳を静かに見据えた。
肩を大きく、荒く上下させる『騒霊』の手が固い握り拳を作っていた。
(しゃーない。やるか)
時間もなければ、余裕も、ない。
フッと小さく息を吐き出したレイニスは、右手を肩の位置までおもむろに持ち上げると、怒りに染まった『騒霊』の顔を見つめながらゆっくり手のひらを上に返した。
それからレイニスと『騒霊』の両者の間へ訪れたのは全くの沈黙だった。
互いに視線を交わしながらも動きを見せない二人。
荒い息遣いの音だけがその静寂へと沁み込んでいく。
そんな時間が悠久に続く、ことはなかった。
「グルグォ!」
二人の間を支配していた沈黙。
それを引き裂いたのはーー『騒霊』だった。
元より狂暴化した『霊』である『騒霊』に理性などといったものは端から存在しない。
故に、『騒霊』がただの沈黙にしびれを切らすのは至極当然のことだった。
「グガァアアアア!」
自身を鼓舞するように大声を張り上げた『騒霊』。
それからすぐに身を屈めた、と思いきや、今度はその巨体からは想像もできないような速度で飛び出した。
向かう先にいるのはレイニスただ一人。
遠くに離れていた標的との距離がみるみるうちに縮められていく。
やがて、両者の距離がなくなり、『騒霊』がレイニスを捉えた。
「ググア!」
躊躇いも、逡巡もない。
固く、そして、強く握り締めた拳を後方へ引き絞る『騒霊』。
それをレイニスに向かって撃ち抜く――その時だった。
「霊威、解放」
猛る『騒霊』の聴覚が突如として捉えたのは、焦燥も疲労もない、ひどく穏やかな声だった。
その声は、さらに言葉を紡いだ。
--『ヨワサハツミダ』
変化は、すぐに起きた。
レイニスの右手が不意に白く淡い光によって包まれた。
それから、小さく開かれた手のひらに何の前触れもなく現れたのは、一枚のカードだった。
「……!」
描かれていたのは、雄々しいライオンの口を両手でこじ開ける質素な恰好をした女性の絵。
横目で、それも一瞬で、その絵柄を確認したレイニスは小さく口角を歪めると、そのカードをくしゃりと握り潰したのだった。
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