第二話
「今日は早く帰って来るでしょ?」
「ん? 何かあったっけ?」
制服の袖に手を通しながら聞いてくる娘に、彼は首を傾げた。
「もう、お父さんてば、自分の誕生日も忘れたの?」
「あ、そうか。いくつになったんだっけなぁ」
「四十二。厄年だよ。お祓いして貰った方が良くない?」
お喋りしながらでも動きが全く止まらない。こんなところは母そっくりだ。最近では顔も生き写しになって来て、恐怖すら感じるほどだ。
「私がそういう非科学的なことを信じると思うかい」
「思わない。じゃ、あたしもう行くから、戸締りちゃんとしてね。行ってきまーす」
バタバタと出て行く娘を見送って、彼は朝食の後片付けをする。
小学生までは彼が朝食の準備から後片付けまで全部やっていたが、中学生になったら娘が作ってくれるようになった。お弁当の分もまとめて作るから、お弁当を詰め終わってから残った分を朝ご飯にする。そして彼女が出て行ってからゆっくりと後片付けをする。
彼女の作るメニューは塩分控えめだ。四十代に入った父への気遣いなのだろう。こういうところは母親そっくりだ。彼女も健康志向で、食事の内容にはうるさかった。
成長していくにつれ年々母親の面影が濃くなって行く娘に、彼はなんとも言えない気持ちになる。未だ衰えぬ恋慕の想いと、自分の犯した罪への懺悔の想いが交錯し、息苦しささえ感じるのだ。
自分の選んだ道だ、後悔しても始まらない。自分に与えられた使命を全うするのみ。他に取り柄のない男だ、必要としてくれるところがあるだけマシだ。
彼は一つ深呼吸すると車のキーを掴んで外へ出た。
歩くのもやっとというフラフラの
「お父さん、お帰り」
「ただいま」
こんなふうに玄関まで迎えに来ることなどほとんどないのだが一体何があったのだろうかと訝しんでいると、娘が反論を許さない調子でまくし立てた。
「あのね、ケーキ、チョコレートクリームのにしたの。いいでしょ?」
そうだ、今日は誕生日だった。四十二回目の。厄年の。
テーブルには娘の好きそうなものが並んでいる。フライドポテト、鳥の唐揚げ、煮込みハンバーグ、サラダ……。
「ああ、いいよ。どうせほとんど
「うん! 今日は少しだけご馳走だよ」
「いいね」
彼は疲れたように口元に笑みを浮かべ、そのまま浴室へと吸い込まれて行く。
実際疲れ切っていた。誕生日などどうでもいいほどに。
今日、職場で一人死んだ。メラと言う名の個体だった。とても元気でパワフルに活動していたのに。
昼まで元気だった彼が唐突に「立てない」と言い出した。そしてそのまま動く元気も出せず、眠るように死んでしまった。
散々名前を呼び、手足をマッサージして、できうる限りの努力をした。最後は彼の抱きしめた腕の中で逝ってしまった。
しばらく動くことができなかった。美術室にある石膏像のように。
原因がわからない。外にも出ていないし、新しい生物との接触もない。ヴェルやソイのようなアルビノでもなく、むしろ黒人個体だった。太陽光にもめっぽう強く、紫外線の影響もほとんど受けない個体として期待されていた。
彼は最後に何と言っただろうか。
「博士、さよなら。ヴェルとソイを――」
ヴェルとソイを頼んだよ、そう言いたかったのではないだろうか。
メラに何があったのか。解剖してみないとわからない。恐らく解剖しても分からないだろう。今までの死んでしまった個体がそうであったように。
もしかすると、あれが彼らの老衰の状態なのかもしれない。純粋なヒトのそれとは違う形で訪れるとすれば説明はつく。しかし……。
「お父さーん、起きてる? お風呂で寝ちゃダメだよー!」
沙耶が心配して声をかけて来た。ぼんやりしてずいぶん時間が過ぎてしまっていたようだ。
あまり娘に心配はかけられない。彼は湯船から立ち上がった。
「どうしたの? あんまり食べてないね」
娘に顔を覗き込まれて、彼はハッと我に返った。またぼんやりしてしまっていただろうか。
「ああ、ごめん。お父さん、もう歳かな。脂っぽいのが苦手になって来た」
「だからサラダばっかり食べてたの? ご飯もあるよ、お味噌汁作ろうか?」
「いや、いいよ。それよりケーキこんなに一人で食べられるかい?」
「別腹にいくらでも入るから」
中学生の胃袋はどうなっているんだ。いや、『女の子の』という属性なのか。とにかく本当に胃袋がいくつかあるんじゃないかと勘繰ってしまう事がある。X線検査では確かに一つしかなったが。
「そうだ、お父さん、厄払いした? 前厄の時払ってないでしょ? 今年本厄なんだからちゃんと払わないとダメだよ? 今度のお休みに行って来たら?」
「沙耶は一緒に行かないのかい?」
「あたしは勉強しないと。早く一人前の研究者になって、ソイに会いに行きたいし。もう四年も会ってないなぁ。ヴェルも大きくなったんだろうな。メラはもうあれ以上大きくならなくていいけど」
クスクス笑う娘にかけてやる言葉が見つからない。目を逸らした父に、彼女は敏感に反応した。
「お父さん? どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないよ」
しかし娘にごまかしがきかないことくらい本人だって十分わかっている。娘はもう一度言った。
「お父さん?」
「いや……その」
往々にしてこの手の研究者は嘘がつけない。誤魔化そうとすればするほど、全身が正直に語ってしまう。
「何かあったの?」
「メラが」
娘が続きを待っているのはわかっている。だが、それ以上が言えない。言いたくないのだ。
「メラがどうしたの? お父さん?」
彼女は何かを察したらしい。これまでにも何度も繰り返されてきたことだ。察するなと言う方が無理だろう。
「ねえ、まさか」
「死んだよ。夕方に」
「嘘……」
一番嘘だと思いたいのは自分だ、そう言おうとして彼は口を噤んだ。誰もがそう思っているかもしれない。自分が一番などということは主観でしかない。彼女にしてみれば彼女自身が一番嘘だと思いたいのだ。
「昼までは元気だった。たくさん笑って、いつものように陽気に歌って踊って、我々の手伝いをしてくれた。突然、足に力が入らなくなって、そこからはあっという間だったよ。十五年も生きたのに、最期は呆気なかった」
「そんなの嘘だよ。メラは他の子とは違ったもん、メラは長生きできるはずだったもん、そんなの……あたしは信じない!」
彼は顔が上げられなかった。スリッパの足音がパタパタと遠ざかり、ドアを閉める音にかき消された。暫くして彼女の自室の方から泣き声が聞こえて来た。
彼らにとってそれは避けて通ることは出来ない。彼らはそれを了承していて覚悟もできている。できていないのはむしろ我々研究者の方なのだ。
彼はテーブルの上に残された食べかけのケーキとたくさんのご馳走を前に、成す術もなく溜息をついた。
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