第十四章 さや④

 ある日の夕暮れ。その少女はとある町の外れにある山を彷徨っていた。

 目覚めて間もない彼女は自分がおよそどういった存在であるかは理解していたが、自分の出自が一向に思い出せなかった。しかしそれが彼女に影を落とすことなどなく、むしろ何者にも縛られない自由を楽しめることが出来る、というある種前向きな思いを持っていた。

 今日も今日とて特にすることもないので、いつものように人の手が加えられているんだかいないんだかよく分からないその小さな山をぶらぶらして、誰か登山客でもいないか探し回っていた。

 そうして、少女は人気のない山の中で幼い少年が一人泣いているのを見つけた。

 その少年は所はばからず大きく声を上げて泣いている。少女は、やはり特にすることもなかったので、この自分より幼い少年に声をかけてみることにした。

「坊や、どうしたのかな?」

 少年は一瞬だけ泣き止み、声をかけてきた少女を見た。しかし、その後すぐにまた泣き出してしまった。少女は困ったように首を傾げていたが、おお、と何か思いついたように声を上げる。そして、すぐさま少年を抱き寄せて自分の胸に押し付けた。

「安心して坊や。貴方は一人じゃないわ」

 ひぐ、ひぐと大きな声を上げていた少年のそれは次第にすすり泣くものへと変わっていく。そうして少し経った後、少女は少年を離した。

「ねえ坊や。一体、どうしてこんな所にいたのかな。怒らないから、ゆっくりと話してみなさい」

「うう、わ、わかんない」

 少年は必死に首を振る。

「うーん、そっか」

「こわいおばけにおっかけられて、きがついたらここにいた」

「あはは、こわいおばけ」

 そうか、ここには野生の動物だけでなく、化生の類もいるのか。

「ねえ坊や。麓の町の子よね」

「たぶん」

「あー、そっか。ここ何処か分かんないとそれも分かんないよね。よしよし、分かった。じゃあお姉さんが君のお家まで連れて行ってあげよう」

「ほんと」

 少年はパッと明るい表情になった。それが、少女にはなんだかとても懐かしくて、嬉しかった。そうして気が付いたら、こんなことを言っていた。

「だけど、私と友達になってくれることが条件よ」

 少女はそう言って、自分は何を言っているのかふと我に帰ったが、しかし何処と無く寂しいから話し相手を探していたのも事実なので、訂正はしなかった。

 少年はそんな少女の思い付きの提案に「うん!」と大きく首を縦に振る。

「よろしくね」

「う、うん。よろしく」

 そうして、少女はその幼い少年と友人となった。その日少年を無事に町まで送り届けて後も、度々少女は少年と会うようになった。話すことといえば、他愛のない話が多かった。雲の形が鯨だとか町の公園で小さな犬に追っかけられたとか、そうした特に取り留めのない話ばかりだったが、二人にとっては退屈しない時間で、夕暮れになって少年が帰らなければならなくなった時、少年は度々半べそをかきながら駄々をこねて少女に縋り付いた。

 そして度々少年は自分の身の回りにおきた悩みを少女に相談していた。少女の方も頼られることに悪い気はせず、むしろ嬉しさを感じていたので積極的に相談に乗り、時にその手助けをしてやった。時には、少年を山のとっておきの場所に連れて行ってあげたりもした。

 二人はお互いに大事な親友であったけれど、二人の関係は秘密で、少年は親にも少女の存在を伝えていなかった。

 そんな数年間の日々。その時はそれ以前の記憶がなかったけど多分、長く生きてきた少女にとっては瞬きするくらいの程度の時間。そう、何てことはない些細な日々。

 だと言うのに何故。私はこれをいの一番に思い出したのだろう、とその真っ白の髪をなびかせた少女は思った。高貴な神としての尊崇を一身に受ける輝かしい日々ではなく、こんな小じんまりとした何でもない日々。

 まあでも、そんなのは単純なことなんだろう。全くもって人間臭くて敵わないが、何かと煩わしかったことが多かった自分が自由になれた時だったのだから。

 ああ何て愛しい一時。その日々は、きっと私がずっと渇望してやまないものだったのだ。


       ○


「猶予もないのでな。早速その体を貰い受けよう」

 ファントムが手を引こうとする。

「この程度の損傷ならすぐに治せる。安心して渡すといい」

「それは駄目よ」

 ファントムの手をさやは両手で掴む。

「抵抗する気か? 今更」

「だってこの体、別にレンタルしてるわけじゃないんだもの。はいそうですか、なんて貸し出すわけにはいかないわ」

「なるほど、一理ある。ではお前の同居も許そう。私の力も使えるようになるのだ。この状況から切り抜けることも可能だろう」

 そのファントムの提案に、さやは思わず笑みがこぼれた。

「何がおかしい」

「本当に、貴方追い詰められてるのね。勝手に私の体の所有権を自分のものにしたり、ましてこの状況から切り抜けられるなんて、希望的観測もいいとこ」

 その言葉に平静を保っていたファントムは苛立っているかのように体を震わせる。

「ええい、眠りから目覚めたばかりの小娘が。貴様はさっさと私の言う通りにすればいいのだ」

「可哀想に。そんな野卑た言葉、昔の貴方なら使うなんてことはなかったでしょうに。これ以上貴方が恥の上塗りを重ねて格を落とすことがないように、今私が貴方を浄化してあげるわ」

「巫山戯るなよ」

「巫山戯てなんかないわ。それをこれから証明してあげる」

 ファントムは残っている力の限りさやの手を振りほどこうとする。しかし、それはピクリとも動かない。

「おのれ、おのれ! まさか心中する気か。気でも狂ったか小娘!」

 日向が静かに刀を構えようとする。しかし、それを「待って」とさやは制止した。

「ごめんなさいね。まごまごしたけど、結末は同じ。後は自分で後始末を付けるわ」

「……」

 日向は納得したように刀を下ろした。 

 その次の瞬間、さやを貫いていた手を煌めくような火が包み込んだ。ファントムは悲鳴を上げる。火に包まれたのは手だけではなかった。全身を、見とれてしまうほどの火の本流が巡っていた。

「おおおお!」

 ファントムの手がさやから外れた。

 灼ける。灼けてしまう。自分という存在が。

 どうして。ここまで堕ちてやったというのに、どうやっても、自分は元にすら戻れないのか。

 こんなものが、私の末路か。

 こんなものが。

「大丈夫ですよ。また一からコツコツとやり直せばいいんです」

 まるで太陽のような朗らかな笑顔。

 ……

 ああ。

 そういえば昔、こんな笑みを、そんな言葉を私に言ってきた女がいたか。

 惨めで間抜けな私に付き従ってくれた彼女は、果たして幸せな一生を過ごせただろうか。

 ああ、それだけで十分だった。私に付いてきてくれた彼らの行く末を見届け、それが幸せであることが分かればそれでよかったのだ。

 一体、私は何処で間違えてしまったのか。

 ボロボロと崩れていく手をその女は優しく包み込んだ。


「さや」

 太はさやに語りかけた。さやは振り返りざまに微笑む。

「はじめ。今度こそお別れね」

「うん」

「でも本当に、貴方と会わなかったら私の目論見だって上手くいってたでしょうに」

 さやの体から光が漏れ出て空へと昇っていく。そしてそれに合わせるように少しずつ、さやの体が透けていくのが分かった。

「悪かったね、こんなんで」

「ま、いいんだけどね」

「さや」

「ん、何?」

「また、会えるかな」

 少しの間、沈黙が流れた。分かっている。そんなことは叶いっこない願いだということは。だからこそ、別れなんだ。

 だけど。許されるなら。

「会えるわよ。きっと」

 さやは笑う。まるで、本当にそれが出来るかのごとく。

「……本当に?」

「ええ、本当に。いつになるかは分からないけれどね」

 そうして、さやは今にも消えてしまいそうな手を差し出す。

「だから、別れの言葉はさようならではなく、こう言わないといけないわね」

 太はその手をしっかりと掴む。もうほとんど空を掴んでいるかのようだけれど、確かにそこにさやの温もりを感じた。

「またね、はじめ」

「うん。またね、さや」

 ゆっくりと少女は笑みを堪えながらその姿を薄めていき、やがて、完全に見えなくなってしまった。

 晴天の空にも関わらず、雪が降ってきた。太の肌に触れたそれは冷たかったが、同時に、何故だか暖かかった。

「またね」

 太はその言葉を噛みしめるように再び口にした。

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