第十章 ムーンチャイルド②

「次の祭宮を決めねばなりますまい」

 桂京の宮殿に設けられた会議のための長方形の部屋。中心に配置された長テーブルの周りに座っていた男達の一人、面の長い男がそう言った。

「何を仰っておられる。まだその時期には早すぎるでしょう」

 口元に髭を蓄えた肩幅の広い男の一人がそれに反論する。しかし、その反論に、対して、面の長い男は首を振った。

「いいえ、ツツノオ殿。素より正式な時期など決まっていますまい。慣習的に決まっていることをただ踏襲しているだけのこと。それより、大事なことが起きてしまいました」

「ふむ、それとは一体如何なる者でしょうか?」

 また別の若い面持ちをした男が返事をする。面の長い男は返事をした男に向き直って言った。

「現祭宮が失踪してしまわれた。少し前より、報告がありました」

「な、何ですと!?」

 会議室がざわめいた。各々隣の者と話し合ったりする様子を横目に綿津見は言った。

「なるほど。失踪の原因はいささか気になる所ですが、それを探るより先ずは祭宮を決めねばならないでしょうな。しかし一体、代わりを誰がやるというのです」

「ええ、それをこれから決めねばなりますまい」

 面の長い男は難儀そうな顔をする。

 祭宮というのは地上に遣わす神官である。アマツカミガミと月人に仕え、祝詞を上げ、神事を執り行う。しかしそれは表立っての役目。実際のところは、アマツカミガミの人質である。

 人質である以上、それなりの貴人が選ばれねばならない。桂京というのは真実平等であり、貴賤の類というものはないに等しいものであったが、建前上、身分にあたるものは存在した。その中から、当たり障りのないようになるべく高い位にある姫、おおよそは王の系譜に連なる姫が選ばれるのが慣習であった。

「事態が事態な故、あまり手をこまねいてしまってはいけない。何であれ、もたもたして私達に下心ありと取られてしまうのはいただけない」

「確かにその通りですね。私はヨミテルヒメなど、その任に適当かと考えます。如何かな」

「いいえ、確かにあの方は大変教養もおありです。がしかし少々癇癪を起こすきらいがあります。私としてはアメツヒメがよろしいかと」

 口々に候補が上がっていく。「いっそ男にしてしまうのはどうか、性別に確たる決まりはないのだから」との話が持ち上がることもあった。そうしてひとしきりの意見が出た後、ある者が言った。

「陛下。貴方の意見をお聞かせ願いたい」

 すると、それまで黙りこくって意見を聞いていた桂京の王は静かに口を開いた。

「白夜見姫に任せる」

「な、何故!?」

 綿津見が突如席を立ち上がって狼狽する。それを両隣にいた男達が宥めて座らせた。

「すまない。今まで意見を出してもらって悪いが、ここで出た意見を深める必要も再議の必要もない」

「へ、陛下」

「綿津見よ。よい、聞こう。例え呪詛の言葉でも」

「いいえ。滅相もございません。ただ、考え直してほしいのです。何故白夜見姫なのでしょうか? 彼女は幼い。実に、あまりにもいと幼き子だ。それを一体何故そのような重い任に遣わされるのか」

 場は静まり返っていた。それは王の突飛とも言える意見、そして、それに対する綿津見の球団めいた問いかけのためだった。

「ああ、重い任か。確かにその通りだな。だが、この任だからこそ彼女に担ってもらいたいのだ」

「だからこそ、とは一体」

「彼女は、”ここで永い時を生きてはいない”。だからこそだ」

 その意味を理解した。確かにその意味で言えば間違いなく彼女は適任であろう。他の姫達は確かに永い時をここで過ごしている。そんな彼女達に、唐突に地上に行けといえば、一体どれほどの悲嘆にくれるのであろうか。その点、白夜見姫は生まれて幼い。それどころか、地上への憧憬を持っている。下手をすればその任を彼女は喜ぶかもしれないだろう。

 綿津見はそのことに納得しつつも、どうしてもそのことを容認出来ないでいた。

「ええ、よく分かりました。ですが、しかし」

 テーブルについた拳を強く握りしめる。久方ぶりに感じた憤怒。よもや、またこんな感情が湧き出てこようとは。

「貴方は、それでいいのですか?」

 苦し紛れにそう問われると、王は目を伏せる。

「そうだな。ただ単純にいいかと言われれば、良くはない。如何に平等あればとて、家族は特別だ。だが特別だからといって特別扱いするわけにはいかない。どうか、耐えてくれ」

「はい。最早私に異論はありませぬ」

 場は依然として静まり返ったまま。綿津見は目を閉じ、彼女に告げる言葉を考えていた。


       ○


 屋敷の屋上に設けられた星見のための空間。板張りの床の上に屏風と畳の敷かれたそこに着物の女性が一人、振袖袴の幼い女の子が一人寄り添いながら座っている。

「ねえ。テルヒメ」

「どうしました、白夜見」

「テルヒメはどうしてこちらに戻ってらしたのでしょうか? 今だって時折地上へと足を運んでおられるのなら、いっそのことそのままあちらに住まわれてもよろしかったのではないかしら」

 地上での土産話を一通り聞き終わった白夜見は、かねてより胸中にあった疑問をぶつけた。彼女はこちらに帰る折、地上で恩になった人々との別離を嘆き悲しんだという。そうまで悲しむのであれば、そのまま住み続ければよかったではないか。

 それを聞くと、テルヒメは口元を手で隠してふふ、と笑う。

「そうね。貴方の言う通りだわ。でもね、それではいけないの。役目を終えたら帰らなければならないから」

「祭宮のこと? でも、人質なのだったらいつまでも居続ければいいじゃない。周期はあるけど、必ず帰らなければならないなんて規則はなかった筈よ。だから、強く望めば居続けることだって出来たと思うの。それにもっと不思議なことがあるわ」

「あらあら、疑問が多いのね。何かしら、可愛い姫」

「テルヒメ様、貴方はあちらにいる期間が短かった。それはどうして?」

「私の場合、少し特殊だったからよ。私はね、ああ、これは恥ずかしいのだからあまり言いたくはなかったのだけれど、罪と呼べてしまう程の過ちを犯してしまったことがあったの。それで丁度祭宮交代の時期が上がってきていたから、私は罪の清算も兼ねてそこに充てがわれた。だけど、その期間は元々正式なものではなかったから短かった」

「だけど、それでもやっぱり望めばそのままいれた筈よ。やっぱり辻褄が合わないわ」

「ふ、だいぶ穿って聞くのね。流石の私でも困っちゃうわ」

「あ、そんなつもりじゃ」

 ばつが悪そうに白夜見姫が俯くと、テルヒメはその頭を優しく撫でた。そうして、彼女は目をゆっくりと閉じて口を開いた。

「私が早く帰ってしまったのはね、下界に暮らす人達は短い命だからよ」

「え」

「知っているでしょう? 地上にいる人は月人とは違って限られた命、そしてそれは途方もない程に短い。だから、私は暗に定められた期間のまま居続けるなんてことは出来なかった」

「何で?」

 それを聞くと、テルヒメは少しばかり困った表情をした。

「だってそれは、私の面倒を見てくれた老夫妻や多くの大切な人達の死を見なければならなくなるから」

「それは悲しいこと?」

「ええ、とっても。それにね」

「それに?」

「私はね、やっぱり何処かで帰りたい気持ちがあったの。ええ、嫌なものも一杯あったけど、でも確かに地上はいい所だったわ。だけど、時間が経ってこちらのことを思い出していく度、彼処に居続けることが辛くなったの」

「でも、それだとおかしいわ」

「どうしてかしら?」

「それなら、今も地上に行っているのはとっても不思議よ。だって、お辛いのでしょう?」

「ふふ、白夜見。それとこれとは別よ。言ったでしょう。私は地上が好きだって。ずっといることで人と深く繋がってしまったり、ここに帰れなくなるのは嫌なのだけど、地上が好きなことには変わりはないの」

「うーん。何だか腑に落ちないわ」

「旅行、って分かるかしら。そんな感覚よ。って、こればっかりはいくら聡明な貴方でも分からないわね。体験してみないことには」

「旅行。あれね。やったことないけど、いつかやってみたいわ。月には他にも異邦の街がありますし、地上はもっともっと広い色んな所があって混沌としていると聞きます。ええ、やっぱりいつの日か地上へと参ります!」

 白夜見は目を輝かせながらまくし立てるように言う。「ええ、いつか、大きくなったらね」と月の姫はその幼き姫の頭を撫でた。

 不意に、足音が聞こえた。二人が何事かと振り向くと、そこには綿津見が立っていた。

「綿津見殿。いらしていたのであれば、お呼びになっていただければよかったですのに」

「いえ、そこまで気を煩わせるわけにはいきません。後姫様、どうかあまりいらないことを吹き込まれませんよう。この小さな姫様は確かに利口ですが、思慮分別が成熟しきったわけではありません故」

「もし、折角こちらにお越しいただいたのですから、紅茶でも如何?」

「いいえ、どうかお気遣いなく。今日は白夜見姫を迎えに参っただけですので。さ、私の愛し子よ。帰りますよ」

「えー」

「姫。我が儘言わない。今度またお話聞かせてあげますから」

「はーい」

 白夜見は小さな足を動かして綿津見の後を付いて階段を降りていった。それを見やりながら、月の姫は小さく呟いた。

「どうか。いと幼き姫君の航海に多幸がありますよう」

 穏やかな風が屋上を吹き渡り、屋敷に植えられていた竹の葉がゆらゆらと揺れていた。


       ○


「え、どういうことですか。お父様」

 唐突に告げられた別離の宣告。それを姫は、夢でも見ているかのような面持ちで聞いていた。

 タン、と庭先に設えられていた鹿威しが音を立てる。綿津見は泰然としたまま「言った通りのままだ」と答える。

「姫よ。貴方様には地上に降りて祭宮を務めていただくことになった。まだ多少の時間はある。それまでに準備を整えなさい」

「何故でしょうか? 何か、私は粗相をしてしまったのでしょうか」

 その問いかけに、綿津見は首を振る。

「いいや、お前は何も悪くはない。だが白夜見よ、少しばかり意外だ。私にとっては遺憾ながら、お前はこの話を喜ぶのではないかと思っていたが」

 確かに、何故なのだろうと白夜見は感じた。自分にとってはこの話は願ってもない機会であった。この整然としていささか退屈な月の都から混沌とした地上世界へと赴けるのだ。これは本来自分が感じていたことから鑑みれば喜ぶべきことである。なのに、何故か白夜見はそれを心の底から嬉しいことだとは思えなかった。何だか、それを聞いた途端に急に不安に襲われた。

 その様子を見ていた綿津見はふむ、と軽く息を吐いてから静かに切り出した。

「あの姫様がやったように、生まれ直しという方法も取れないことはない」

「生まれ直し?」

「ああ、一度赤子の状態に戻してあちらに馴染むまで記憶に蓋をするのだ。お前には必要ないかとは思ったが、それも検討してみよう」

「いいえ、そんなことしなくてもいいです」

 白夜見は笑みを作った。

「ええ、お父様。私嬉しいです。姫様方はよってたかって刑罰か何かのように後ろめたく仰りますわ。でも私はやはりそうは思いません。だって、テルヒメ様が仰って下さったような、素敵なことが地上には溢れているのですもの」

 それからすっと立ち上がり、部屋を後にしようとすると、それを綿津見は引き止めた。

「姫、お待ちなさい。何処へ行こうとするのだ」

「もちろん、地上へと降りる準備を。お話はそれだけなのでしょう? でしたら、もう私がここにいる理由はないかと思います」

「あ、こら」

 綿津見が制止するのも聞かず、白夜見はそこを飛び出していった。

 やがて男は制止するのを諦め、行き場を失った手をそっと膝の上に戻した。

「今日くらい、好きにさせようではないか」

 俯き、右手で頭を抱えながら静かに嗚咽した。


 姫は自分の部屋を通り過ぎ、屋敷を出て、街の中へと出た。

 同年代のいない彼女にとっての数少ない話し相手は、テルヒメであった。彼女はいつも話を聞かせてくれ、自分の言葉に耳を傾けてくれた。

 そんな彼女にも話したくないことがあった。多分、語れば優しく聞いてくれるだろう、優しく窘めてくれるであろう。だけど、たとえ受け入れてくれるとしてもとてもそんな気分にはなれないことがある。今も、その気分である。

 だから彼女の屋敷には向かわなかった。白夜見は駆け続けた。見事な瓦葺きの立ち並ぶ建物の脇を通り過ぎ、灯りの元に集う人々の喧騒には目もくれず、石畳の階段を登り、朱色の橋を渡る。

 こんな時、いつも行く所がある。それは都中心部の近くにある小高い丘の上。そこにはいつものように小じんまりとした桜がそよそよと風に揺れていた。姫はいつものようにその木の前にそっと腰を下ろす。

「今日はどうしたのかな?」

 何処からか声がした。聞くものに安心感を与える、重低音の優しい男の声。白夜見はその声に応える。

「あのね。私、地上に行くことになったんだ」

「それはまた急な話だ。一体それはどうしてかな」

「うん。ちょっとね、大事なお役目を授かってしまったからなの」

「ふむ、お役目、とな。こんな子に頼まなければならないとは、万全に見えた月の都にも綻びが見え始めたというわけか」

「そんなこと言わないの。お父様達は間違ってはいないわ。いつだって一番適切な答えを導き出す。今回もそうよ。ええ、分かってるの。私も私が適任だと、自分でもそう思うわ」

「しかし、君はあまり嬉しそうにないな。本で得た知識も、何処ぞの姫様から聞いた地上のことも活き活きと話していた君らしくない」

「ええ、ほんとよね。論理的に考えて私が嬉しくない筈がないもの。でも何でかしら、今は不安な気持ちの方が大きいわ。八割、九割はそんな気持ちで一杯。おかしいわよね。これじゃ、私がホントは地上のことなんかこれっぽっちも好きじゃないと辻褄が合わないわ」

「そういうこともある。何故なら、心が論理的なものではないからな。いや、実は私達の到達していない所で論理的な営みをしているのかもしれないが、しかし、それにしても心というものは不可解なものだ。だから、君が矛盾と感じているものは何ら可笑しなものではない」

「そんなものかしら」

「そんなものさ。それより何だ、私もかつて地上にいたことがあるが、別段恐ろしい所でもないさ。君ほどの者なら、あちらでの生活もすぐにものにしてみせるだろう。恐らく、君の不安はただ単純に、未知の体験への恐怖、実態のない不安だ。そういうものは決まって杞憂であると相場が決まっている」

「ふふ、何それ。慰めてくれてるのかしら」

「ふむ、全く。気を遣ってみたらこの態度だ。つくづく可愛くないな、このお姫様は」

 何処からかともなく風が吹き荒れる。それはこの沈黙の間を埋めるように桜の木を揺らし静かな音を鳴らした。

「あのね。私、もうここには来れないわ」

「ああ、そうだろうな」

「私、ね。ここの生活って退屈だと思ってた。皆が考えて考えた結果なのだろうけど、とおってもちゃんとしすぎてて、なんだか、遊びにくい所なの。だから、ツキヨミの姫様のお話はとっても刺激的だったし、私もそんな所に行けるなら、こんな退屈な所捨てて行ってみたいとも思ったわ」

 少女は俯き、顔を手で多い隠し、体を小刻みに揺らした。

「でも、やだよ。お父様とも別れたくない。テルヒメとだってもう会えなくなる。ここで貴方と話をすることだって出来なくなる。そんなの嫌。どうしよう、私。もうすぐ、ここにいられなくなっちゃう」

 返答はない。ただ、今にも泣き出しそうな少女の声のみが辺りを満たす。

 ふと、少女の上に何かが覆い被さった。

「どうかそのまま手で顔を覆ってられますように。私の愛しい姫」

「え」

 強く抱き止められた。声しか交わしたことのない相手。だけど、その鼓動はどこか懐かしく、前から知っていたかのような感覚があった。

「我慢なんてしなくていい。泣きたかったら、泣けばいいんだ」

 それはまるで堰を切るための魔法の呪文であった。少女から少しずつむせび泣く声が漏れていき、やがてそれは見た目相応の少女らしい泣き声へと変わっていった。

 そうしてひとしきり泣いた後、もう涙も出なくなった少女はゆっくりと口を開いた。

「もう、開けてもいい?」

「ああ、構わないとも」

「うん。それじゃあ、開けるね」

 そう言うと、少女は顔を覆っていた手を離し、ゆっくりと前を見た。

 そこには只美しい桜の木があった。後ろを振り返っても彼女を包み込んでいた筈の人影は何処にもない。只、目の前には桜の木が佇んでいた。

「ねえ、貴方は何で私に姿を見せてはくれないのかしら」

「それはね、私は見られてしまったら泡になってしまうからだ」

「嘘つき。それじゃどこかで聞いた人魚姫だわ。第一、貴方は女じゃないでしょ」

「はは。ごもっともだ」

「もういい。貴方の姿なんて興味ないもの。そうやっていつまでも一人ぼっちでいればいいんだわ」

 白夜見姫はぷいとそっぽを向く。ふと、床に何かが落ちているのが目についた。それをそっと拾い上げる。

 それは木製の櫛であった。桜の花びらがあしらわれたくらいのこれと言った特徴のない櫛。

「貴方、何か落とし物をしましてよ」

 夜見姫がそれを差し出すと、男は「ああ、なんだって何を落としたって」と少し慌てたような口調で尋ねる。

「綺麗な櫛、これ貴方のじゃないかしら?」

「櫛だと」

 男は数秒の沈黙の後、再び元の落ち着いた声で口を開いた。

「ああ、確かに私のものだ」

「やっぱりそうなのね。じゃあお返しするわ。でも変なの。この櫛ってとっても可愛らしいのに、貴方って意外と乙女な趣味してるのね」

「余計なお世話だ」

「あ、そっか。貴方は私に姿を見せられないのでしたっけ。じゃあ木の下にでも置いておくわ」

「……いや、姫」

「はい?」

「その櫛だが、それは君にあげよう。私からの餞別だ。受け取ってくれ給え」

「いいのかしら」

「ああ、構わないとも。どうせ私は使っていないのだし、君が持っていた方がよっぽどよさそうだ」

「そう。それなら遠慮なくいただくわ」

「大事にしてやってくれ」

「ええもちろん。ありがとう、恥ずかしがり屋さん」

「一言余計だ。はあ、やれやれ。本当に困った子だ。だが元気になってよかったよ。その調子なら、地上に行っても問題ないだろう」

「なんか癪だけど、ありがとう」

「どういたしまして」

「それにしても不思議ね。結局貴方のことを一度も見たことはなかったけれど、貴方と初めて言葉を交わした時から貴方のこと、とても懐かしく感じてしまう。ひょっとしてお父様ってことはないわよね。声が違うもの」

「ああ、そうだな」

 それから少女は少しの間俯いた後、ゆっくりと立ち上がりその別れの言葉を紡ぎ出した。

「私、そろそろ行かなくちゃ」

「そうか」

「今までありがとう。貴方とお話出来てとても楽しかったですわ」

「ああ、私もだ。さようなら、お姫様」

「さようなら、お父さん」

「――っ!?」

 踵を返して桜の木に背を向け、少女は走り去った。

「全く。気付いていたのか」

 男は苦笑する。

「ああ大丈夫さ。地上は君のもう一つの故郷でもある。我が愛し子よ。私が言うのもおかしな話だが、どうか、その道筋に多幸のあらんことを」

 それから男は桜の木を見上げる。

「私の愛した人よ。君に託されながら、こんな結果になってしまってすまない。だがどうか、あの子を守ってやってくれ」

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