第七章 鷹と蛇③

「ふん、さっさとこちらに戻ってきて正解だったようだな」

 生野邸にある今は使われていない講堂。その舞台の前に立って一人息をつく生野。案の定、客士達は生野を探し始めた。島への入り口を見つからない自信はあったが、何者かによる手引きがあったのかあえなく発見され、急ぎこちらに戻ってくることとなった。しばらくはあちらに閉じ込めておけるだろうが、いずれは島に生野がいないことに気付き、戻ってくるだろう。

「おのれ、きゃつらにかかずらっている時間などないというのに」

 生野は歯ぎしりする。この広い空間にいることに特に理由はなく、あえて言うならばただ狭苦しい空間の中にいることが今は窮屈だったからである。

 うろたえてはならない。このような苦境など、数えきれない程乗り越えてきたではないか。生野は自分のこれまでのことを振り返り、内にあった焦りを鎮めようとした。

「素敵な所ね。ここは講堂かしら?」

 鈴の音のような声が響いた。何人も思わず聞き入るようなその声はしかし、生野の顔を顰めさせた。

 生野は背後を振り返る。

 そこには、薄い笑みを浮かべている少女、たまきがちょこんと立っていた。

「御機嫌よう。”子鬼さん”」

 月の光で黒髪を淡く輝かせながら、少女は言った。

「……お嬢さん、一体どこから入ってきたのかな?」

「もちろん正面から入ってきました。私、忍び込むだなんてやましい事はしてなくてよ」

 少女は胸に手をあてながら朗らかに言うが、生野はその不快そうな表情を緩めはしなかった。

「そうか。でもね、お嬢さん。女だてらに冒険心に駆られるのは感心だが、堂々と勝手に人の敷地に入って来てはいけない。だから大人しく帰りなさい。なんだったら、私がご両親に連絡して迎えに来てもらうようにしよう」

「ふ、ふふふ」

 少女は耐えきれなくなったかのように急に腹を抱えて笑い出す。

「演技が下手ね。ずっと人間らしく生きてきたんだって聞いていたのに、これではあんまりだわ」

「ふん、そういうお前さんは人間らしく振る舞えているのかね、え?」

 少女の動きが一瞬止まる。それから静かに生野を見据えた。

「失礼ね、私は人間よ」

「はん、まさか。仮にお前さんが人間だったとしたら、儂ですらも人間という枠組みに入ってしまうだろうよ」

「ふうん。じゃあ、貴方は私のことを何だと言いたいのかしら」

「そうさな。確かにお前さんの姿形もその匂いも人間だ、それは認めよう。だが、儂の目を誤魔化せると思うなよ。時折漏れ出てくるその清々しくも、どこまでも禍々しさが渦巻く本性は人間が持つものではない。その深淵へと誘うような目は人間が持つものではない。人間でもない、かといって妖怪でもない。まして神ですらない。人であって限りなく人でないお前さんのようなやつは、そうさな、魔人とでも呼ぶのが相応しかろう」

「……非道い話ね。こんな小娘に付ける呼称ではないわ」

「そんなことより目的を聞こうか。まあ大方察しはつくが」

「目的?」

 たまきは首を傾げる。

「とぼけても無駄だ。お前さんの目的は、『真統記』であろう」

「ああ、そうね。その通りだわ」

 たまきはニッコリと笑う。

「『真統記』の”秘書”に関わる部分。何の因果か、偶然貴方がその一部を手に入れた。でもその因果もここで切れるわ。いい子だから、大人しく渡して頂戴」

 その笑みと共に発された有無を言わさぬ言葉は生野の全身を震わせた。

「まさか、大人しく渡すとでも?」

「そうでなければ、無理やり貴方から取らないといけない。私、お爺ちゃんを苛めるのは嫌よ」

「小娘め。あまり小馬鹿にしてくれるなよ」

 生野は腕を突き出す。その手の前方からバスケットボールほどの大きさの火の玉が生み出される。

「”鬼火玉”だ。なりはこんなものだが、町を焼くに困らぬ火力は持っている」

「いいんですの? そんなものを使ったら折角のこの立派なお屋敷が灰燼になっちゃうのに」

「心配するな娘さんや。この建物は特別な鬼道が巡り巡っている。少し派手なことをしたくらいでは毀れることなどないんだよ。それにだな」

「それに、何かしら?」

「仮にこの屋敷を失ったとしてもお前さんだけは撃退したい」

 生野は火の玉を放つ。電光石火の如く放たれたそれはたまき目掛けて一直線に進み、やがて前方の建物の形が見えなくなるほどの大きな業火を放った。

「まさか、これで終わりではあるまい」

「もちろんよ」

 生野は神経を尖らせてあたりを見回す。

「こっちよ」

 生野は咄嗟に声のした背後を振り返る。生野の背後にしゃがんでいたたまきは短刀を構えて生野に突きかかった。生野は体をよじってそれを躱す。しかしたまきは突き出した短刀の向きを変えて、袈裟懸けに生野を薙ごうとした。

「なんの」

 生野は手にしていた刀を使ってそれを払った。そしてそのまま後ろに後退する。

 たまきはクスクスと笑う。

「ふん、気味が悪いな。何がそんなにおかしい?」

「ねえ、子鬼さん。どうして私をそんなに避けるの? 貴方はお爺ちゃんだけど、こんなにか細い少女なら一捻りなんじゃなくて?」

「はん、得体の知れない者を内に入れるほど耄碌してないわ」

「そうね。知らないものは怖いですものね。でも私は貴方みたいに器用なことは出来ないから、こうして貴方に近づいてこれを突きつけることしか出来ないの。ごめんあそばせ」

「そうはいかん」

 生野は足で地面を叩くと、地面から文字のような文様が這い出してきた。

「”フミツカミ”というらしいな。神代に失われた技術だがこれは、お前さんの欲している『真統記』の遺産の一つだ」

 生野は『真統記』を入手して以降、それを開けるための鍵を探し求めていたが、一方で、鍵が手に入る可能性は低いだろうと感じていた。しかし、その中身を垣間見たい、欠片でもいいからみたい、そんな誘惑に取り憑かれていたこの男は丁度暗証番号を虱潰しに入力して解読を試みるかのように無理やり『真統記』をこじ開けようと試みた。生野は過去に勇名を馳せた大妖であったが、その力を持ってしても『真統記』はその中身を曝け出す気配は皆無であった。しかし、彼の狂気的なまでの根気が通じたのか、長い時間の果てに奇跡的に一瞬だけ一部を垣間見ることに成功した。

 そうして手に入れたものが、この”フミツカミ”であった。

 たまきはハッとしてすぐさま前方へと刺突する。しかし、刃は生野の体をすり抜け、空を突いた。たまきが振り返るとそこに生野の姿はなく、講堂にはたまきが只一人だけ取り残された。

「……逃げた」

 たまきはうっすらと笑みを浮かべる。

「鬼ごっこね。いいわ、楽しみましょう」

 そう言って、彼女は首をかしげた。

「あら、でも鬼役はあっちがやるべきじゃないかしら。まあいいか」


 洋館の中を生野は駆け抜ける。中庭を抜けて居間、そして書斎へ来た所で歩を止めた。

 書斎の奥にはなだらかな曲線を描いたアンティーク調の机があり、机の上には地球儀や、使い古した辞書、ランプや万年筆等が置かれている。その奥にはバルコニーに出るための窓、そして、部屋を囲むように本棚が置かれ、本のみならず瓶や船の模型など、様々なものが配置されていた。

 ここは、生野の極めてプライベートな空間、一人になれる場所であり、滅多に他人を入れることはなかった。

「信太は敗北したか。だがいずれこうなることも薄々感じてはいた」

 生野は唇を噛みしめる。

「それにしても豊前翁は何処にいった。客士にやられたわけではあるまいに、何故、連絡が付かない」

 思えば、あの男は奇妙な所があった。生野は豊前翁について反芻する。あの男と出会ったのは数年前。同じ妖人であったが、出会った場所は人の世界においてであった。以前、大学の文化施設に資金を提供した時のことだ。完成式典の時にあの男は考古学者だと名乗り、生野に近づいてきた。それから生野と豊前翁は意気投合し、後にお互いが人でないと知った。しかし彼らにとってはそれは些細な問題であった。生野は豊前翁が豊前翁であることにその存在の意義を感じており、豊前翁もまた生野が生野であることに意義を感じているのだと思っていた。

 後に生野は豊前翁の見識の深さを信頼し、”とあるもの”を見せるに至った。

 そこまで反芻して、生野はあることに気付いた。

「奴は一瞬、『真統記』を見せた時に目の色を変えた。そうだ、あれは宝物を見つけた時の子供の目」

 学者という生き物の性質上、単にその奇矯な好奇心から来るものだと深くは考えはしなかった。只の”興味深い文献の一つ”を見る時の目。そこに、人間の世界でよく見たあの欲深い俗物の目は潜んでなかったか。

「いや、むしろ学者であればなおさら所有欲に駆られるというだけのことだ。何故今になって、友人を疑わねばいかんのだ」

 生野はそう言いつつ書斎の机に添えつけられている引き出しに手をかける。

 生野の顔から一筋の汗が零れ落ちた。

「おのれ……」

 引き出しの鍵が開けられ、整理されていた筈の中の物はぐちゃぐちゃに散らかっていた。そして、生野はそれを悟り、その可笑しさに思わず笑いを隠し切れなくなった。

「は、ははは、何という道化か! かつては魍魎の王とまで呼ばれたこの儂が! 盗人を安々と信用し、挙句この窮地に裏切られるとは!」

「鬼さん見ーつけた」

 生野は引き出しから顔を放し、自分が入ってきた書斎の扉の方を見る。そこには、やはりたまきが先程と同じように薄い笑みを湛えてちょこんと立っていた。

「どうしてここが分かった」

「さあ、どうしてでしょう? でも大変だったわ。だってこのお屋敷、迷路のように複雑なんですもの。ここを突き当てるのに凄く時間がかかっちゃった」

 少女は無邪気に笑う。そうして手にしていた短刀を再び生野に向けた。

「チェックメイト、ですわね」

「ぬかせっ!」

 生野は再びフミツカミを行使する。たまきは生野の姿が消えるのをじっと見ていた。

「どうした。今度は何もしないのか?」

「ふふ」

「さっきから気味の悪い奴め」

 生野の姿は完全に消えて跡形もなくなった。たまきは扉の入り口を陣取ったまま辺りを見回す。

 かちかちと時計の振り子が動く音だけが響く。

「さて、何処に行ったかしらね」

 とん、とドアノブに何かが当たる音がした。たまきは小さく口角を上げる。

「そこね」

 短刀を凪いだ。そこから、うっすらと同じ赤い液体が滲み出てくる。

「ぐっ!」

 扉の入り口が破壊され、破片がたまきを襲う。たまきはそれを軽々と避けて即座に入り口の方を振り向いた。

「これではもう姿を消しても意味がないわね」

 地面には、赤い液体がぽつぽつと廊下まで続いていた。


 入って中央奥に上階へと続く階段のある大広間。その踊り場へ向かう階段の前で生野は仁王立ちしていた。その周囲には同心円状に漢字と幾何学文様で構成された大きな魔法陣のようなものが浮かび上がっており、その中心に生野は立っている。

「ようこそ、お嬢さん」

 生野はこの大広間への訪問者に静かに言葉をかける。

「あら、鬼さんもう逃げないの」

「ああ、もう逃げない。いや、逃げられない。しかし、それはそれとして、鬼が鬼役に追われるとはつくづく滑稽な話だ」

 生野はくくくと自嘲気味に笑う。

「フミツカミが出来るのはあくまで自分を認識出来なくさせること。空間旅行までは出来ないわ」

「知っていたか、ならばこうなるのは必然か」

「楽しいお遊戯の時間はここまで。さあそろそろ終わりにしましょう」

 たまきは生野に向かってゆっくりと歩き出す。

「近づくなっ!」

 生野が声を張り上げると魔法陣から、大蛇を思わせる黒いシルエットが九頭浮き上がり、口を開けてたまきを威嚇する。

「ヒュドラの毒の逸話を知っているか?」

「……ヒュドラ?」

 たまきは足を止め、生野を見据えた。

「西洋の話だ。かつて数々の難業をこなした英雄がいた。神と人の子であるその英雄は時には獰猛な魔獣と争い、時には神と争い、やがてその誉れは天地に広く知られる所となった。しかし、その英雄の最期はあっけなかった。原因は痴情のもつれによってもたらされた毒だ。その毒こそ、ヒュドラの毒」

「何が言いたいのかしら」

「ここにいるのはそのヒュドラに負けず劣らずの九つ龍だということだ」

 たまきは生野から目を放し、大蛇を見つめる。そうして何かを悟ったように笑みを浮かべた。

 少女は、短刀を鞘から外しながら生野へ向かって走り出した。

「たとい魔人といえど只では済むまい。やはり貴様、気が狂っているな」

「そんなことはないわ」

 たまきは魔法陣の端に足を踏み入れた。途端、大蛇の一匹がたまき目掛けて食らいつこうとする。

「影のようなものだ。切っても――」

「いいえ、無駄じゃない」

 大蛇が大きく口を開けた所をたまきは斬り上げる。斬られた大蛇はその場で口を開けたまま動きを止め、やがて溶け落ちてしまった。

 生野は目を大きく見開いた。

「不可解だ、という顔ね」

 たまきは再び歩を進めながら、確実に生野に近づいていく。

「ふん、ぬかせっ!」

 たまきを残りの大蛇が取り囲む。前、後ろ、右、左と逃げ道を塞ぎがら距離を詰めていく。

「あら」

「幕引きだ」

 生野は右拳をグッと強く握りしめた。それに呼応するように大蛇は一斉にたまきに襲いかかる。

 大蛇に阻まれて見えなくなる瞬間、たまきは薄っすらと笑みを作った。

 前方の大蛇が切られて溶け落ちる。右の大蛇、後ろの大蛇、一匹ずつ、しかし確実にその数を減らしていく。

「何故だ何故一匹も。目と鼻の先だぞ。行け! かすり傷でいい、食らい付け!」

 最期の蛇を凶刃が襲う。蛇はピクピクと体を痙攣させ、他の蛇と同じように溶け落ちてしまった。

 蛇を見ていたたまきは生野の方に振り向き、ニッコリと笑った。

「これで幕引きかしら? それとも奥の手がおあり?」

 たまきは生野との距離を縮めていく。

「よせ、来るな」

「嫌よ」

 その目は生野を見つめ続ける。生野は自分の化けの皮が剥がれるのにも気付かずに、まるで心臓でも掴まれているかのように苦悶の表情を浮かべていた。

 眼前でたまきが止まる。そして少女は後ろ手で屈託のない無邪気な笑顔を浮かべた。

「鬼さんつかまえた、っと」

「……く」

 生野は歯を噛みしめる。その頬から汗が地面に滴り落ちた。

 その瞬間、生野から蒼い炎のようなものが巻き上がる。生野の体が赤みを帯び、牛のような角が生えた顔は憤怒の表情を湛えていた。

「ああああああああああああああっ!」

 生野は腕を振り上げる。

「んむっ!?」

 生野の口を小さな手が塞いだ。生野は大きく目を見開き、小刻みに震えながら動きを止める。

「今度こそチェックメイトね」

 少女は左手に持っていた短刀をその体に突き立てた。

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