第六章 思い出①

「まるで狐につままれた気分だ」

 社務所の壁にもたれかかりながら開口一番に天野は言った。頬に絆創膏を貼った彼は腕を組んではいるものの、しきりに右腕や脇腹をさすっている。

「実際、狐だったんでしょう?」

 天野の惨状とは裏腹に、座布団に座って呑気に茶を啜りながら望月は言った。

「まあな。あの給仕、突然尻尾を一杯生やすもんでつい見とれてしまってな、このざまだ」

「ちなみに何本生えていたの?」

「9本だったかな、いや、4本、だったか?」

「結構数に開きがあるようだけど」

「あーあれだ。それは多分、尻尾の数をその都度変えていたんだよ。きっとそうだ」

「まあいいわ、尻尾の数なんて」

「それよりどうしたもんかね。こんなんじゃ大学に行こうにも行けん。はあ、困ったもんだ」

 大げさに顔を覆う天野を望月は呆れたよう目で見る。

「全く、ちょっと擦り傷を作っただけじゃない。そこまで深刻じゃないでしょう? 」

「望月さんよ。俺はな、あんたと違って文化的な生き物なんだ。だからこれくらいの傷でも一大事さ」

 得意げに語る天野。望月はそれを聞いて薄い笑みを作りながら立ち上がる。

「へえ、言ってくれるじゃない。それじゃあ、貴方がやむを得ない事情で休暇を申請出来るように私が手伝ってあげる」

「ああいや、さっきのはなんだ、ちょっとした言葉の綾というかだな。まあ落ち着きなさい、望月さ、あっ! いてえ」

 望月は天野の手首をねじりあげる。

「あら、随分気持ちのよさそうな声をあげるじゃない。やっぱり天野君は真性のマゾヒストねえ」

「わっ! ふ、二人共、何やってるんですか!?」

 部屋に入ってきた太が眼前の光景に目を丸くする。望月は太の姿を認めると、慌てて天野から離れて元いた座布団に座る。

「コホン。太君、大したことじゃないから気にしないように」

「助かった太君、君がいなかったらこの……いや、まあ大したことじゃないから君が気にする必要はない」

 望月にニッコリと笑みを向けられ、天野は静かに言った。

「そうですか、それならよかった。――あれ、弓納さんは?」

「小梅ちゃんならそこに」

 望月が部屋の一角を指し示す。そこには、仰向けになったまま弓納がすやすやと寝息を立てていた。

「昨日の件で疲れてたのよ。だいぶ体力を使ったみたい」

「ま、正直弓納が加勢してくれたのは助かった。結局逃げられてしまったが」

「……凄いですね。普段はおっとりしているのに」

「まあ、弓納も伊達に客士をやってきたわけじゃないからな。それより、方針はどうする」

「そうね、先ずは状況をまとめないと」

 望月は天野と太を座卓に集めて、卓上に広げていたメモ書きを二人に見せる。

「最初に、大鯰の件。これは疑いようもなく生野綱を狙った者の仕業。また、最近市内で頻発している怪事件は生野綱とそうした曲者の小競り合いの結果起きたものね。では何故彼は狙われたのか? 理由は簡単。『真統記』を所持していることが判明したから。ここまでで何か質問はない?」

「あの、『真統記』とは一体何なのでしょうか?」

 太は生野と話していた時からずっと疑問に思っていたことをぶつける。祖父が語ってくれた書物。いくらか呪術に関することを知っていたとはいえ、その書物の存在は只の作り話かと思っていた。しかし、それが望月の口から発され、生野もその存在を認めていた。

「その名前が出た途端、生野氏の態度が一変しました。それは、一体何なのでしょうか?」

 あえて、自分が祖父からその書物について聞かされていたことを伏せ、望月に尋ねた。

「ごめんなさい、話してなかったわね。太君、貴方がどこまで知っているかは定かではないけど、この書物は簡単に言ってしまうと禁書の類よ。中には幾千幾万、いえ、多分それ以上の秘術が眠っているとも言われていて、決して有象無象の類の手に渡ってはいけないもの。実は、この神社は編者の一人と少し縁があってね。古い記録に『真統記』に関する記載があるの。その存在自体もごく一部を除いて知られてないのだけれど、迂闊にこの書物のことを口に出してはいけない。それは肝に銘じておいてね」

「は、はい」

 確かに、そんなことを祖父も言っていた気がする。だからこそ、作り話と思いながらもこれまで口には出さないようにしていた。

「で、先日の件で分かった通り、彼らは一人一人が非常に厄介だわ。もしかしたらまだ何か隠しているかもしれないし、下手に戦いを挑むものじゃない。だから、上手いこと一人ずつ袋叩きにしてしまいましょう」

「袋叩き、だって?」

 天野は首を傾げる。

「ええ。趣味じゃないかもしれないけど、今はそれが最善策。少なくとも私は彼らに対しては個別に対処していくべきだという評価をしているけど、貴方はどうかしら?」

「問題ない。別にやり方にこだわりがあるわけでもないしな」

「私も同感です」

 その声に三人が振り返る。弓納が眠そうに目をしばたたかせて、太の後ろから覗き込むようにメモ書きを見ていた。

「口惜しいながら、私も劣勢を強いられました。今回の件はやはり独立独歩では厳しいかと」

「小梅ちゃん、もういいの?」

「はい。バッチリです」

「よし、それじゃあ話に加わってもらいましょう」

「なあ望月。個別に対処するのはいいんだが、具体的にはどうするつもりなんだ?」

「それについてはもう対策を考えてあるの」

 そう望月が言った時、インターホンが鳴った。

「というわけで丁度来たようね」

「行ってきます」

 太が廊下に出ていく。


「望月殿の要請によりこの度ご助力に参りました。弓司庁の日井です。どうぞお見知りおきを」

 無地の白のスーツに薄茶色のチェスターコートを着込んだ男は部屋に入るなり丁寧に挨拶する。

 それを見ていた天野は驚いた表情をする。

「弓司庁だって? なんでそんな所から」

「私が頼んだの。もちろん、この前の生野邸の一件のことで」

「だからって、彼処からわざわざ」

「少なくともそれだけ重要なことだと判断したわ、私は。どうかしら、日井さん?」

 聞かれて、コートを太に預け用意された座布団に座っていた日井は小さく頷く。

「望月殿のおっしゃる通り、この件は深刻なものと見なしています」

「そう思う根拠ってのはなんだ?」

「生野という男の特異性です。望月殿の提供される情報を鑑みる限り、彼はかつて大江御前と呼ばれた妖人で間違いないでしょう」

「大江御前、ですか?」

 脇にいた太が日井に尋ねる。

「はい。昔、高名な武人とその家来達によって退治された鬼がいました。しかし、その鬼には人間との間に子供がいた。その子はまだあまりに小さかったので、流石の武士達もそのような稚児を斬るわけにはいかず、最終的に見逃されることになりました。しかしやはり鬼の子、その幼かった稚児は長じて大江御前と名乗り、まるで魑魅魍魎の王のように振る舞い始めました」

「で、普通そんなのを朝廷も放っとけないだろうから、何かしらの対処をしたんだろう?」

「対処はするつもりでした。しかし彼を討伐する数日前になり、大江御前は忽然と姿を消しました」

「姿を消した、ですか?」

「そうです。理由は未だ不明ですが、それによって彼の元で結束していた魍魎達は雲散霧消し、ほぼ一晩の内に大江御前の勢力は影も形もなくなりました」

「ふん、経緯が謎だらけだな。あんたの話の後、身を隠していた大江御前は生野綱って名乗って実業家として成功したというわけだ。しかし何故今更になって人の世に出てきたのかね。いや、生野の家は確か江戸時代頃から、か。じゃあ、何代か代替わりしてる筈だから生野綱は大江御前本人ではないんじゃないか?」

「天野君、面白いことを教えてあげる。”生野家の歴代当主は生野綱只一人だけよ”」

「望月、確かに鬼だってんならずっと当主を続けること出来ないことはないだろう。だが、そんなに同じ人物が当主だと、流石に怪しまれるだろう」

「それはそうね。でも、生野綱はあくまで人間らしい慣習に則って生きてきたからほとんど誰にも怪しまれなかった。つまり、代替わりの時期が来れば”先代の綱”は隠遁と偽って姿を消したように見せかけ、”次世代の綱”として容貌を変えて跡継ぎと名乗る。時には当主代理を立てることもあったみたいだけど、大体はこんなからくりで今までやってきたのよ。もちろん、それでも拭い去れない不可解な点は出て来るだろうから、それを怪しむ者もいたのでしょうけど、そうした時のために何かしら幻術の類を使ってはいたでしょうけどね」

「なるほどな。ましかし、何だってそんな小細工までして人間社会に溶け込もうとするのかね」

「さて、そのあたりは本人に聞いてみない限りは測りかねますかな」

「まあそうだよな」

「さて、望月殿。大江御前、いや生野綱は今何処に潜伏しているか掴んでいるでしょうか?」

「いいえ、困ったことにまだ……」

「なるほど」

「すまんな、日井さん。折角ご足労かけたってのに」

「いえ、問題ありません。私の方でも調査いたします故、何か分かったら報告いたしましょう」


       ○


「結。おい、大丈夫か?」

 見知らぬ男が心配そうにして駆け寄ってくる。ここは、何処かの公園だろうか? よくは分からないが、太は夢を見ているのだと、すぐに悟った。そして自分は今、結とよばれた少女の中に入っている。

「へーきよこれくらい」

 少女は強気に返答するが、その目は泪で滲んでいた。

「平気なもんか。泣いてるじゃねえか」

「泣いてないもん」

「全く、気丈なお姫様だ」

 男はそう言いつつ少女を背負い、ゆっくりと歩き出す。

「だから、へーきだって」

「無理すんな。足擦りむいてんだ。大人しく背負われろよ」

「む、ありがとうなんて言わないわ」

 少女はそっぽを向いてしまった。しかし、彼女の嬉しい気持ちは痛いほど伝わってきた。本当は”ありがとう”と伝えたいのに、プライドが邪魔をして伝えられない。すごくもどかしい。

「素直じゃねえなあ。全く、誰に似ちまったんだ」

「そんなの、お父さんに決まってるでしょ」

 ぐずりながら、少女は男に訴えた。

「いやあ、俺はそんなに捻くれてないさ」

「捻くれてますよ~だ」

 少女はべーと舌を出す。

「こいつ、言ってくれるじゃねえか」

「ねえ、お父さん」

「なんだ?」

「何かお話を聞かせてほしい」

「ふ、お前もまだ子供だな」

「いいから、聞かせて!」

「はいはい、お姫様の頼みとあっちゃ断れねえな。そうだな、あれにしよう」

 そう言って、男は一つ一つを思い出すように少女に語り始めた。


 ここではないどこかの世界、とある騎士がオリーブ園から女の子の赤ん坊を拾いましたとさ。その女の子は何処から来たのかも分かりませんでしたが、騎士に大事に育てられ、女の子は自分の素性なんてどうでもいいくらい幸せでした。オリヴィアと呼ばれたそんな女の子も成長してそれはそれは美しい娘になり、多くの貴公子からも求婚されるようになりましたが、オリヴィアはそれを全て断ってしまいました。騎士は訳を問いましたがオリヴィアは答えてくれません。やがてオリヴィアはしきりに泣くようになりました。騎士は不安を覚えて、やはりオリヴィアに訳を聞きました。すると、オリヴィアは答えるのです。『私は自分の出生を思い出してしまいました。もう、ここにはいられないのです』と。騎士は大変驚き、何とかしてオリヴィアを引き留めようとしたのですが、結局、彼女は姿を消してしまいました。騎士は悲しみに暮れていましたが、ふと、オリヴィアがかつていた部屋に置き手紙が書いてありました。置き手紙には、こう書いてありました

 

 今までありがとう。

 感謝しています。ありがとう。ありがとう。お父さんのお陰で、私は毎日幸せでした。どうか、私のような薄情な女のことは忘れて、幸せに暮らしてください

 

 ありがとう、お父さん

                                            オリヴィアより


「騎士は手紙が湿っていることに気付きました。きっと、オリヴィアは泪を流しながら書いていたのでしょう。騎士はその手紙を抱きしめ、いつまでもオリヴィアの名前を呼び続けるのでした……」

 男は少女の方を振り向く。

「どうだ、あ、いって」

 少女は男の頬を思い切りつねる。

「なんでそんな悲しいお話をするの」

「仕方ないだろ。話のストックがなかったんだから」

「別れて終わりだなんて、嫌だ」

「お話はみんなハッピーエンドとは限らないからな」

「お父さん」

「ん、何だ」

「私はいなくならないわ」

「あ、ああ。勝手にいなくならないでくれよ」

「うん。ありがとう、お父さん」

 誰かの記憶、それとも只の夢? 少女の気持ちが伝わってくる。可能ならば、いつまでもこうしていたい。失いたくないもの。

 太はそこで目を覚ました。外は夜が明けようとしている頃合いである。ふと、太は自分の頬に触れた。

 そこに一筋の雫の跡が残っているのが分かった。

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