六十五

 ゆっくりと見上げた先に、銀正はその目を見た。

 静謐せいひつで、揺るぎなく、唯一の決意以外何ひとつない、その瞳。



 見つめた瞬間、理解してしまった。



 香流は本気だった。










 瞬間、心に浮かんだものは、なんだったのだろうか。

 銀正はそれを理解する前に口を開いて、そして、














『いやいやいやいやいやいやいや!!??』





 一斉に上がった声に全てが霧散した。


 厳粛な雰囲気ぶち壊しだった。









「待って? 待って香ちゃん?? え? 誰が後追うって? 誰が誰の後を追うって????」


 最初に確認の声を上げたのは琳円だった。

 扇を取り落して額を押さえた老爺は、聞きたくないとばかりにそれでも香流にたずねて言った。


「後を追うって、どういうこと??」と。


 それはその場の全員一致の疑問だった。

 もう完全に一致していた。

 琳円逃避、真殿混迷、近衛の頭は呆気に取られて三者三様頭を抱えている。

 それを平然と無視して、刀を構えた香流はのたまった。




「ですから、私が銀正殿の後を追うんですけど」


『駄目に決まってますけど!!??』




 真殿と琳円、ついでに崩渦衆の声が重なる。

 崩渦衆は嘆き狂わんばかりに「よしとおおおおおお!!」と叫び、琳円は顔面蒼白で椅子から転がり落ちる寸前だった。

 唯一真殿だけが両手でバツを作って、激しく首を振っている。


「こんの馬鹿! いっくら要求が通らなかったからって、ガキみてーに癇癪かんしゃくおこすんじゃねぇ!! そんな後追いなんぞ、右治代殿も望まねーよ!」


 真殿の指摘に、はっと我に返った銀正は激しく首を縦に振った。

 もう二人、共にいられないからと言って、そんな選択を香流に選んでほしいなんて、自分は微塵も思わない。

 例えここで自分が死んでも、香流にはちゃんと先を生きてほしい。

 そう願っていたのに。

 だから昨夜の拷問も耐え抜いたのに。


 そんなことを言われたら自分は、





 死ぬこともできない。








 香流は周囲の阿鼻叫喚など全く気にする様子もなく刀を上段に構えたままだ。

 しかし、その姿勢のまま、


「もう決めました」


 冷ややかに呟く。



 その場にいた全員が愕然とした。




 その驚愕の中、香流は氷点下の目のまま、銀正をうながす。

 さぁ、腹を召しなさいと。

 そして凍りついた鬼の形相で笑って言うのだ。


「安心なさってください、黄泉で会いましょう」と。







 で、



 で、



 で、





「(できるかあああああああ!!!???)」





 瞬間、銀正は胸中に絶叫した。


 手から刀が零れ落ちる。

 思うさま顔を引くつかせた銀正は、傲然と立ち上がって腕を横に振るった。


「馬鹿なことを申されるな!! あなたが腹を切って何の意味があるっ これは私と美弥の問題だ、部外者のあなたがこれ以上関わるのは止めてくれ!!」 


 それは怒りにも似た焦燥だった。

 やっと、この手の何もかもを手放して、何も考えなくていい場所に行けると思ったのに。

 それなのに、こんな土壇場になって香流は銀正の心に爪を立てる。

 殺した未練を呼び覚ますように、容赦ない意志を示してみせる。



 だが、香流は銀正の逆上に、まるっきり顔色を変えなかった。

 それどころかまるでさげすむような面持ちで刀を下げて言ったのだ。


「部外者とは失礼な。 私はこの国のために尽力した一人ですし、現時点でまだあなたの許婚だ。 十分に関わる立場の者だ。 ……でもそうですね、」





「あなたは御自分を押し通して私を置いて先に行くおつもりですから、私たちはもう道をわかたっているといってもいいのでしょうね? そういう意味では我らはもう関わり合いのない者同士だ」


 だから、


「私が好きにするのにも、文句をつけてほしくありませんな」





 唖然とした。

 こんなのは。

 こんなものは、子供の揚げ足取りだ。

 銀正は途方に暮れたようになりながら「そんな、わらしの駄々のようなことを……」と声を振り絞った。

 しかし香流はそんな指摘などどこ吹く風で、刀片手に冷然と言い放った。



「死ぬあなたに、残される者の意志を縛る権利などない。 勝手に死んで、勝手に満足していろ。 私も勝手にするだけだ」


 それがあなたの選んだ道の結果だ。




 香流が再び刀を構えようとする。

 やりたいようにしろ。

 こちらもやりたいようにさせてもらう。

 そう最後通牒をつきつけるように刀を構える。

 だからその瞬間、



 



 銀正は耳元で何かが引き千切れる音を聞いた。






 …………ふざけるな。




 ふざけるな、




 ふざけ、







「ふざけるな、左厳義任!!!!」







 空気を雷鳴のように切り裂いた叫びに、その場にいた者全てがぎょっと目を見開いた。

 銀正は不動明王が如く怒りに打ち震えながら、腹からの声を発していた。

 誰もがその剣幕に口をつぐんだ。

 特にこれまでの銀正を見てきた美弥狩司衆一同は、その未だかつて見せたことない激情に呆気にとられていた。

 銀正はそんな周囲に目もくれず、拳を握りしめて叫んで言った。



「もう縁が切れたから好きにするだと!? 勝手に死ぬ私には関係などないから、口を出すなだと!? ふざけるな…… ふざけるな左厳義任!!」


「あなたが私の後を追うように死んで、私が報われるとでも思っているのか!?」


「私が……っ」




「私がどれほどの想いであなたを残していくと思っている!!」


 激情は、暴風となって吹き荒れた。

 しかし、それは、






 火種を燃え上がらせる、増勢の風。








「思い上がるな!!」


 今度は香流の声が響き渡った。

 ばしんと鼓膜を打ち据えるような叱声が轟き響く。

 香流は立ちふさがる銀正に真っ向から向かい合い、逆手にした刀の柄を突き付けて白刃の声で叫んで言った。


「いいかよく聞け、右治代忠守。 私は私の死によって、あなたの魂を慰める気は毛頭ない! 私が腹を切るのは、ただの憂さ晴らしだ! あなたの身勝手を三途の川を渡る船の上で、嘲笑と共に罵倒するためだけの身勝手だ! 私を切り捨てたあなたのために、なぜ私が後追いなどしなければならないッ」


「あなたは、私を手放した!!」


「私の死は、それを心底後悔させるための復讐だ!!」


 だから、


「さっさとくたばれ、右治代忠守!!」







 燃え上がる。

 風が逆巻く。


 互いの意志が互いを激化させ、香流と銀正は爆発する思いのままに叫んだ。




「ふざけろッ あなたが死ぬと分かっていて、残して逝けるか! 言葉を撤回しろ、左厳義任!!」


「この我儘者が!! もうどうでもいい相手の生死に口を出すなッ いいからさっさとくたばれ、右治代忠守!!」


「どうでもいいだと!? どうでもいいわけあるか、この愚か者がッ」


「結局私を切ったその口で、どうでもよくないとは言わせない!!」


「切ったのはあなただったからだ! あなたに先を生きてほしいから、私はこの縁に見切りをつけた!」


戯言ざれごとを!!」


「戯言なんかじゃない!!」


「だったら何故私に構う!?」


「そんなもの、知れたことッ」








「私はあなたが愛おしいッ ――――か……ら……」












 言った瞬間だった。

 銀正は信じられないものが飛び出したとでも言うように、素早く両手で口を覆った。

 だが、出てしまったものは取り消すことはできない。

 そこに思い至った途端、全身から汗が吹き、







 銀正は、










「ようやく言ってくださった」


 そう言って笑った目の前の顔に、菩薩と般若を見た。








 手が伸べられる。

 細く白い手。

 その儚い指先が口を押えた銀正の指先に絡み、そっと、しかし力強く引き剥がした。

 銀正は頭の中に吹き荒れる混乱に囚われ、その手に逆らえない。

 香流は銀正の手を引き寄せると、


「あなたが何もかもを犠牲にして守ろうとするなら、」


 呟いてその指先に口づけた。






「私は何もかも失ったあなたに、私の何もかもを差し上げたい」


「あなたに求めてほしい。 なのに、」


「あなたは私を未練にするのに、それすら認めず、逃げるように死に向かおうとなされた」


「そんな嘘、私は許しませんよ。 私は、あなたを黄泉から引き戻すためなら、どんな策も弄してやる」




 引き寄せた指先の上から、火炎の目が銀正を射抜く。

 そして銀正の中で未練を殺そうとした覚悟を、その舌先で喰い殺そうと告げるのだ。



「私を愛おしむ心がそこにあるなら、」


「私を望んでほしい」


「置いて行かないで、残されもしないで」


「あの時…… 死を覚悟で渦逆の前に共に立った時のように」


「私にもう一度、あなたから離れないと誓い立てる許しをください」





「生への道行も、死への船出も、私に、あなたと共にある許しを」







 ねぇ、どうか、


 私を想って湧く恐れなどに惑わないで。

 私は、私の願う通りに生きてみせる。

 それが例え最後に不幸や死の待つ道でも、



「私は後悔などしない」


「あなたにただ、信じてほしい。 私の真を信じてほしい」


「私は、あなたの横で、笑ったとしても、泣いたとしても、その全てを愛してみせる」


「何度でも言う、右治代忠守、私は、」


「共に行く先がどんな結果でも、あなたの横で迎えるなら、後悔などしないんだ」






「あなただけで、決めてくれるな。 私が共に行きたいと言ったなら、それが死への旅でも、私の幸福はそれだ。 だから、」




 銀正、





 私に、






 仕方ないなと言って、








「許すと笑え」


















「ちょいとー? 二人っきりの世界になるんじゃねーよー?」


 飛び込んできた声に、銀正は跳びあがりかけた。

 世界に、他に何も感じられなかったから。

 目の前の存在以外が遠ざかって、曖昧以上に消え果てたように感じていたから。

 だからぐいと肩に腕を回されて引き寄せられたのにも、目の前で銀正の目をすべて奪った人が不機嫌そうに顔をしかめたのも、呆然と見ているしかできなかった。


「邪魔しないでください、兄様。 今大切な話をしているところです」


「するわ。 お前この状況なんだと思ってんの?」


 銀正に腕を回した真殿が半眼で妹をたしなめる。

 香流はそれに澄まし顔で肩を竦めると、さらりと熱く絡み取っていた銀正の指を離した。

 自分を挟むように言い合う兄妹に、まだ先ほどの余韻が冷めない銀正は立ち尽くすほかない。

 ただじっと目の前の人を見つめる。

 銀正を真っ直ぐに見つめ、そこに己の真以外の何物も介在させない意志でもって、言葉を紡いだ人がいる。


『あなたの隣で迎えるなら、どんな結末も私の望むもの』と。




 香流を求めるがゆえに銀正に芽生えた怯えを、正面から喝破した言葉をくれた人。


 生きてくれさえすれば、きっとと。


 安易に香流の道を決めつけてしまった銀正の想いを、それは香流の全てを受け止めることに怯える卑怯でしかないと首を振って告げた人。


 想うなら、その笑顔を願うなら、




 その心の真が言わせるどんな想いからも目を背けるなと。





 命すら軽々しく放り捨てて、銀正との縁に全てを賭けてくれた人。







 くつくつと、体が震えた。


 それに銀正に触れていた真殿が気づき、香流も顔を上げて目を見開いた。

 その大切な眼差しをじっと見据え、銀正は笑った。

 ぎこちなく、痛々しく。

 しかしそれ以上に、重たいものを手放したような顔で、


 笑って言った。



「あなたは、やはり、ひどい人だ」

 


 頬を濡らすものがある。

 その雫を、香流は優しさと寂しさを混ぜた微笑みで眺めて、頬を緩めた。


「否定はしませんよ。 ……厄介な相手に見初められましたね、御当主」


 下ろしていた刀を再び握り、そして香流は告げる。


 花綻ぶような愛おしい笑みで告げて言った。



「さぁ、共に川を渡りましょうや?」










「駄ぁ目」


「「!!」」



 すぐそば。

 真横で割り込んできた声に、銀正と香流は瞠目した。

 そしてばっと顔を向けて、水を差した張本人を見る。

 二人の目を奪った真殿は、瞬間にやあああと頬を歪め、


「行かせねーよ、馬鹿ども」


 銀正を右腕に、香流を左腕に閉じ込めて、琳円と近衛頭領への体を向けた。

 琳円たちはここまでを呆気に取られて傍観していたが、真殿がにんまりと含みありげな笑みを向けると、なにか勘づいたように頬を引くつかせた。

 そんな二人に、真殿は山賊よろしい、いやらしい声で告げたのだ。



「おう、爺、近衛の。 見てた通りだ、こいつらほっといたら、二人で川を渡る気だぜ? ――――だがな、うちとしちゃ、この馬鹿妹の戦力が無くなんのはおしいからよぉ」



「この二人、まとめて連れ帰らせてもらうぜ」





「!!?」


 真殿の言葉に、銀正はぎょっと目をむいた。

 そして反対側の香流と視線を合わせ、はくはくと口を動かす。

 香流はさてはてとでも言いたげに肩を竦めると、


「うちの無茶は血ですから」


と兄を見上げて呟いた。



 真殿の発言に、琳円と近衛頭領は面食らった様子だった。

 だがすぐに我を取り戻すと、


「そんな話が通ると思っているのか?」


 真殿を睨みつけて厳しい声を投げかけた。

 しかし真殿は不敵に笑うと、


「うちは今回の大取物で、美弥にはでかい貸しがあるんでな。 左厳一門の狩士、特に金かかってる崩渦衆の働き賃として、それなりの金を要求する約束がある。 だからその金の代わりに、」




「左厳家は、この男を請求するぜ」




「な!?」


 驚きあきれた声が二重に上がる。

 銀正と琳円だ。

 銀正は真殿の理論に驚愕し、琳円は無茶苦茶だと呆れ果てた。

 それでも真殿は余裕を絶やさず、底意地の悪そうな笑みのまま続けた。


「うちが高いのは爺も知ってんだろ? いくら元々美弥が裕福だからって、これからこの大惨事を立て直していくのに、相当金が要る。 そこへ俺らの請求じゃぁ、大打撃だよなぁ? それを、こいつ一人もらうだけでチャラにするって言ってんだ。 悪くない話だと思うがね」


「……このうつけ。 お前だって言っただろうが、その男の責を問わねば、今後に響くのだと。 代金請求するから対価に寄越せと、それで済む話じゃない」


 琳円は苦々しく指摘する。

 言う通り、このまま銀正を左厳家への対価として美弥側が差し出しても、その責任問題は宙に浮いたままになってしまう。

 それを皆分かっているため、重い沈黙が落ちた。

 しかし、


「待ってください」


 突然一つの声が上がり、銀正たちは振り向いた。

 そこに立っていたのは、美弥狩司衆の狩士、いや。

 その一同だった。


 ずっとこの成り行きを見守っていた彼らは、なにかを決意したような顔で琳円たちを見つめて口を開いた。

 「発言の許可を」と。

 近衛頭領はそれを却下しようとした。

 だがその真剣な面持ちに、琳円が仕方なさそうに頷く。

 許しが出たと悟った彼らは、頷き合ってその場にひざまずいた。

 そして深く首を垂れて言ったのだ。


「どうか、此度の美弥の一件。 責任を、我ら美弥狩司衆全体の過失とし、その罪過を我らにも分配していただけませんか」


 申し出を聞いた瞬間、銀正は息を飲んだ。

 なにをと、配下たちの行動に戸惑った。

 しかし男たちは誠実に頭を下げたまま動かない。

 琳円はその様をじっと見つめ、


「この男の罪を軽減しろと申すか」


 痛む頭を押さえるように呟いた。


「事は、そんな決定では済まないと、分かっていて言っているな?」


 確認が続く。

 琳円の指摘通り、美弥狩司衆全体が責を負うことなど、当然なのだ。

 今問題にしているのは、狩司衆頭目という責ある立場の者が、断罪によって明確に裁かれることによって、責任問題に片をつけるということ。

 以前銀正が危惧したように、責任問題が曖昧になってこれらの尾が後を引くことになれば、本末転倒である。

 それを配下たちも分かっているのだろう。

 重い沈黙が落ちる。

 だが、


「……そうですね、きっと、民はその人を許すまい。 ですが、その怒り、我らがこれからこの国を全力で守ることで、いつか解いて見せます」


「!」


 続いた宣言に、銀正は息を飲む。

 そして配下たちは再び深く深く頭を下げると、振り絞るように言ったのだ。


「左厳家狩士様、左厳義任様にお話しいただきました。 その方は、我ら配下全てを守るため、ずっとその立場に己を縛り付けて苦渋に耐えて来られたと。 我らは、その人が罪を重ねたその上に生かされてきたのだと」


 はっと、銀正は香流を見た。

 香流はそっと視線を逃がしたが、その顔はしてやったりとばかり澄ましている。

 香流だって配下に全てを語れば、問題がややこしくなることは理解していただろうに。

 非難するように眉を寄せると、戻って来た目が悲しげに揺れる。


『抱えてばかりいるあなただって、悪いでしょう』


 目は無言でそう言って、ふいと空に逃げた。

 脱力する銀正。

 真殿がぽんぽんと肩を叩いてくれるが、なんの慰めにもならない。

 そうしている間に、配下たちは首を垂れたまま続けた。


 だからどうかと、こいねがうように声を振り絞った。



「もう、この方だけに、すべて負わせたくない。 我らは、この方を支える者。 その身に重責を負うなら、それを支えねばならぬ者。 どうか、どうか、」



「もうこれ以上、この方にだけ負わせないでください」



「この方を、一人にさせないでください」



 それが、



「我ら美弥狩司衆一同、総意の願い」













 全てが静寂に沈んでいた。

 誰も彼もが息すら控えて、その触れがたい静けさを保った。

 銀正は配下の言葉に言葉を失っていた。

 ずっと距離を取り、言葉を交わすのも意思を確認しあうのも、最低限にとどめて遠ざけていた彼ら。

 けれどここに至って、配下たちは自分のために心から願ってくれている。

 銀正の重責からの解放を、もうこれ以上はと願ってくれている。

 何かが、溶けていくように思えた。

 ずっと絡みつくように銀正を縛っていたものが、その重量を無くしていく。

 息が。

 息が、熱く零れた。

 悲しみでもなく、悔恨でもなく。



 きっとそれは、







「それで? どーするよ、爺」


 真殿が、勝ち誇った顔で琳円に笑う。

 琳円はいじましそうに顔を歪めて腕を組んだ。

 それにつけ込むように、真殿は声高に言った。


「ここまで言われたんだ、それなりの温情みせにゃぁ、人格疑われるぜ爺。 野郎が揃いも揃って頭下げて、酌量求めてんだ。 それもてめーらの全部投げ出して。 それを切って捨てるってんじゃ、五老格の格も落ちるってもんだぜ?」


「…………」


「それでも右治代殿を贄にするってんならよぉ」



 真殿が、銀正の肩に腕を置いたまま、ひらりと手を振るう。

 すると直後背後に気配が立ち、銀正が振り返れば、左厳一門が好戦的な顔で笑いながら、刀に手を置いて立っていた。



「俺ら、力づくで奪っちゃうぜ?」



 直截に、銀正を強奪すると宣う左厳家。

 瞠目する銀正に真殿は喉で笑い、琳円に決断を迫った。


「さぁ、爺。 裁決の時だ。 道を選びな?」










「……本当に、儂を困らせるのが上手い孫たちだよ、お前たちは」


 忌々しげに上がった声に、そこにいた全員が口を閉ざす。

 そして、



「ここまで出てきた時点で、儂の貧乏くじか………」



 琳円はそう言うと、パンと扇を閉じて真っ直ぐ銀正を睨んでいった。


 「分かった、儂が責任を負うてやろう」と。






「沙汰を申しつける」


 声が響く。

 誰もが固唾を飲んで、決定を待った。

 琳円は真っ直ぐに扇で銀正を指すと、張り渡る声で告げた。



「右治代家は廃嫡だ。 家は断絶、美弥狩司衆守護家は、別の家が継ぐ」


「そして右治代忠守白主銀正」


「お前は美弥から追放する。 その身の全ては今日この日から無いものと思え」


「名も、家も、全て。 お前は右治代の名を捨て、今この時からただの銀正として生きる」



 そのうえで、



「銀正、お前のその身を、左厳義任の入り婿として左厳家預かりとする」


「左厳家にて一狩士として飢神千獲をなし、これまでその身に受けた汚辱をそそげ」










 告げられた沙汰が、一瞬理解できなかった。

 でも、

 けれど、

 銀正は、



 ゆっくりと首を回して、その人を見た。

 銀正に同じように眼差しを返してくれる、香流を見た。

 その目に、極まったような喜びがあふれたのを見つけた瞬間。





「おおおおおおおおおおおおおお!!」





 割れんばかりの喝采が辺りを包んだ。

 左厳家も、美弥狩司衆も。

 その場に集った誰もが、満面の笑みで抱き合い、肩を組み、喜びを叫ぶ。

 その轟くような歓喜の渦の中、


「銀正殿!」


 香流が兄の腕を振りほどき、銀正に飛びついた。


 その勢いに耐え切れなかった銀正は、たたらを踏んで尻餅をつく。

 庭先の地面に転がりながら、香流は銀正の首に手を回して、もう一度銀正の名を呼んだ。



「銀正殿」



 想い深く呼ばれる名。

 銀正の手に、ただ唯一残されることになったもの。

 それを、この世でたった一人の人が呼ぶ。

 銀正はその無上の喜びに、言葉を忘れて手を伸べた。



 ようやく。


 ようやく、




 銀正はこの肩を、しがらみなく掻き抱くことができる。







 ゆっくりと香流が離れる。

 目前に、何よりも願う笑みがある。

 その目が銀正だけを映し、


「これで、あなたを望んでもいいと、言ってくださいますか……?」


 花開くように溶けて言った。

 銀正は一瞬だけ想いが溢れるのを堪えると、香流の頬をそっと撫で、泣きだしそうに微笑んで呟いた。


「私が言うべき願いだ、それは……」


 落ちてくる香流の髪が揺れる。

 その揺らめきを風がさらい、見上げた笑みは極彩色に色づいたように銀正を包んだ。


 香流の両手が銀正の頬を支え、喝采を叫ぶように続けた。


「あなたは、もう何を望んでもかまわない。 何もない、でもそれは、なんでも得られるということ」


 でも、もし叶うなら、


「私を望んでください」


 きっと、どんなことがあっても、



 私はあなたの隣に並び立つ肩となるから。








 手を伸ばす。

 細い体を、もう自分のものだと実感するために抱きしめる。

 しかし、それより早く。



 愛しいその人の唇が銀正の言葉を奪い、泣き濡れた息が、深く深く交じり合った。

 







 ずっと。



 ずっと置いていかれぬようにと。



 たどり着きたいと願った場所に、たどり着いた。






 共に歩く人と並び立つ場所に、立つことができた。




 長い長い苦悩の夜の果ての、







 まばゆいばかりの、目覚めの口づけであった。

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