六十四

 その声を聞いた瞬間、銀正は全身を震えが駆け抜けたのを感じた。


 あれは。

 あの声は、昨夜、夜通し銀正を犯し続けた声。

 例えようもなく狂おしく、胸掻きむしらんばかりに希求する人の声。


「待ってください、その処分、私にも発言の権利を」


 香流だった。

 袴に刀。

 狩士姿の香流が、ゆっくりと近づいてくる。

 銀正はその姿を腹の底に熱が溜まるような身悶えを覚えながら見つめた。

 目が離せない。

 囚われる。

 昨晩、香流に自分の心を看破されてから。

 殺したはずの心が息を吹き返して暴れ狂う。

 あの人が欲しいと啼いている。



 だが、香流は銀正を一度たりとて見なかった。

 その代わり、そっとその傍らに寄り添うように立つと、決然とした顔で言った。



「この方は、まだ正式ではないが、私が比肩にと乞うた人だ。 その処分に、発言の許可をいただきたい」



 瞠目した。

 この期に及んで。

 あれほど拒絶したのに。

 香流は銀正との縁を切ったつもりになっていないのだ。

 咄嗟に銀正は声を上げようとした。

 もう、自分たちは関わり合うべきではない。

 放って置いてくれと、告げるつもりだった。

 しかし、








「香ちゃんんんんんんんんんん!!」


「!!?」



 激しく叫ばれた声に、何もかも邪魔をされる。

 大音声で上がった叫びは銀正の鼓膜を射抜き、きーんと不快な残響を置き去りにした。

 なんだ、何事だ?

 痛む耳を押さえることもできず、銀正が顰めた顔を上げると、




 あの五老格の老爺が、目にも止まらぬ速さで香流に抱き着いていた。


 それはそれは熱烈な抱擁だった。






 状況についていけなかった思考が、銀正に唖然と口を開かせる。

 だが、抱き着かれた香流は、平然としていた。

 そしてため息まじり、呟く。




「そう興奮なさると持病に響きますよ、








 

 御爺様。


 ――――御爺様??







 落ちる、静寂。








「御爺様ああああああ!!??」





 驚天動地。

 驚き惑う声がそろってあがった。

 声は、美弥狩司衆一同だ。

 近衛組と左厳一門は、さもありなんとばかり、肩を竦めている。

 唖然、茫然。

 びりびりと反響した叫びに顔を顰めた真殿は、「そーだよ」と状況が呑み込めていない美弥の狩士たちに顔を向け、


「うちの親父、つまり左厳当代の嫁は、この琳円爺の末娘なんだ。 俺らはこの爺の孫って訳」


 凄まじい暴露を落としながら、真殿は香流に抱き着いて離れない琳円を引きはがした。


「いつまで抱き着いてんだクソ爺」


「離せ真殿、いつぶりに再会できたと思っている! もう数か月も会ってないんだぞ!?」


「たったそんだけじゃねーか! いい加減孫離れしねーかこの爺。 香流ももう十九だぞっ」


 離せ、離れろ、と言い合う祖父と孫。

 一方で驚嘆する銀正は、そうかと腑に落ちていた。

 最初に真殿と琳円に抱いた違和感。

 あまりにも馴れ馴れしい距離、その顔つき。




 それは、血のつながりを感じさせる何かがあったからだ。




「五老格と、縁故なのか……?」


 銀正が呟けば、横で香流が頷き、ため息まじりで琳円たちに声をかけた。


「いい加減になさってください、御爺様。 今は大切な話をせねばならぬ時」


 騒ぐ二人をたしなめた彼女に、真殿に首の後ろを掴まれていた琳円がはっと顔を向ける。

 そしてまなじりを下げ、甘ったるい微笑みを浮かべた。


「ごめんよ、香ちゃん。 久しぶりだね? 元気だったかい?」


「はい、元気ですよ。 御爺様も息災ですか?」


「元気元気! 香ちゃんに会ったら旅疲れも吹き飛んだよ!」


 相変わらず母に似て可愛い子だ、わしの自慢の孫だ。

 琳円はべたべたに甘い声で香流を褒め称え、横で聞く真殿をげんなりさせている。

 最早思考のついて行かない銀正が固まっていると、真殿は鼻を鳴らして説明をくれた。


「爺は俺らの母上、つまり自分の末娘を溺愛してんだ。 そんで母によく似た香流が可愛くて仕方ないのさ。 聞いているかは知らんが、今回の香流の嫁入りも最初はこの爺が世話してた。 ところがこの爺、香流を自分のそばに置きたいがために自分の家と懇意にしている高家のボンボンばっかり紹介するもんだから、他の五老格とうちの親父様が、右治代殿――――あんたを結婚相手として無理やりねじ込んだんだよ」


 仮にも香流は練霞を発現できる狩士だ。

 女とはいえその戦力を家に縛り付けて殺すのは惜しく、高家で奥方として囲われるよりは、現役の狩士の家――――できれば守護家にでも嫁がそうという話になったのだ。

 真殿の説明が終わると、聞いていた琳円は至極憎らしげに拳を振り回して吐き捨てた。


「儂は香ちゃんに死ぬまでそばにいてほしいだけだ! それを他の老格どもめ、こんな僻地に送り込みよって!」


 真殿に捕まえられたままふんふんと憤慨する琳円。

 余程今回の香流の輿入れに反対らしく「それで、右治代殿だがな……」と真殿が促したのに、



「儂、この男嫌いだから切腹で」


「いや軽いわボケ爺!!」



 そこいらに転がる石ころを眺めるような調子でのたまった。

 唐突なお沙汰に、ぎょっと目をむく美弥一同。

 その目前で即座に真殿が琳円の後頭部に張り手を入れるが、琳円は老人とは思えない勢いで顔を上げてまくし立てた。


「だって考えても見ろ真殿! こいつは儂の可愛い香ちゃんを嫁にもらいながら、許嫁に格下げして、その上、下女の仕事や下男の重労働をさせていたそうだろうがっ そんな男を許せるか?! いいや、儂は許せんな! 切腹!!」


「んな私怨で重要要件決定すんなクソ爺! この話は、今回の美弥の一件に区切りをつけるための、大切な案件なんだよっ もっと公私を分けて考えんかいっ」




「騒がしいですよ、御爺様、兄様」




 完全に流れがおかしい。

 取り繕いもなく私情で切腹切腹繰り返す琳円と、それを怒鳴りつける真殿。

 ついでに冷静に窘める香流。

 突然勃発した攻防に、その場の全員が呆気に取られていた。

 銀正は固い覚悟でこの場に臨んでいる自分の身が、老爺の孫可愛さからくる私怨で決定されようとしている状況に言葉が無い。

 騒ぎまくる左厳家身内のやりとりを呆然と見上げた格好で、陶磁器よろしく固まってしまっていた。

 しかし、


「ごほん、」


 おかしな具合に盛り上がる空気に水を差すように、咳払いが一つ。


「失礼、このまままでは話が進みません」


 近衛の頭領だった。

 男は騒ぐ真殿と琳円を引きはがすと、周囲を一瞥。

 琳円の侍従が用意していた椅子に老爺を促し、


「早速ですが、話を始めさせてください」


と、断固として言った。

 そして静粛にすることを無言で告げ、



「これより、罪人右治代忠守の裁量に入る」



 厳粛に言い放ったのだった。






 *






「これより、美弥狩司衆頭狩、右治代忠守の処分についての裁量を行う」


 整然と立ち並ぶ狩士たち。

 それを前に、冷たい顔で罪人を睥睨する裁定者。

 間には、縛られた罪人。


 誰もが固唾を飲んでその場に立ち会っていた。





 落ちる沈黙と、衆人環視の中。

 銀正は、ぐっと顎を引いて男の声を聴いていた。

 始まる。

 いや、ついに終わりが来るのだ。

 ずっと。

 ずっとこの国を守ろうと耐え忍んだ日々に、安息の終わりが来る。

 背後に立つ誰もが、最早言葉もなく銀正の背を見ている。

 みな、この後出る沙汰の凡そを理解している。

 それでも、聞き届けずには始まらないのだと、銀正の前に立つ近衛頭領と琳円を見つめていた。


 この裁判の開始を宣言した男は、全く顔色を変えぬまま続けた。


「――――右治代忠守の罪状については、皆知っての通りだ。 この者は長らく美弥を飢神の支配下にあることを許し、多くの民をその飢神に喰わしてきた。 守護家当主として、一狩士として、その悪行、許し難いことこの上ない」


 男の断定に、苦い沈黙が落ちる。

 銀正はその通りだと瞑目して顔を俯けていたが、


「ですが、それは訳あってのこと。 情状酌量の余地はあるはずです」


 近衛頭領の宣告に、香流が待ったをかけた。

 はっと顔を上げる。

 香流は真殿と並んだところから、近衛頭領を真っ直ぐに見て挑んで言っていた。

 しかし、近衛頭領は冷然とした面持ちのまま、香流を細い目で見て断じる。


「いくら理由があろうとこの一件、この者の背負う立場が無罪放免を許さん。 この者は美弥狩司衆頭目として、責を示さねばならん」


 言いながら、そうでしょうと言いたげに近衛頭領が琳円を見る。

 琳円は扇で口元を隠しながら、すっと目を眇めた。


「……近衛の言う通りだ。 国の守護を預かる者として、この男は命をもって償いをする必要がある。 安易な情けなどでこの罪見逃せば民にも示しがつかぬし、狩司衆の威信にも関わる。 だからな、香ちゃん、」


 琳円は香流を見て、先ほどの溺愛する老爺とは似ても似つかぬ冷酷な顔で首を振った。


「香ちゃんがどんなに望んでも、この男をここで生かす選択をするわけにはいかん」


「この人が、これまでどれほどの苦悩と共にこの国を守って来たか…… その苦渋を理解してもですか?」


 問いを琳円に返しながら、香流は寂しい顔で目を細める。

 老爺と似たその顔。

 琳円は仕方なさそうに息を吐いて、


「それが、責ある者の務めだ」


 無情な沙汰を言い渡した。



 誰もが、この後続けられる言葉を脳裏に浮かべた。

 銀正すらも。

 しかし、










「分かりました」


 続いたのは、香流の頷きだった。

 その声を聴いた瞬間、俯いていた銀正は安堵した。

 銀正の道は決まった。

 香流もそれに同意し、理解したと思ったのだ。



 そして、



「なら、この人の介錯は私が行います」



 続いた声に、ぱっと目を見開く。


 衝動的に、顔を上げていた。


 香流がいた。


 銀正のすぐ横に、香流がいる。


 その手は刀に手をかけ、じっと銀正の命を見ていた。



「この人が、腹を召すというのなら、」



 もう、それしか道はないのだとすれば。


 だとするなら、



「この方の首は、私が落とす」



 長い苦痛の夜の果てに、この人に安寧を。






「私が、この人を楽にして差し上げる」













「いいのかい?」


 琳円が、香流に確認する声がした。

 銀正と香流はじっと見つめ合っていた。

 じっと見つめ合ったまま二人は、


 同時に想っていた。




 この人のためなら、

 この人になら、




「「構いません」」











 銀正の縄が解かれる。

 目の前に、すでに用意されていた腹を切るための短い刀。


 銀正は、じっと香流を見ていた。

 自分の最期を看取ってくれると言ってくれた人を。

 自分のために心を殺し、その手を穢してくれると言った人を。


 香流がたすきで袖をまとめ上げる。

 その所作すら銀正の目を奪い、魅了した。

 刀を抜き去り、静寂に立つその姿。

 あまりにも美しい銀正の死。


 ああと、狂喜にも似た息を吐いた。


 あなたがいる。


 あなたの手で死ねる。


 それはなんて、





 なんて、勿体ない最期だろう。









「これより、右治代忠守の自刃を許す」


 近衛頭領の申し渡す声。

 その声すら、銀正にはわずらわしかった。

 もう、ただ香流だけ。

 この美しい死だけがあれば、もう自分は、



「(何もいらない)」



 刀を取る。

 最後に、香流を見上げた。

 その真っ直ぐで触れがたく、求めずにおれない顔を見た。


 そして笑う。


 万感込めて、銀正は笑った。



「……どうか、よろしくお願いします」



 香流は頷く。

 それだけで、もう、自分は、




 銀正は、幸福だった。





 だから、次の瞬間。






「御心配召されるな、一刀で終わらせます」



 続いた言葉に、








「終わりましたら、私も後を追います」




 地獄に突き落とされた気がした。

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